大川千尋の独断総括ノート・千尋の大反省会の巻
人が一生のうちに出会う人の数は、だいたい三万人といわれています。
全人類は七十億人いるので、三万人というのはそのうちの何分のいくつなのか。今回はそれを計算してみましょう。
ええっと、七十億割る三万は二十万……あれ、十万の位だっけ? 一万の位で二万……いや、やっぱり十万の位で二十万……いやいや、百万の位で二百万……
……ちょっ、ちょっと電卓持ってきてもいいですか!
繁華街のこじんまりとしたバーに、ふたりのスーツ姿の女性がカウンター席で横並びになって座っていた。県警捜査一課の刑事、大川千尋と藤野愛美である。
「ねえ、お願いだからお金貸してよお」
泣きそうな顔をしながら肩を揺すってそう懇願してくる千尋に、愛美は露骨に嫌そうな顔をした。
「何回も言ったけどね、わたし、金だけは絶対に貸すなって親に言われて育ってきたの! 貸したら絶対帰ってこないし、人間関係こじれるからって」
「じゃあこうしようよ。愛美ちゃんがあたしにお金をくれる」
「もっと嫌だよ! なにが悲しくて千尋にお金をあげなきゃいけないの!」
「本当に頼むよお。ものすごく困ってるんだからさあ、頼むよお」
「また変なもの買って、お金がないとかいうんじゃないだろうね」
愛美に、これまで千尋が犯した金の無駄遣いの記憶が思い出された。
「違うって、そんなもんじゃないからさあ! 今回は真剣に困ってるんだよお」
そういってくる千尋の瞳をじっと見た愛美は、やれやれと溜息をついた。
「……今回だけだからね」
「ありがとう! 本当に助かったなあ」
「その代わり、今度の『エフォール』の新作ケーキの行列に朝イチで並んでもらうからね!」
「判ってるって」
「それで、いくら欲しいの? 五千円までならいいけど」
「いや、あの、それが……」
「まさか、一万円くれとかいうんじゃないよね」
そう言う愛美に、千尋はとても気まずそうな顔をしながら答えた。
「……百五十万円」
それを聞いた瞬間、愛美はバックから出そうとしていた自分の財布を引っ込めた。
「あっ、だめっ、引っ込めないでっ。お願い、見捨てないでよお」
「あのねえ、どんな思考回路してたら人に百五十万よこせなんて言えるの!」
「いや、だから最初は貰うんじゃなくて貸してもらおうと」
「貸すわけないでしょ、まったく! そもそも、何で急にそんなお金が必要になったの?」
愛美がそう訊くと、千尋はいつもと同じような言葉を繰り返した。
「ニノだよ! もともとはニノが悪いんだって!」
「また二宮くんと何かあったの……」
やれやれ、と愛美は呆れかえった。
「何かあったってもんじゃないよ。本当困ったやつだよ、ニノは! いつもこっちを振り回しておいて、わけのわからないことを言って捜査をひっかき回してくるしさあ」
「わけのわからないって、立派な推理でしょう。いつも担当してる事件で助けられておいて、すごいことを言うよね」
「いいや、今回ばっかりは呆れたね。ニノの推理はいつも破綻だらけなんだけど、今回は特にひどかったもん」
「えっ、また何か事件に遭遇したの? ディズニーランドに行ったんじゃなかった?」
「いや、事件というか、よくわからないんだけど……」
「じゃあどういうことなの? ぜんぜん話が見えてこないんだけど」
「とにかくニノが言うにはだよ、夜中に窓のカーテンが開けっぱなしなのはおかしいんだって」
「……そりゃあ夜中は普通カーテンを閉めるけど、それが事件に関係あるの?」
「いや、どういうことなのかよくわかってないんだけど」
「だからどういう話なの! 話の方向性が全然見えてこないんだけど!」
「とにかくニノの推理はおかしいんだよ! カーテンが空いているか閉じているかなんてことでそんなこだわるなんてさあ。あたしだって、その日の気分で一晩中カーテン開けっぱにすることもあるのに」
「……普通に女子として、それはどうかと思うよ」
愛美はそう指摘したものの、千尋は意に介すことなく次の話題に話を進んだ。
「カーテンの話もだけどね、今回はもっとひどいのがあるんだよ」
「千尋が話をよく理解してないだけじゃないの?」
「いいや、こればっかりは本当におかしいんだよ。あのね、ニノは屋敷に泥棒が入った時に、泥棒がゲージュツ品じゃなくて、ワインを盗もうとしなかったのは不自然だっていうんだよ」
「はあ」
「おかしいでしょ。泥棒ならワインより、高そうなゲージュツ品を盗もうとするじゃん。あたしだったらそうするけどなあ」
「知らないよそんなの。泥棒には泥棒なりの事情があっただけなんじゃないの」
ここに来て愛美の千尋への対応が投げやりになってきた。
「いい。こんなこと話していると、ニノが全部悪いような気がしてきたよ。やっぱり百五十万円はニノが出すべきだと思うんだよね」
「結局、なんで百五十万円が必要になったの……」
「ニノにさあ、ロマネ・コンティを割らされたんだよ!」
「ロマネ・コンティって、一本百五十万もする高級ワイン?」
「そうだよお」
「千尋、なんでそんな高いワイン駄目にしちゃったの」
「違うよ、悪いのはニノだよ! なのに、なぜかあたしが弁償することになってさあ……やっぱりここはひとつ、ガツンと言ってやらなきゃ」
「やめときなって、どうせろくなことにならないんだから」
千尋の話をよく理解していないながらもそう忠告する愛美だったが、千尋はその言葉を聞き流した。
「いつもやられっぱなしだと思ったら、大間違いだからね」
千尋はそう言いながら携帯電話を出して二宮に電話をかけると、呼び出し音を聞きながら二宮が電話に出るのを待った。
「……あっ、もしもし? ニノ? 寝てた? 起きてたならいいけどさ、今日はあたしからニノに文句を言ってやろうと思ってね……とぼけないでよ、ワインの件だよ! あたしはね、あのワインをあたしが弁償するなんて納得してないからね! むしろね、払うべきなのはニノだと……えっ?」
突如、態度が急変した千尋に愛美が声をかけた。
「……どうしたの」
「えっ、大目にみてもらうように掛け合った?……そ、それはどうも……うん、うん……あっ、さっき言ったことは忘れてよ、あ、あははは……」
顔を青くし、電話相手に向かってぎこちない笑い声を出した千尋に、愛美は怪訝な目を向けた。
「いや、恨んでなんかいないよ、本当だって!……うん、うん、それじゃ、おやすみなさい……うん……うん……」
そういって電話を切ると、千尋はなんだか悲しげな顔をし始め、その表情を愛美が伺っていると、千尋は彼女に泣きついた。
「あたし、心が汚れてたんだ」
「まあ、よく判らないけどそういうことだったんだよ、たぶん」
怒ったりするわメソメソするわ、忙しい人だなあ、と愛美は思った。
「愛美ちゃん」
「はいはい」
「もっと早く言ってくれたら……きっと、あんなこといわなかったのに……」
「というか結局これ、どういう話だったの」
わんわんと胸元で泣く千尋の背中を、愛美は撫でた。
「千尋の大反省会の巻」 完
これらの事件は創作であり、大川千尋は架空の刑事です。




