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さっそくぼくたちは、得た金で惣菜と食材を調達した。情報収集も兼ねて、レストランに入ることも案にのぼったが、ああいった場所は、見られていないようで、じつは周囲の客からも従業員からも、よく観察されているものだ。サフラ・ジート王国のマナーが、アル・ル・タジール王国のそれと、同一とは限らない。
うっかり紅茶のカップを、ソーサーごと持ち上げて、人目をそばだてては厄介である。そして、この選択が間違いでなかったことを、間もなく思い知らされる。
飛び上がったのは、ル・アモンだった。伯爵らしからぬ行儀作法で、タンドリー・クロックとおぼしい、いかにも庶民的な揚げ物にかぶりついた。たちまち、バネ仕掛けのように宙に踊り上がり、手足をばたつかせた。
毒物が混入していた? ぼくは目を見張ったが、次のかれのセリフで、すぐに事態が知れた。
「なんだこりゃあ? 糖蜜の塊じゃねえか!」
ぼくもおそるおそる、端のほうを齧ってみたが、なるほど甘い。しかも、じつにしつこい甘さで、こんなものを頬張ったら、普通の味覚の持ち主なら、悶絶すること請け合いだ。家の中だからよかったものの、外でこれを演じていたら、たちまちかれの女装が露呈しただろう。
「いや、ぜったい糖蜜の十倍甘いぞ」
ちなみに、ぼくが生まれて百年ちょっとの間、糖蜜というものはなかった。冒険家が辺境から製法を持ち帰って、ようやく王国内に広まったのだ。それまで甘みの代表といえば、虫蜜か樹液であり、当然たいして甘くない。ゆえに、虫蜜の「十倍甘い」糖蜜の登場は、当時の人々を驚愕させたものだ。
と、なんだか年よりの昔語りみたいになったが、むかし、いかに糖蜜が高級品だったか、いかに莫大なカネが動き、その裏で大量の血が流されたか、記憶に生々しい。製法をめぐって、またしてもタジール公との諍いが起こり、あやうく糖蜜戦争が勃発しかけたほど。
「味覚が異なるのでしょうか。ここが女だけの国であることと、無関係ではないのかもしれませんね」
と、ヘレナが冷静な寸評を述べた。
他の惣菜も味見したが、どれもやっぱり飛び上がるほど甘かった。ただ調達した食材そのものが甘いわけではなく、おそらく穀物を蓄えるように、家庭ごとに大瓶いっぱいの糖蜜が、確保されていると予想された。ともあれ、ヘレナが甘くない料理を作ってくれたので、ようやく飢えを満たすことができた。
「そうすると、完全に閉ざされた国ではないのかもしれないね。樹液ならともかく、糖蜜はこんな森では育たないから」
久しぶりに、ソファと紅茶でくつろぎながら、ぼくは言った。糖蜜に限らず、市場で売られていた様々なものが、すべて森で調達できるとは考えられない。ベリー入りなのか、みょうに赤い紅茶を、ヘレナはまたカップに注いでくれた。蜜をまったく入れなくても、茶葉そのものに甘みがあるから、ちょうど好い。
「ええ。砂漠の不帰順族あたりと、大規模な闇取引がなされているのかもしれませんわ」
「しかし、油断ならねえ国だな。いつ、うっかり自分で、化けの皮を剥がしちまわないとも限らねえ」
「わたくし、もう少し外の様子を探ってまいります」
小間使いの姿のまま、ヘレナが出て行って二時間ほど経過していた。
甲斐甲斐しく、料理や給仕をしているぶんにおいて、彼女はダメージを示さないようだ。けれど、ミワが弱まったぼくに、彼女自身の意志で従う時点で、掟、すなわち自然の法則に逆らっていることに、変わりはない。ヤフーにでも襲撃されたら、身を守れるかどうか、おぼつかない。
少々無理をさせすぎたか。そう、後悔し始めたところで、猫が再び顔を上げた。
「夜になると、ずいぶん淋しくなるようです。市場も閉ざされ、カフェや酒場の類いは見当たりません。夜遊びというものは、殿方の発明なのかもしれませんわ」
椅子に座るよう促すと、ヘレナはボンネットをとって、髪を掻き上げた。さすがに疲れたのだろう。けれど、豊かな黒髪が、指の間を滑るさまは、見物だった。ボレがちゃっかり居眠りから覚め、じっと目を注いでいた。
「夜警はいるのかい?」
「それらしきヤフーが徘徊しておりました。それが面白いんですのよ」
くすりと肩をすくめて、彼女にしては珍しい、いたずらっぽい表情になる。
「ひと気のない街路をゆくうちに、どこからともなく、太鼓の音が聞こえましたの。ぽこぽこと、あまり響かない間の抜けた音で。興味をそそられて、音のするほうへ行ってみますと、荒れた空き地に一匹のヤフーが倒れておりますの」
「太鼓の音は?」
「そうなんです。倒れたヤフーが鳴らしていたのですわ。かれら、やけに背が高くて棒杭みたいな姿勢でしょう。ですから、中には転んでしまうと、自分で起き上がれない者もいるのですわ。それで常に小さな太鼓を腰につけておりまして、転べば助けを呼ぶために、ぽこぽこと打ち鳴らすのですわね」




