四・料理のお供
「殺人、ですか」
長い静寂が続いたあと、それを破ったのは二宮だった。
「二宮さん、信じてないって顔してる」
朱音が二宮に向かって艶かしい笑みを浮かべた。
「いえ、あの、信じていないってわけじゃないんですけど」
「本当よ。別に信じてくれなくてもいいけど」
「しかし仮にそれが本当だとして、どうして」
「どうして殺人の罪を犯した人間が、俗世間でこうものうのうと生き延びているか? でしょう」
「……ええ」
二宮が小さく頷いた。
「二宮さん、人を殺した人間が無罪になる方法って知ってる?」
「そうですね」
そういって二宮は「ううん」と唸った。
「正当防衛が成立する、でしょうか。誰かに殺されそうになったのを返り討ちにしたとか」
「そうね。だけどもうひとつ方法があるの」
ほんの少し間を開けると、朱音は唇を開いた。
「もうひとつは、完全犯罪が成立した場合」
完全犯罪、という言葉を聞いた二宮の顔を見て朱音はふふっと笑った。
「なんてね。確かに私は人を殺したことがあるけれど、完全犯罪なんて大それたことはしてませんよ」
「では、あたなはなぜ人を殺したのでしょうか」
「……十九歳の時だったかな、この家に空き巣が入ったの」
「ということは金目当ての」
「その時私は二階にある自分の部屋で本を読んでいたんですけど、突然下の階から物音が聞こえてきて、怖くなって部屋にあった金属バットを持って部屋から出たんです。そしたら……」
「空き巣と遭遇して、その人物をバットで殴ったと」
「ええ、その通り」
「あの、これは素朴な疑問なんですが」
「どうぞ」
「どうしてバットなんて持っていたんでしょうか。普通の家には金属バットなんて置いていないと思うんですが」
「私、大学ではソフトボールのサークルに入ってたの」
「ああ、さっきもおっしゃっていました、例の」
「庭で素振りをして、練習をするときのために持ってたの」
「なるほど、そういうことでしたか」
二宮が納得したそぶりを見せると、部屋の奥のほうから「お先にあがりましたあ」と風呂から出た千尋の声が聞こえてきた。
「わっ、すっごくいい匂い」
「もうちょっと待っててくださいね、もう少しで出来上がりますから」
台所を覗き込んできた千尋に朱音は殺人者としての顔を潜ませて、微笑みながらいった。
二宮はそんな彼女を、何も言わずに横目で眺めていた。
「ううん、美味しい!」
テーブルの上に並べられたミートスパゲティを食べた千尋が、その味を絶賛した。
「こんなおいしいミートスパ、生まれて初めて」
「良かった、美味しいと思ってくれるか心配だったんです。これまでろくに人に料理を振る舞ったことがなかったものですから」
「いえいえ、こんなに美味しいんですから、自信持ってください」
一緒に料理を作った二宮がいった。彼の仕上げたコーンスープも、パスタ皿の横に並べられている。テーブルの上には他に、オニオンドレッシングのかけられたサラダ、炭酸水が注がれたグラスがある。
「ありがとう。二宮さんの作ったコーンスープも、とても美味しいですよ」
「だてに調理実習で絶賛されているだけはあるでしょう」
二宮がどこか得意げになっていった。
「いいなあ、ふたりとも料理ができるなんて」
そういいながら千尋は自分の口の周りに赤々とついたミートソースを、テーブルの上の紙ナプキンで拭いた。
「あたし、作れるのがチキンラーメンと茹で卵だけだもん」
「そんなの料理といわないよ」
自分で作ったコーンスープをスプーンで飲みながら、二宮がいった。
「後鳥羽院さん、今度この人に料理のイロハってものを教えてやってください」
「そういえば朱音さんって、誰から料理を教えてもらったんですか。やっぱりお金持ちの家だから、雇ってた家政婦さんとかに教わったとか」
「いえ、母からですよ。小さい頃から包丁の使い方から、魚のおろし方までマンツーマンで叩き込まれたんです」
「さ、魚のおろし方」
千尋が顔を青くして愕然とした。
「あたしには一生できる気がしない……いまどき、そんなのスーパーでおろしてあるやつ買えるし」
「大川さんとはレベルが違うんだよ」
「だってさあ、ちっちゃい頃からそんなこと教える母親なんているっ? あたしだったらぐれちゃうかも」
「私も最初はイヤでしたよ、気持ち悪いって」
ソーダ水を口につけて苦笑しながら、朱音は昔を懐かしんだ。
「だけど母はそれでも私に根気強く教えたんです。いつか私が独り立ちした時に、ちゃんとやっていけるようにって」
「素晴らしいお母様です」
二宮がいった。
「お父様はどういう方だったんですか」
「料理に関して言えば、父はワインが好きだったんです」
「あっ。あたしも好きです、ワイン」
千尋が身を乗り出して関心を示した。
「父はいつか私が大人になったら、ワインの講義をするつもりだったみたいです。結局その日は来ませんでしたけど」
そう語る朱音は、顔にどこか哀しさを滲ませた。
「そうだ、家の地下には父の残したワインセラーがあるんです」
「それって棚みたいなやつじゃなくて、部屋丸ごとにワインが?」
「ええ。私はワイン含めてお酒を飲まないので、全然手をつけていなかったんですけど……良ければ大川さん、折角ですし飲んでみますか?」
「ええ、それはもう、喜んで!」
千尋が興奮して嬉しそうに返事すると、朱音は千尋と二宮をワインセラーまで案内した。
地下に伸びている階段を下ったところにある部屋の扉を開けると、そこには棚に並べられた何百本ものワインが鎮座していた。
「わあ、すごい」
千尋が目を輝かせてため息をついた。
「この部屋に入るのも久しぶり……父が死んでから一度も入っていなかったですから」
「あの、それじゃワイン、腐ってないんですか」
二宮が朱音に訊いた。
「それは大丈夫です。この部屋は特別な冷房設備がなくても、温度と湿度がいつも同じになるように作られているみたいですから」
「それじゃ、良い感じに熟成されてるってことですね」
そういって千尋は早速棚に並べられたワインを見定めているようだった。
「あれも良さそうだなあ。いや、あれも美味しそう……迷っちゃうなあ、えへへ」
「ゆっくり選んでいてください。私は先に部屋に戻ってますから」
「じゃあ僕もそうします。ワインのことはちんぷんかんぷんですから」
千尋をワインセラーに残すと、朱音と二宮のふたりはまだ料理が残っている食卓に戻った。




