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どこの街でも見られるような、雑踏があらわれると、そこが市場だった。けれども、そこに女の姿しか見られないところは、どこの街とも異なっていた。
若い娘がおり、年寄りがいる。遊び盛りの少女が、市の雰囲気に浮かれて駆けまわり、母親らしい女に、お転婆をたしなめられている。けれども、男の姿はまったく見られない。
売り手も買い手も、皆女だ。肥った者も痩せた人もいる。貧富や、階級の差も見分けられる。が、総じて整った顔をしている。ボレが出歩けないのも、うなずけるというものだ。目の前では、恰幅の好い女が、一マリート近くありそうな大魚をまるごと、高々と持ち上げて客に示している。
魚を?
ともすれば忘れそうになるが、ここはとてつもなく深い森の、ど真中に位置する。のみならず、高々とそびえる木の梢に、繭のように紡がれた都市だ。魚が、棲むのだろうか? しかもあんな大きなやつが。ぼくは、好奇心を抑えることができなかった。
「これは何という魚ですの?」
世間知らずの令嬢の質問として、不自然ではないはずだ。魚屋の大女は、瞬時、迷惑そうに眉をひそめたが、ぼくの身なりを見るや、満面の愛想笑いを浮べた。
「ホッヂと申しますよ、お美しいお嬢さま。マルト・マルトに似ていますが、味がぜんぜん違いますからね。切りの身を、ちょっとトマト煮にするだけで、そりゃあもう、舌がとろけてしまうくらいですよ」
女が急に愛想が好くなったのは、当然、ぼくを金持ちの令嬢と見たからだ。ヘレナが化けている小間使いにねだって、丸ごと買ってもらえれば儲けもの、といった下心。けれど、自分で言うのもおこがましいが、ぼくの美しさによって態度を変えた面も大きいのではないか。
魅了されたとか、そういうのではない。この「国」では、階級などとはまた別に、美がひとつの力を持つ。金を持っていることと、美を所持していることが、同様なインパクトを人々に与える。そしてそれは後に確認された。
マルト・マルトなら、ぼくも知っていた。
といっても、魔法書に載っていた、古代魚としてだ。沼地に棲み、鰭を用いて木に這い上がったりもしたとか。もちろん、とっくに絶滅しており、石化した骨を削って粉末にしたものは、優良な魔薬の材料となる。
この樹上の都市には、骨が石になるほど大昔の魚が、まだ生きて泳いでいるのか。驚いていると、伯爵、いやレディ・アモネスが、注意を促すようにぼくの肩に触れ、そっと耳打ちした。
「あれが例の、馬人間ってやつか」
相変わらず、ぞんざいな言葉づかいだが、その仕草はじつに気品に満ちていた。
お嬢さま、そのような下品な生き物に、目を輝かせてはなりません。とでも、たしなめているように見えたろう。実際に売り手の女は、この贋ガヴァネスをちょっと睨むと、そっぽを向いて別の客の相手を始めた。
ホッヂに見とれて気づかなかったが、店の奥の暗がりに、異様なものが座っていた。
とにかく背が高い。背筋をしゃんと伸ばしていると、梁に届きそうなほど。ひょろ長い手足は確かに人間のものだが、顔はどう見ても馬である。それが仮面でない証拠に、瞳が動き、口をもぐもぐさせている。まるで絨毯できでいているような、派手な服を引っかけている。
ヤフー。
荷運び兼、用心棒として、雇われているのだろう。また、あの派手な服装からして、生きたアクセサリーでもあるに違いない。ちょうど王侯が宮廷で「飼って」いる、道化のような。
ぼくたちは一旦、店の並びを離れて、樹木の下の、ひっそりとした一角に移った。ちょっと休憩できるように、ベンチがしつらえてあるが、だれも買い物に忙しく、憩う人はいない。夕方の影が市場を濃く包みはじめ、早くも灯をともす店があらわれた。
「ちくしょう、腹が減ったぜ。あんな気味の悪い魚でも、かぶりつきたくなるくらいにさ。もちろん、向こうで旨そうなにおいをさせている料理のほうを、おれの胃袋は熱烈に歓迎するがね」
ベンチの背もたれに、アンニュイな感じに腕をかけ、あくまで小声でそう言うのだ。傍目には、お嬢さま、疲れましたわね、といったところ。ヘレナが言う。
「現金か、食物か。どちらから先に調達いたしましょう? 殺したり傷つけたりせず、あくまで密かに盗むのが、得策かと思われます」
と、平然と言ってのけるところに、悪鬼の本性があらわれている。ぼくは溜め息を洩らした。
「だろうね。いかにもお金がありそうな貴婦人の財布を、抜き取ってみるよ。ああいった連中は、買い物をしても、代金は後で取りに来させるものだけど。金貨を見せびらかすために、財布は持っているだろうから」
「そいつは結構。ここで騒がれる可能性も、低いわけだ。しかし驚いたね。魔法使い殿に、スリの才能がおありとは」
「ぼくが掏るのでは、ありませんよ。かれにやってもらうのです」
再度溜め息をついて、かたわらの幹を指さした。伯爵に見えたかどうかは定かでないが、そこに一匹の下級精霊がしがみついていた。




