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ごとり、と、目の前に何やら太いものが転がった。
それは切断された毛むくじゃらの脚で、青い粘液を吐き出しながら、大蛇のようにのたうちまわるのだ。頭上では、悲鳴とも咆哮ともつかない声が響き、家全体が激しく揺れた。
「だいたいお前さんは、うかつすぎるよ。おれが入れなかった部屋に、なぜ、おれとどっこいどっこいのゼイロクが入れたのか、ちっとは考えるべきだったんだ」
ヘンリー王の剣は、すでに鞘に収められていた。
家具をいくつも叩き割り、化け物の足を一本切り落としたにもかかわらず、かれは息ひとつ切らしていなかった。ふだんはただ歩くのさえ、ふうふうと難儀そうなのに、ひとたび剣を抜けば底抜けの体力を発揮する。ジェシカ戦の時もそうだったように。
いやそれよりも、もっと不思議なのは……
「避けたほうがいいな。化け物の下敷きになりたくなければ」
少女を抱いたまま、反射的に横へ飛び退いた。天井から落下してきた巨大な塊が、すれすれのところで、床に叩きつけられた。さらに奥まで退避して、見たくはなかったが、その闇を捏ねたような、黒い塊へ目を向けた。
脚を入れて十マリートはあるだろうか。毛むくじゃらの大蜘蛛が、小刻みに体を震わせながら、威嚇するように低く身構えていた。その頭部にくっついているのは、蓬髪を振り乱した、タム・ガイの首だった。
「ここはおれの家だぞおおらあああああああ!」
尖った歯。紫色の舌を剥き出しにして、タム・ガイは叫んだ。右の二番めの脚が半分に切られたまま、そこから粘液をしたたらせていた。そうだ。どれほど腕の立つ剣術使いにも、人鬼は斬れないのではなかったか。
驚きの目で振り返ると、ニヤリと笑ってビア樽は言う。
「その点は、ぬかりねえや。退路は確保してあるぜ」
「闘うんじゃないのか?」
「あたりめえだ。こんな気色の悪い蜘蛛野郎と、わたりあうのはごめんだ。ひ弱なお前さんにも、女の子を抱いて走る甲斐性くらいあるだろう」
これからという場面で、逃げるのか。ぼくは呆れたが、かといって反論している暇もない。少女を横抱きにしたままマントをひるがえすと、ビア樽が後に続いた。
蛍貝の灯りを頼りに、相変わらず曲がりくねった廊下を、やみくもに走る。走る。ヘンリー王の間の抜けた足音が続き、その後ろから、床板を粉砕しつつ、聞くに堪えない罵詈雑言を吐き散らしながら、狂った大蜘蛛が追いかけてくる。
もちろん、どっちが出口かなんて、わかるわけがない。それにいったい、この宿屋は宮殿なみの広さがあるのか、角を曲がるたびに、見知らぬ廊下があらわれた。
「だめだ。行き止まりだよ」
ここで見た中で最も大きな、両開きの扉に行く手をはばまれた。取っ手をつかんで、押しても引いても、頑として動かない。鍵穴さえ見当たらないが、それゆえに、外へ通じているのではないかという、期待が生じた。
間もなく、タム・ガイが追いついてきた。ヘンリー王は対峙して、剣の鞘に手をかけた。そのままくるりと振り返り、ドアの上を斜めに薙いだ。蒼白い閃光が、長剣の軌跡を描いたときには、もう本体は鞘の中。
切断された扉が、向こう側へゆっくりと崩れ落ちた。タム・ガイが、また吠えた。
「ここはおれの家だぞおおらあああああああ!」
扉の向こうへ駆け込んだまま、ぼくは愕然と立ち止まった。期待していたような星空は、まったく見えなかった。それどころか、この家の中でも最も暗く、じめじめした地下室のような穴倉が、ぽっかりと広がっていた。
あくまで天井が高く、上方は闇に溶けていた。白い靄のようなものは、蜘蛛の巣だろう。部屋の広さは、ちょっとした礼拝堂に匹敵した。四方を灰色の石で囲まれ、窓ひとつなく、天井のみならず、至る所に、ぼろぼろの蜘蛛の巣がわだかまっていた。石畳の上には、白っぽいものが、無数に散乱していた。
あるところでは、うずたかく盛り上がり、あるところでは粉々に散り敷かれている……あまりにも多すぎて、しばらくは、これらが人間の骨だと気づかなかったほど。
どうやらこの部屋が、タム・ガイの「巣」であるらしい。情けないことに、ぼくたちはみずからそこへ飛び込んでしまったようだ。長大な脚を蠢かせながら、人鬼が部屋の中に這い進み、またしても吠えた。
残響が、無数の髑髏の叫びのように、こだまを返した。




