35
玄関ホールで待ちかまえていたわんこ5人にリヒトはピタリと足を止めて助けを求めるように呆れ顔でその光景を見ているノクトとジオを見た。
けれどふたりとも諦めたような、疲れたような顔でゆるゆると首を振るだけでもう彼らの手には負えないと完全に匙を投げる姿勢だ。
リヒトは恐る恐る痛いくらいに突き刺さる視線のもとへと目を向ける。
「た、ただいま」
「おかえり、兄さん」
「おかえりなさい!リヒト兄様!」
いつもどおり、へにゃりと笑って迎えてくれたのはアルバとステラだけだった。
しっかり繋がれた手を解くことなく、半ばアルバに引きずられるようにして仔犬ふたりがリヒトに飛びつく。
小さな頭を撫でてやりながらリヒトは何とも言えない禍々しいオーラを発生させている3人をどうしたものかと頭を抱えたくなった。
「姉ちゃん、ニナ、セイラ」
微苦笑を含んだ声になんだか自分たちがすごく子どもじみた事をしているように思えてニナは小さな溜息を吐いた。
「……おかえりなさい。リヒト様」
「ただいま」
その柔らかな声と笑顔につられるように唇を尖らせたままルナもおかえりと呟く。
ただセイラだけが小さく俯いたままその場から動けずにいた。
「おかえりなさい」を言いたくない訳じゃない。
自分だってアルバとステラのように抱きついて頭を撫でて欲しい。
名前を呼んで自分だけに「ただいま」を言ってほしい。
だけど、でも、女の人と会っていたことを知ってからずっとモヤモヤがおさまらない。
ルナやニナのように「おかえりなさい」を言っても、このまま何も言えないままでも泣いてしまいそうだった。
「ただいま。セイラ」
大きな手が優しく頭を撫でる。
大好きな声が名前を呼ぶ。
それだけで信じられないくらいに幸せな気持ちになれるのに、ふわりと香る匂いが暗い影を落とす。
もっと早く産まれていたら、こんな香水が似合う大人の女の人だったら、このもどかしい思いを放りだしてすぐにでも隣に並べただろうか。
自分ではどうしようもない何かに阻まれることなく、ただ真っ直ぐに胸を張って好きだと言えるのだろうか。
もっと、もっと、ワガママになって他の女の人のところへなんか行かないでと言えたのだろうか。
早く大人になれば妹としてじゃなく、女の子として愛してもらえるのだろうか。
「……おかえりなさい、リヒト兄様。」
ギュッとリヒトのシャツを握りしめて、コツンと額を押し付けて、小さな声で呟く。
今のセイラの精一杯をリヒトはちゃんと拾い上げて受け取ってくれる。
好きな人が自分以外の女の人と会うことの苦しさをセイラは今日はじめて知った。
この恋を叶えるために乗り越えなければならない障害の多さも大きさも知っていると思っていたこと全てが鮮明に映り込み、思っていたよりもずっと手ごわいものであることを思い知らされた気がした。
夜の帳が下りきった世界は太陽が輝いている間とはまったく違う表情を見せる。
冷たい風としんと静まり返った夜の世界をセイラはぼんやりと見つめていた。
「風邪ひいちゃうよ」
「ママ!」
驚きに目を見開くセイラににこりと微笑んでルナはその隣に並んでセイラと同じように夜に染まった景色を眺める。
ただ、隣にいるだけ。本当にただそれだけのことなのにセイラは目頭が熱くなって泣いてしまいそうだった。
「……こんなに、苦しいなんて思わなかったの」
「うん」
「ずっとずっと不安だったわ。だけど、こんなにモヤモヤしたのは初めてだったの」
「うん」
「お見合いのときだってこんなに怖くなかった。
たぶん、心のどこかで絶対に兄様は私たちを優先させてくれるって思ってたから」
ルナはセイラの声が震えていることに気付かないふりをしながらじっと吐き出される言葉を聞いていた。
「でもとどかないの。どんなに頑張っても、兄様に届かない。
どんどん遠くにいっちゃう。私の知らない兄様が増える度に怖くてたまらなくなる。
兄様の家族以外の特別が見えるたびに兄様をとられるんじゃないかって」
「じゃあ諦める?」
ゆっくりと振り返った顔にセイラはごくりと息をのんだ。
そこにいたのはいつもの可愛いだけのルナじゃなかった。
「怖いならやめればいい。
リヒトはとっても魅力的よ。だけど、貴女を妹としてしか見てない。
でも広い世界には貴女を女の子として愛して大切にしてくれる男性もいるわ」
「っ、」
「どんなに背伸びしても貴女はまだ子どもよ。
出会いなんてこれから幾らでもあるわ」
「、それでも!それでも、私は兄様がいい。
苦しくても哀しくても怖くても、兄様がいいの。兄様じゃないとダメなの」
「なら、頑張りなさいな」
いつものようにふんわりと笑ったルナにセイラは目を瞬く。
けれどルナはそれ以上なにも言わずにポカーンとした表情で自分を見つめるセイラのことなど気付いてないとでも言いたげにまた景色へと視線を戻した。
「ま、ママ…?」
「なぁに?」
「なにって……」
「あ、そうだ。ひとつだけセンパイからのアドバイス。
年の差って結構厄介よ?
妹から抜け出すよりも年の差を盾に逃げ回るのを観念させるほうがよっぽど大変」
何かを思い出すようにくすくす笑うルナにセイラは表情を引きつらせる。
目の前にいるのってママよね?
なんだか私の知ってるママと随分違う気がするんだけど。
なにこれ。誰コレ。ママの格好をした……本当に誰!?
というかあのパパが年の差なんて気にしてたの!?
ママから逃げ回ってたって!しかも今観念させるって言った!?
え?えぇええ!?本当になにがどうなってるの!?
てっきりパパがママを溺愛しててそのまま結婚したんだと思ってたのに違うの?
というかいつもの天然ボケでお子様で可愛らしいママはどこに行ったの!?
アルバの腹黒さはまさかのママ譲り!?嘘でしょう!?
「セイラ??」
「え!?あ、な、なんでもないわ。」
今のは夢よ。夢。幻。
私はなにも聞いてないし見てないわ。
情緒不安定な上にパパに水増しされた仕事のせいで疲れてるのよ。
うん。だいじょーぶ!
セイラはうっかり見てしまった可愛い母のしたたかさから目を背けて、今夜の記憶に頑丈に鍵をかけることにした。
「そう?」
「うん。ありがとうママ」
不思議そうに可愛らしく小首をかしげてみせるルナにセイラはにっこりとほほ笑んだ。




