五・失われたワイン
「しかし、すごい量のワインでしたね」
自分の分のサラダを小皿に取り分けながら二宮がいった。
「僕はワインのことは全然知らないんですが、あれだけ集めていたということはお父上は相当なワインフリークだったんでしょうね」
「ええ。父はそのワイン好きが高じて、本業とは別にワイナリーを経営していたんです」
「ワイナリー?」
「簡単に言えばワインの製造業みたいなものです。自分でワインの材料になる葡萄の畑を作って、職人さんを雇って実際にその葡萄からワインを作ってもらったり……」
「ははあ」
「ほとんど趣味みたいなものだったのであまり利益は出なかったみたいですけど、父が作ったワインはすごく評判が良かったそうです」
「そうなんですか。僕も大人になったら飲んでみたいものです」
「……今はもう無理ですけどね」
朱音は持っていたグラスをテーブルに置くと、その顔を曇らせた。
「無理というと?」
「今はもう、父のワイナリーは無いんです。父が死んで、父の弟である私の叔父が会社と一緒にワイナリーを継いだんですけど、会社もワイナリーも、叔父がオーナーの座に就いてからそれまで安定していた経営が一気に傾いたんです」
「あなたのお父上と違って、叔父には経営の才能がなかったのでしょうか」
「後で聞いた話によると、目の前の利益だけを追求した、向こう見ずな経営をやっていたみたいです」
「典型的なダメ経営者ですねえ」
「会社の方は周りの人のリカバリーや銀行からの融資で何とかなったみたいですけど、ワイナリーは叔父が就いでからたった半年であっさりと潰れたんです」
「兄と違ってワインへの関心が薄かったのでしょうか」
「少なくとも、ワイナリーを経営できるほどの知識はなかったと思います。知っていたとしても、ワインの相場くらいでしょうね。職人さんを全員解雇して、葡萄農園に使っていた土地を売り払うと、最後に倉庫に残っていたあらゆるワインの在庫を相場が上がるタイミングを見計らって全部お金にしてしまったんですから」
「お金にがめついですねえ」
「こんな世界だから、みんな考えているのはお金のことばっかりですよ。違ったのは私の両親だけ。両親がいなくなってから、全部変わってしまって……」
そこまでいうと、朱音は「ううん」と首を横に振った。
「ごめんなさい、なんだかセンチな感じになっちゃった。話題を変えましょう。他に話すことあるかしら」
「そうですね。ではひとつ、後鳥羽院さんにお尋ねしたいことがありまして」
二宮が手に持っていたフォークを、静かに皿の上に置いた。
「ご飯を食べている時にする話ではないのかもしれませんが、先ほどの空き巣の話で疑問に思うところがありまして」
「……本当に食事中にする話じゃないですね」
「やっぱりやめましょうか」
「まあいいです。どうぞ続けて」
「ではお言葉に甘えて」
二宮はグラスに残っていた炭酸水をぐいと飲むと、話を始めた。
「あなたは突然この屋敷に入ってきた空き巣を、金属バットで殺害したんですよね」
「ええ。どこか気になることでも?」
「気になるのはですね、そもそも空き巣はなぜこの屋敷を狙ったのでしょうか」
「……それはもちろん、この家にあるお金目当てでしょう」
「問題なのはですね、どうして空き巣が標的としてわざわざこの屋敷を選んだということです。ご存知の通りこの屋敷は山奥にあります。加えて、この建物にはホームセキュリティがかけられています。玄関に警備会社のシールが貼ってありました」
「そうですけど、それの何がおかしいんですか」
「考えてみてください。空き巣にとってはまずここを探し出すまでに相当高いハードルがあります。そしてここを見つけて来たところで、この家にはセキュリティがかけられています。これを破るのは至難の技でしょう。ただでさえ高いハードルが、さらに上がるわけです」
「だけどセキュリティシステムの警報装置を作動させても、警察や警備会社の人たちがここに来る前に手っ取り早く犯行を終えて逃げるってやり方もあるんじゃないですか」
「だとしても逃げる時に山道で警察と鉢合わせする危険があります。こんなリスクを犯すくらいだったら、高級住宅街のどこかの家でも狙って、事を終えたらさっさととんずらするというやり口を選ぶ方がよっぽど利口です。僕ならそうします」
「……二宮さん」
二宮の主張を聞いて、朱音がいった。
「つまり、あなたは何が言いたいの?」
その問いに対して、二宮は「後鳥羽院さん」と短く前置きをした。
「お尋ねします。あなたが殺したのは、本当に単なる空き巣なんでしょうか」
二宮がそういうと、朱音は「そうね」と呟いてそのまま言葉を続けた。
「半分正解、といったところでしょうか」
「半分?」
「あなたの言う通り、私が殺したのはただの空き巣ではありません。だけど実際にこの屋敷には侵入者が忍び込んできたんです。そしてその人物を私は殺した」
「では、その侵入者というのは誰なんですか」
「どんな人物だと思います?」
「……逆に質問されちゃいました」
「いいから、考えてみて」
そう朱音に問われると、二宮は眉を顰めた。
「あなたの身内の人間、ではないでしょうか。身内の人間だったらこの屋敷の場所も知っていますし、それに合鍵も持っているでしょうから、警報装置を作動させることなく簡単に屋敷に進入できるはずです」
「ご名答」
朱音がぱちぱちと手を叩いた。
「正解を言ってしまうと、空き巣の正体は叔父なんです」
「叔父ですか。叔父というと、あの商売下手の」
「ええ。私、血は繋がっていないけれど、自分の叔父を殺したんです」
二宮が唖然とすると、朱音は悪戯っぽく笑った。
「驚いたでしょう」
「ええ。しかしなぜ叔父は空き巣なんかしたんでしょうか」
「……ちょうどその頃、叔父は会社の若い秘書に手を出して、その事が奥様にばれてかなり揉めていたんです」
「色々とダメダメですね、その人」
「その結果叔父は奥様と離婚することになったんですけど、その時奥様に多額の慰謝料を支払わなきゃいけなくなったんです」
「慰謝料ですか。具体的にはどのくらいの」
「詳しくは知りませんけど、確か数千万はあったんじゃないかしら」
「数千万! いやあ、僕には縁の遠い世界ですねえ。それで叔父はその慰謝料を払ったんですか」
「いいえ。叔父にそんな大金を用意することはできませんでした。会社のお金を使うわけにはいかないし、銀行もなかなかお金を貸してくれなかった。そこで狙ったのがこの家にある美術品です」
「ちょっと待ってください。この家、美術品が置いてあるんですか」
「父が集めていたんです。ここにはその美術品を保管している部屋があって、叔父はたくさんある中からいくつかこっそり盗み出すつもりだったんです」
「なるほど」
「そして叔父はその計画を実行に移したんです。その日の夜、叔父はこの家に忍びこんで、その部屋の扉を開けようとしたところで……部屋を飛び出してバットを持っていた私に殴られたんです」
「あなたが殴った時、その人物が叔父だとは気づかなかったんですか」
「気が動転していたものですから」
「まあ無理もないでしょう」
二宮が頷いた。
「ところでその保管部屋って、どこにあるんですか」
「この建物の二階です。見てみますか」
「では食事が終わったら。しかし気になりますねえ」
「まだ他に何か」
「いえ、その叔父がこの家を狙ったとして、彼はあなたが屋敷にいることを知らなかったのでしょうか。空き巣なんですから、屋敷に誰もいない頃合いを狙ってくるものだと思うんですが。身内の人間なんだから、それを知ることも出来たはずなのに」
「元々その日は、私が家を留守にする予定だったんです。大学のソフトボールサークルの合宿で、三日間岐阜県に」
「ソフトボールサークル……」
そう呟くと、「あ」と二宮は言葉を漏らした。
「それって、熱を出して休んだというやつですか」
「大当たり。休んだことはサークルの人たち以外には誰にも言わなかったんです。だから叔父も驚いたでしょうね。せっかく誰もいない時を狙ってやってきたのに、いるはずのない私がいて、そしてその私が自分に襲いかかってきたんですから」
「運のない男ですねえ」
「ええ、全く」
朱音が紙ナプキンで口を拭いたその時、場の雰囲気を壊すように千尋が部屋に飛び込んできた。
「お待たせしましたあ」
千尋は一本のワイン瓶を大事そうに抱えて、にやついた表情を浮かべていた。その姿を見て二宮は「なんだか嬉しそうだね」といった。
「うふふ、こんなの見つけちゃってさあ」
そういって千尋は抱えていたワイン瓶のラベルを嬉しそうに朱音や二宮たちに見せつけた。
「ろまんねえ、こんち?」
「ロマネ・コンティ……最高級ワインですよ」
ラベルに書かれているアルファベットの文字列をローマ字読みした二宮に、朱音が目を丸くしていった。
「ワインを飲まない私も知ってます……だけどこの家にあったなんて」
「いやあ、ロマネ・コンティなんてあたし、一生飲むことなんてないと思ってたけど、まさかこんなチャンスに巡り合えるなんて」
思わず驚いている朱音を前に、千尋はワインを眺めながら嬉しそうな顔をしたがそんな彼女に二宮は苦言を呈した。
「失礼じゃないか大川さん。わざわざそんな高いワインを選ぶなんて。それ戻して別のにしてきなさい」
「いや、だけどこんな機会でもなきゃ一生飲めないし……お願いします、朱音さん!」
千尋が朱音に頼み込むと、彼女は少しだけ悩んで「いいですよ」と千尋にいった。
「私も気になるし、ワインも放ったらかしにされるより、飲まれる方が嬉しいでしょうから」
「やった! じゃああたし、グラスと栓抜き用意してきますね!」
すると千尋は元気よく台所に向かって、グラスと栓抜きを持ってテーブルに戻ってきた。
「緊張するなあ。どんな味なんだろ、ロマネ・コンティ」
ぽん、と栓抜きでコルクを開けると千尋はワインをグラスに注ごうとした。そんな彼女に二宮が声をかけてきた。
「ねえ大川さん。せっかくそんな高いワインだったらさ、レストランのウエイターさんみたいにカッコよく注いでみてよ」
「ウエイターって、ソムリエの?」
「ほら、瓶の底を持って、とくとくと注ぐ感じで」
「あたしに出来るかなあ」
千尋は二宮に言われた通り、右手だけでワイン瓶の底を掴んで、高級レストランのソムリエのように中身の液体をグラスに注ごうとした。
「こ、こうかな……」
そうやって瓶の口をグラスに向けて傾けた時だった。
「あっ」
千尋が手を滑らせたのだ。
彼女の手から滑り落ちたロマネ・コンティはほんの一瞬の間だけ宙に浮くと、そのまま落下して床に叩きつけられ、同時にバリンという大きな音をたてた。
「あっ、あっ、あっ、ああっ!」
千尋が情けない声をあげた時はもう手遅れだった。瓶の破片は周囲に散らばり、そして中身の液体は無惨にも床にぶちまけられてしまっていたのだった。
「うっ、うあああっ!」
立ち崩れた千尋を朱音は「あらら」と、二宮は「あーあ」と眺めていた。
「ごっ、ごめんなさい!」
青ざめた千尋が叫ぶように朱音にいった。
「……大川さん」
「あ、朱音さんっ」
「悪いですがこれは……弁償してもらわないと」
朱音が申し訳なさそうにいうと、千尋は獣のような咆哮を屋敷中に響かせた。




