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 ボーデン夫人が帰ると、「元」伯爵は椅子から立ち上がり、下品なあくびをひとつ。黒猫は敏捷に飛び降りて、テーブルの脚に身を寄せた。

「まったく、なんてまどろっこしいんだ、女ってやつは。よお、今日からおれとあんたは義兄弟だ。仲好くやろうぜ。ってえ、肩の一つでもぶっ叩きゃ、それで済む話じゃねえか」

 かれの一撃を、ぼくは巧みにかわすことができた。やはりガヴァネスの姿のままでは、うまく立ち回れないらしい。

「砂漠でシンバを得たようなものですよ。向こうから交際を求めてくるなんて、極めて好都合ですからね。ぼくたちは、この国の情報に飢えているんです。伯爵、いえ、レディ・アモネス。何を狙っているのか知りませんが、あなたにとっても」

 ル・アモンは眉をひそめたが、あえて反論しなかった。ヘレナは背中を向けて、肩を震わせた。笑っているのだ。猫を指さし、伯爵は澄んだ声を出す。

「しかし、こいつがおれたちにハクをつけてくれたことは、否めないな。部外者や侵入者ならば、さすがに慣れた猫まで持ちこめやしない。なあ、ボレ。こいつもおまえのアイデアなのかい」

 衣装箪笥がひとりでに開き、辺境の神のように、モグラ殿が鎮座していた。はたはたと、長い耳が揺れる。

「さすがに、猫の手を借りるところまでは、頭が廻りませんでしたなあ。なんでこいつが居座っているのか、こっちが訊きたいくらいで」

「ふん。ならばおれたちで、名前を考えてやらなくちゃ」

 どうやらよほど、ウマが合うらしい。伯爵が身を屈めて手を差し出すと、猫は寄ってきて、華奢な指先に頬ずりをした。乱暴な言葉づかいさえなければ、上流階級を描いた、一枚の絵にほかならない。

「プルートゥ、てえのはどうだい? 地獄の大王の名だ」

 なんて悪趣味な、と思ったが、たちまち黒猫はうれしそうな一声をあげた。この猫が鳴くのを聴いたのは、今が初めてだ。

 ともあれ、この国の行儀作法が、王国の都市部と、さほど変わらないことは、なんとなくわかってきた。ならば正午の鐘が鳴る頃に、夫人の家を訪ねればよいのであり、令嬢と家庭教師、すなわち、ぼくと伯爵の二人が行くのが、最も自然だろう。小間使い役のヘレナは当然、同席させないのが作法である。

 いかにものどかな、郊外の真昼だ。

 遠くで鳥がさえずり、道の脇の花壇に、蝶がまといつく。ただ、よく注意すると、さえずっているのは、葉叢の「壁」の向こうで、得体の知れない鳥が鳴くのであり、蝶の翅の模様は、都市では見たことのない極彩色。

 やはりここは、妖魔の森のど真ん中であることを、考えさせられた。

 いつミュルミドン蟻兵に捕縛され、女どもの「種」に加工されるか知れず、はたまた、不死身の鉱物人間に何時、襲撃されるかもしれない。こんな所は一刻も早く脱出するに限るのだが、ミワの衰えた今のぼくに、そんな力はない。

 頼みの綱のレムエルは、相変わらず沈黙し続けている。傷ついたヘレナの戦力は、蟻兵一匹ぶんに相当するかどうかも疑問だ。ジェシカは倒された。ハーミアは去った。残るミランダとヴィオラを、味方だと考えるなど、論外。

「なぜ溜め息をつく、美少年」

 呑気そうに、花びらを指先で弄びながら、ガヴァネス=レディ・アモネスが言う。もう片方の手には、花束。ブルジョアジーが食事に招かれた場合、切り花を持参するのもまた作法だ。

「窮地に立たされているからです。伯爵、あなたによって」

「そうかい。まんざら、おれのせいばかりとは言えないと、お見受けするが」

 口をつぐまずにはいられなかった。ボッカーだのフクロウ党だの鉱物人間だの、かれが派手に物騒な事情に巻き込んでくれたのは事実だが、もとは身から出た錆なのだ。

「ともかく、口だけは謹んでくださいよ。どこで誰が耳をそばだてているか、わからないのです。ミュルミドンの能力ひとつとっても、未知数なんですから。いわんや女王をや、です」

「木の葉は耳なり、ってやつか。舌はあらゆる災難の元と言うしな。しかし、大魔法使い殿にも未知のデータがあるのかい」

「妖魔の森に関しては、砂漠地帯以上に、わからないことだらけですよ。一応王国の領土に含まれていますけど、こんなふうに、別の王国が平然と存在する。女王を僭称し、強力な魔兵まで擁している。砂漠の不帰順族どころのレベルではありません」

「だからこそさ。隠されているお宝も、でかいんじゃないのかい」

 ヘレナによって真紅に塗られた唇に、悪魔的な笑みが浮かぶのを見た。ぼくは図らずも、戦慄を覚えずにはいられなかった。

「いったいあなたは、何を求めているのですか。単純に財宝を欲しがっているようには、とても見えません。どうしてもぼくには、それが鉱物人間と無関係だとは思えない。何か最もおぞましい禁忌に触れるもの。千年の間封印されていた、決して開けてはならない扉の鍵を、あなたは求めているようではありませんか」

 風が通り抜けた。

 埃が舞い上がり、巻き込まれた蝶が、極彩色の翅を狂おしく震わせた。どれくらい睨み合っていたかわからない。不意に伯爵は、花で飾られた、小奇麗な家を背に、スカートをちょっとつまんで、作法どおりの見事なお辞儀をした。カナリアのような声が、ほとばしった。

「ボーデンさまのお宅へ到着いたしましたわ。お疲れではございませんか、お嬢さま」

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