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驚いた。そんなことは、ダーゲルドから一度も習わなかった。
が、そもそも掟を破ってまで主人に仕えようした使鬼など、これまで存在せず、ゆえにデータがなかっただけかもしれない。しかし、いったいなぜ、そんなレアな情報を、ハーミアが握っていたのだろう。
ヘレナ自身でさえ、知らなかったのだ。
(愉快でさえあれば、どうでもよいのですよ)
皮肉にいろどられたザミエルの声が、脳裏によみがえった。ハーミアが封印を破るよう、手引きしたのもザミエルなら、ヘレナが弱体化している情報を吹き込んだのもまた、やつではないのか。だとすれば、厄介なデモンに見込まれたものである。やつは明らかに、ぼくと使鬼たちとの諍いを面白がっている。
崩壊した竜蛇の破片。光の粉はまだ降り続けていた。まるでヘレナの失った力を象徴するように。敗北した彼女の肩を、ハーミアは足で踏みつけた。
「さっきお姉さまは、わたしを本気で襲いましたわね。その罰は、受けていただきますわ」
ひとしきり踏みにじる快感に酔いしれたあと、ハーミアは数歩下がり、風の杖で地面をひと打ちした。まるで自身が叩かれたように、ヘレナの肩がぴくりと震えた。間もなく石畳を割って、何本ものイバラの蔓が伸び、ヘレナの全身に絡みついた。
架刑にされたように、ぐったりとうなだれた彼女は、四肢を広げた状態で宙吊りにされた。ハーミアの杖の先が、彼女の頬をなぶった。
「素晴らしい眺めですわ。お姉さま、わたくし、一度でよいから、お姉さまをほしいままに、もてあそんでみたいと思っていましたの」
「あなたらしい趣味ですね」
薄目を開けて、ヘレナは苦しげな笑みを洩らした。ハーミアは片頬を引きつらせ、風の杖をまた地面に打ちつけた。
「減らず口を!」
イバラがうごめき、囚われた体を強く締めつけ、引きしぼった。ハーミアは拷問のエキスパートだ。これをやられたら、どれほど頑健な者でも、悲鳴を上げて許しを乞うであろうところ、彼女は歯を食いしばり、わずかに呻き声をもらしただけ。
「そう。それでこそ、わたくしのお姉さま。いつも強くて、毅然としていらっしゃる。どんな苦しい状況におちいっても、決してお逃げにならない。わたくしはずっと、そんなお姉さまに憧れておりました。弱虫のわたし。逃げてばかりのわたしは、そんなお姉さまを見るたびに、自身の不甲斐なさを思い知らされましたわ」
「逃げることもまた、戦術のひとつです。決して、恥ずべきことではありません」
「お優しいのね。それとも、同情をさそうという、それもまた戦術のひとつなのかしら」
「あなたが決めることですよ、ハーミア」
わっ、と声を上げて、ハーミアはヘレナの体を打ち据えた。彼女の歯の間から、くぐもった悲鳴がもれた。さらに二度、三度と、風の杖が振り下ろされる。衣服が無残に裂かれ、徐々に血に染まってゆく。
いけない。
このままでは、ヘレナは精霊としての形を保てなくなる。人間でいうところの死を意味するが、精霊は生物のように死ぬことはない。一時的にエナジーが四散するものの、再び集まって、いずれ復活するだろう。ただし、現在彼女はぼくの使鬼として戦っているのだから、彼女が敗れれば、第一の掟が有効になる。
すなわち、破壊された彼女のエナジーを、ぼくはすべて身に受けなければならない。そうなれば、所詮ヤワな人間に過ぎないぼくの体など、ひとたまりもない。これがいわゆる使鬼に「食われる」という現象である。
傍観者であったぼくは、ここにおいてようやく慌てた。我ながらとんでもない薄情者だと思うが、ヘレナの身を案じていなかったわけではない。ただ、ヘレナとハーミアという、姉妹のような使鬼の愛憎が興味深く、また囚われ、苦痛に喘ぐヘレナの姿が美しかったからだ。
いずれにせよ、とんでもない薄情者に違いあるまい。
「やめろ、ハーミア!」
たしかに彼女は、ヘレナを打ち据える手を止めた。肩をわなわなと震わせ、凍りつくような視線をぼくへ投げかけた。
「だれに命令しているおつもり? フォルスタッフ」




