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 ビア樽は城壁の上に転がっていた。

 どこに寝泊りしているのか。そもそも決まったネグラがあるのかどうかさえ、疑わしい。夜のズ・シ横丁でヘンリー王を見かけるときは、たいてい道端に転がっているのだから。

 やつが寝ているのは、たいてい酔っている時であり、酔っているから道端で寝ても寒くないのだという。では、酒にありつけなかった夜は、どこにいるのか。必ずしも、横丁のどこかに転がっているとは、限らないのではないか。

 そんなことをぼんやり考えながら、ガルシアの上から城壁を見上げたとき、月光に浮かぶ奇怪なシルエットを見たのである。

 夜な夜な怪物が出て人を食うといわれる、ザアク門の近くである。さすがにぼくもぎょっとして、あれも妖怪変化のひとつではないかと考えたほどだ。けれどすぐに正体に気づき、苦笑をもらすと、崩れかけた門の中へと引き返した。

 ガルシアから下りて、城壁に穿たれた階段をのぼった。踏みしめる先から、朽ちかけた煉瓦が、ぼろぼろと崩れてくる。隅にうずくまっている、取るに足らない妖物を何匹か見かけたが、ひと睨みして上をめざした。衰えた月の王国を周囲から浸蝕するように、空には、おびただしい星がちりばめられていた。

 ぼくは爪先で、ビア樽の腹を小突いた。

「妖物に食われちまうよ。こんな所で腹を出して寝てると」

 こいつだけは食えないだろうが。と、心の中で付け足して、独り笑った。たとえ転げ落ちたところで、毬のように弾むのではないか。ヘンリー王は、このたびは意外にすんなりと、薄目を開けた。

「酒、持ってるか?」

「少しばかりなら。あとは行く先々で、調達するつもりさ」

「そんなもんだろう」

 のそのそと、かれは起き上がり、半眼のまま腹をぼりぼりと掻いた。相変わらず剣帯がだらしなく垂れ下がり、革の鞘の先を引きずっていた。

 階段の妖物たちは、一匹もいなくなっていた。降りてしまったところで、ぼくは尋ねた。

「歩いて着いてくる気かい」

 酒を入れた皮袋を受け取りながら、ヘンリー王はつまらなさそうにうなずいた。夜空に斜めにかたむけて、袋の中身を体に流しこむと、袖で口をぬぐい、巨大なしゃっくりをひとつ。

「そんなもんだろう。あんたがギャロップで駆ける気なら、尻尾にでもつかまっているさ」

 ビア樽に尻尾をつかまれては、ガルシアもさぞ迷惑だろう。

 けれどビア樽の言うとおり、ガルシアに鞭を入れる場面は、まずないだろうと、ぼくも考えていた。彼女がそれだけ従順という意味ではない。精霊探しは一種の儀式なので、基本的にジンバは、ゆったりと歩ませる。自身で歩いてもよいくらいだが、あえてジンバに乗ることもまた、儀式の一環といえた。

 ちなみに、巫女たちが行う「精霊封じ」が、これと逆の意味合いをもつ。精霊を乗り移らせた、あるいは乗り移られた巫女は、ジンバや乗馬にまたがって、ひたすらさまよい歩く。そうしてある土地を精霊が気に入れば、ようやく身から霊を下ろすことができ、その地に神殿が築かれる。晴れて巫女は神官の地位を得て、予言や神事にたずさわるのだ。

 数日でたどり着くこともあれば、何十年もの間、世界じゅうをさまよう場合もあるとか。

 城門を離れて、ガルシアが歩むにまかせた。剣と自身の円い影を引きずりながら、あやしげな足どりでヘンリー王が従った。むろん、今夜ここで出会ったのは、まったくの偶然である。これもコイワイの言っていた「エニシ」なのかもしれず、さらには、まだ見ぬ善鬼の意思が、はたらいているのかもしれない。

 右手の向こうに、ロム川が銀色の巨大な帯と化して、ずっと横たわっていた。その夜はとくに何事もなく、明け方近くになって、荒野の一角で眠りについた。

 日が高くなる頃に目を覚まし、簡単な食事をとる。軽装で出てきたため、水も食料も、早くも尽きかけていた。酒にいたっては、ゆうべのうちに、ヘンリー王がすっかり飲んでしまっていた。夕飯にありつきたければ、しかるべき宿を見つけるしかなさそうである。

「一応訊いてみるが、アテはあるのかい」

 相変わらずつならなさそうに、ヘンリー王が尋ねた。

 見わたす限りの荒野である。赤茶けた土の所々に、ウワバミ草がひょろひょろと生えているに過ぎず、指で触れるとバネのように弾けて、種子を粘液ごと遠くまでまき散らした。すっかり風化した神殿や神像の残骸が、唐突に横たわっているかと思えば、砂トカゲが美しい緑色の背をきらめかせて、素早く身をひるがえした。

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