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「まあまあ、よくお越しくださいました」
呼び鈴を鳴らすと、夫人みずから、満面の笑顔で出迎えたものである。
小奇麗な玄関ホールは、いかにも「プチブル」といったところ。ひとつだけ趣味のよくない置物が立っているかと思えば、近衛兵のような赤い服を着て、ぴんと背筋を伸ばし、しゃちこばっている一匹のヤフーだった。
ヤフーの顔は馬そのものであるが、やはり目が異なる。みょうに人間的な視線が、ぎょろりと投げかけられるのは、やはりあまり気持ちがよくない。
「さっそく、お邪魔させていただきました。本来なら、こちらからご挨拶にうかがうべきでしたけど。引っ越しやら何やらで、なかなか落ち着かなかったものですから」
花束を手渡しながら、レディ・アモネスが言う。堂に入った女装、いや演技というべきか。あれほど嫌がっていた男と同一人物とは、とても思えない。以前、王立劇場あたりに立っていたのではあるまいか。
驚き顔で見上げるぼくに、片目を閉じてみせた。花束を抱えた夫人は、至って上機嫌である。
「わかりますわ。わたくしどもも、この新しい区画に移ってきて、日が浅いのです。右も左もわからないのは、お互いさまですわね」
うっとりと顔をうずめるように、匂いをかいだ。若くはないが、充分美しい。もし森の外へ連れ出せば、求婚者が殺到するだろう。
体の他の部分は微動だにしない、ヤフーの視線に見送られながら玄関ホールを抜けた。ドアを開けたのは、そこに待機していた小間使いだ。細長い廊下を歩きながら、ぼくと伯爵は目顔でうなずきあった。
ボーデン夫人も、この区画では新参者だと言ったから、まずは幸先よい。
どうやらここ、サフラ・ジート王国は、貝の螺旋を描きながら、外側へ外側へと膨張してゆくものらしい。必然的に、貝の中心部ほど古い区画ということになり、女王バブーシュカの宮殿が居座っているわけだ。
モグラ殿の話や、偵察に出たヘレナの見聞を総合すれば、この樹上の女人国は、バブーシュカたった一人によって生み出されたものと思われる。彼女は男の手を借りずに女を生み、その女もまた女を生むことで、国は千年の時を経ながら膨らんでいった。貝殻の螺旋を描きながら。
蟻女や馬男たちの出自については、あまり考えたくなかった。
お菓子の包み紙のような壁紙で、覆われた廊下。窓はなく、真昼なので燭台に火も入れられていない。その仄暗さが、すぐに指輪の異変に気づかせた。
ぎょっとして、左手を目の前にかざした。使鬼が抜けて、すっかり輝きをなくしていた小指の指輪が、ぼぅっと、緑色に発光していた。
風妖ハーミア!
イコとかいう、あの見かけによらず強力なグレムが動かすボッカーに敗れ、飛龍とともに墜落したはずだが。消滅していない証拠に、指輪は外れないまま。どうやらまた性懲りもなく追ってきて、近くまで来ているとおぼしい。溜め息を洩らしたとたん、人さし指の、真紅の指輪が激しく明滅し始めた。
(逆リク? ミランダがなぜ?)
レムエルを罵った一件といい、事あるごとに突っかかってくる。今度は何が言いたいのか。ともかく、こんな絵に描いたように美徳的な家の中で、燃える大剣を引っ提げた、衣装の露出度も高い悪鬼など出せるわけがない。
無視していると、機嫌をそこねたように、ぷいと明滅はおさまった。いつの間にか食堂の前についており、目をまん円くしたボーデン夫人の眼差しとぶつかる。
「お珍しい指輪ですのね。さぞかし、値打ちがありましょう」
顔が引きつった。考えてみれば、こんな樹の上の世界に、地下から掘り出した鉱物がそうそう出廻っているとは思えない。下手をすれば、これだけで尻尾を出したことになる。が、夫人は興味津々な態度をはしたないと自重したのか、それ以上追求せず、ぼくたちを部屋の中へいざなった。
たちまち花束みたいなものが、駆け寄ってきた。
「まあ、こんな綺麗な子が近所に住んでいたなんて! よかったわ。わたし、これからは、お姉さまの本ばかり読んで、過ごさなくちゃいけないものとばかり。だって聞いてくださる? お姉さまの本ときたら、挿絵がひとつも入っていないのよ。憂鬱になってしまいますわ」
そう叫びながら、赤いドレスの女の子はぼくの手をとり、ぴょんぴょん飛び跳ねていた。
「ほらほら、初めてお招きしたお客さまの前ですよ。はしたないまねはお止しなさい、マジョラム」
見た目のぼくと同い歳くらいだろうか。小柄で、赤い髪を太いお下げに編んだ、愛くるしい顔だち。マジョラムと呼ばれた少女は、ぼくにだけわかるよう、悪戯っぽく舌を出すと、スカートをつまんで、精巧な自動人形のようにお辞儀をした。
「はじめまして。フォルスタンテさま、でしたわね」




