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それにしても――
ぼくは、「あれ」が消えた辺りへ、目を凝らした。無数の剣先を浮かべたように、水面はさざ波を立てている。実際に見たのは、鋼色の尾鰭と背鰭だけなので、本体がどんな形状をしているのか、わからない。ただ、もし水獣なら、尾鰭が身体に対して横についているはずだ。が、あれは縦だった。
だとすると、やつは「魚」だ。
いや、あり得ない。ぼくは独り、首を振った。十マリート超の淡水魚など、化け物にほかならない。
「ヘレナ、おまえはなぜあれが、キューレボルンだと言ったの?」
彼女は顎に手を軽く添え、考えこむ仕草。いつのまにか、戦闘モードが解けており、豊かな黒髪はうなじの上で切り揃えたように、ひるがえっていた。
「恐怖と同時に、親密さを覚えました。それで咄嗟に、眷属を意識したのかもしれません」
「キューレボルンを見たことがある?」
静かに首を振り、片方の耳の後ろに髪を掻き寄せた。中空を見つめる瞳が、ゆっくりこちらへ向けられた。漆黒の瞳は、角度や光の加減によって、瑠璃色に輝く。
「分身には、何度か。本体に行き逢ったことはございません。もし、オリジナルのキューレボルンに行き逢ったときは、わたくしたちが消滅する前兆だと伝えられます」
フジロ色の薄い生地が風圧で貼りつき、小柄だが充実した身体のラインを際だたせていた。右肩と腰に巻かれた、三角形の革飾りは青く染められ、細い鎖状のヘッドティッカから額に垂らされた石もまた、薬指の指輪同様、青いのだった。
彼女たち精霊にとって、衣服は装甲の一種なのだろう。現に、ミランダとジェシカは部分的ではあるが、金属の甲冑をつけている。その極北がヴィオラで、ビスクドールみたいなドレスを好む。この最強の使鬼に、ダーゲルドは少年の恰好を強いていたが……また同じ精霊であっても、円眼鬼のようなフンドシ一丁の化け物もいるが、やつの場合、隆々たる筋肉が装甲の役目を果たしていると覚しい。
ぼくの使鬼たちが何を着るかは、基本的に彼女たちのセンスに任せてある。言い換えると、命令さえすれば、円眼鬼と同じ恰好をさせることもできるのだが、あいにくそんな趣味はない。ずぼらなジェシカが裸同然の姿であらわれるたびに、叱っていたくらいだ。
ぼくは、美しいものが好きだ。強いからといって、飛蟲魔や円眼鬼のような使鬼を持つ気にはなれない。使鬼たちが美しいかどうかは、魔法使いとしての沽券にかかわる問題なんだ。
ヘレナはどうやら、左右非対称の衣装を好むようだ。今は左肩だけを露出させ、右手はふんわりと袖に包まれている。スカートの裾は斜めに裁たれ、貝の飾りをつけた右側が踝まで達しているのに対し、左は太股まで露わである。満足ゆく眺めだ。
「どうかなさいました?」
「ふと思ったんだが」
「はい」
「いつか、ぼくのミワが衰えた後も、きみたちはぼくのために、着飾ってくれるだろうか」
くすりと、ヘレナは肩をすくめた。
「ミランダなら、迷わずそうするでしょう。むかしから、最も洒落者の精霊は、火妖だと言われておりますから。美しく着飾った上に、最高の笑顔を添えて、ご主人さまを一撃のもとに……」
「目に浮かぶようだよ」
ぼくも笑ってみせたが、そう単純な問題でなかったことを、百数十年後に思い知るだろう。
ざっ、という、異様な水の音を聴いて、もう一度水面へ目を向けた。漆黒の湖水は、不定形の巨大な生き物のように、のたうっている。キューレボルンという言葉が、雷鳴とともに、自身の中で響きわたる。鎌形の、まがまがしい月を間近で見るような背鰭が、ほんの一瞬、あらわれて消えた。
同時に風が強く吹き付け、向こうに黒々とうずくまる砦を唸らせた。無数の亡霊が、中で嗟嘆の声を上げているとしか思えない。不気味な音は低く、高く、まるでぼくたちを呼び寄せているように、いつまでも尾を引いた。
「ご主人さま、ここにいつまでも留まっていては危険です。あの怪物が味方であるとは限りませんし、いずれダーゲルド殿は、空域から第二波を送ってくるでしょう。こうして魔風に打たれているだけでも、お体に障りますから」
奇怪にゆがんだ、悪意の塊のような荒れ城を、ぼくは凝視した。
「あの砦が、嵐や海魚の襲撃に比べて、どれほど安全か、知れたものじゃないよ」
「理解しているつもりです」
「夜の吟遊詩人の歌うとおりなら、ぼくたちはお互いに殺し合うかもしれないんだよ」
「それでもわたくしは、ご主人さまをお守りします」
ヘレナがぼくの手を握った。小さくて、ひんやりと冷たい、けれど力強い手だった。
「まいりましょう」




