一・後鳥羽院朱音の屋敷
人が一生のうちに出会う人の数は、約三万人といわれています。人類が七十億人いることを考えるとちょっと少なく感じるかもしれませんが、それでもずいぶん大きい数です。
そしてですね、もしかしたらこの三万人のうちの、誰かひとりとの思いがけない出会いがあなたの人生を大きく変えてしまうことがあるかもしれません。
ただ問題がふたつあって、ひとつはそれが人生を良い方向と悪い方向のどちらに変えてしまうのかということ。
それと、もうひとつは──
漂い始めた冬の冷気を押し流すように大粒の雨と雷が降りしきる夜、某県の山中に敷かれた細く蛇のように曲がりくねった道を、一台のミニバンカーが走行していた。
女性アイドルグループの音楽を大音量で流しているその車を運転しているのは、三ツ谷市警察署に勤務する女性刑事、大川千尋だ。
普段は捜査一課の刑事として職務を全うしている彼女だが、この週末は首都圏にある遊園地で余暇を過ごし、そしていまは車で家路についているところだった。
スピーカーから流れてくる音楽を鼻歌にのせて歌う千尋の横で、コートを着た少年が顔にかけている黒いサングラス越しに渋い顔を浮かべていた。
「……大川さんさ」
助手席のシートを倒して横になっている少年が千尋にいった。
「どしたの」
「もう少しCDの音小さくしてよ。寝たいのに眠れないんだよ」
そういいながら少年はため息をついた。
「えーっ、別にいま寝なくたっていいじゃん。それにいま寝たら、家に帰って夜眠れなくなるよ」
「いいから音を下げてよ。うるさすぎるよ」
ちぇっ、と千尋はカーナビについているつまみを回してスピーカーの音量を下げると、少年は膝にかけていたブランケットを肩のあたりまで羽織って眠りにつこうとした。
この少年は千尋の知人で、二宮という。一年ほど前に千尋がとある事件を担当した際に、高校生である二宮が忽然と現れ、そして彼は瞬く間に事件を解決したのである。千尋と彼とは、それ以来の付き合いだ。
「あれっ」
フロントガラス越しの光景をみて、千尋が声を漏らした。
「ねえ、ニノ」
千尋が隣で眠っている二宮の体を揺さぶった。
「起きてよ」
「……どうしたの」
無理やり叩き起こされた二宮はサングラスを付けていてなお、はっきりと判るほどの不機嫌な表情をしていた。
「あれ見て」
千尋が目の前の光景を指さした。目の前では、崖から崩れ落ちたと思われる土砂が地面から数メートルほど積もっていて、先の道が通れなくなっていたのだ。
「土砂崩れかな」
車のライトで照らされた障害物をみて千尋がいった。
「この大雨のせいなのかな」
「だろうね」
二宮が気怠げに返した。
「こういうときって、JAFっていうんだっけ。そこに連絡して道をどけてもらったら?」
「ちょっと待って。こういうときはJAFじゃなくて役所に届けるんじゃなかったかな」
「じゃあそこに電話してみたら」
そういって二宮は再び座席を倒して横になった。そして彼の傍で千尋が自分の携帯で役所に電話をかけようとしたが、それから間も無くして「あっ、駄目だ」と千尋が呟いた。
「今度はどうしたの」
「携帯の電波が圏外になっちゃってる。だいぶ山奥だからなのかなあ」
「じゃあどうするの」
「どうっていわれても、どうしようにもないなあ」
動きの止まった車に、ぼたぼたと音を立てて雨粒が降りかかった。
「……建物を探そう。そんでもって電話があるようなところを見つけて、そこで電話を借りればいいじゃない」
「いいじゃないっていわれても、こんな森林地帯で見つかるかなあ」
「だからって、いつまでもここで立ち往生しているわけにはいかないでしょう」
二宮にいわれて千尋はやれやれと車をUターンさせて今来た道を引き返した。そして分かれ道をさっきとは違う方面に曲がったりなどして、網目のようになっている山の道路を彷徨った。
「どうしてこんなことになっちゃったのかな」
「もとはと言えば大川さんのせいじゃないか」
「どうしてあたしのせいなの」
「だって高速道路の料金をけちって一般道を使おうって提案したの、大川さんじゃないか。大人しく料金を払って高速道路を使ってれば、こんなことにはならなかったじゃないか」
「だって、高速道路の料金ってけっこうバカにならないんだもん!」
千尋の反論を二宮が聞き流していると、道路の左側から彼らの目に一軒の建物が目に入った。
「ねえ、ニノ。あの建物、明かりついてない?」
千尋たちが見つけたその建物は二階建てで、二階の一室の窓から明るい室内光が出ていた。
「見た感じ、たぶん家だよ。あれ」
「……家にしては、ずいぶん大きいね」
「屋敷だよ。それも大金持ちが暮らしてそうな」
千尋たちがいうようにその建物は、普通の家より二回りは広いつくりの屋敷のようにみえた。暗いうえに雨が降っているのでよくは見えないが、建物の壁は白く塗られていて、それが清潔で高貴な印象を千尋に与えた。
屋敷の近くまで車を動かすと、千尋と二宮は車から出て建物の玄関に向かった。
「……ねえニノ、なんで傘持ってるの」
傘も持たず、合羽も羽織らずに雨から直にうたれている千尋が、目の前で傘を持ってさして立っている二宮に向かっていった。
「だって折り畳み傘持ってるからだよ。なんで大川さんはちゃんと傘を持ってきてこなかったの」
「だって、かさばると思ったし……ねえ、相合傘させてよ」
「やだ。この傘小さいから、少しでも分けたら僕が濡れるもん」
「けち!」
そんな会話を交わしながら、ふたりは屋敷の玄関の前まで来た。左上のほうにセキュリティ会社のシールが貼られているその玄関の横にはインターホンと、”後鳥羽院”とレーザーか何かで彫られたと思われるガラス製の表札が掲げられていた。
「ごとばいん、だって。なんか聞き覚えがある名前だなあ」
表札にある名前を見て千尋がいった。
「日本史で聞いたんでしょ。ほら、後鳥羽院上皇っていたでしょう」
「ううん……その後鳥羽院上皇とはなんか違う気がするんだけどな」
「いいからインターホン押して」
「あっ、はい」
千尋がインターホンのボタンを押すと、少し経ってスピーカーから女性の声が流れ出した。
『どちら様でしょうか』
「あの、すいません。ちょっと電話を貸して欲しいんですけど」
『……はあ』
「ダメ、ですか?」
その言葉に対して、スピーカーから返事をされなかった千尋は二宮のほうを向いた。
「どうしよう。完全に警戒されてる」
「そりゃそうでしょう。こんな夜中にいきなり押しかけてきたんだから」
「あたしたち、別に悪いこと企んでるわけじゃないのに……そうだ、あれならいけるかな」
「あれって?」
二宮が訊くと、千尋が雨に濡れた上着のポケットから自分の警察手帳を取り出した。刑事の必需品である。
そして千尋は完全に雨に濡れてしまった警察手帳を、インターホンのカメラ部分の前に差し出した。
「あの、あたしたち、怪しい人間じゃないです。警察の人間です。ほら、警察手帳。テレビで見るのとはちょっと色が違うでしょ」
千尋がスピーカーの向こう側にいる人物に向かって説明すると、ほんの少しの沈黙があったのちに『判りました、どうぞ』という先ほどの女性の声が聞こえてきた。
「良かった、信じてくれたみたい」
そうやって千尋が喜んでいると、玄関が内側から開かれた。そして建物の中からは、若く美しい女性が千尋たちに姿を現した。
「どうぞ」
女性は千尋たちにどこかぎこちない微笑を浮かべながら、彼女たちを屋敷の中に招き入れた。
「ありがとうございますっ、電話、どこにありますかっ」
「向こうの廊下のほうにあります」
女性は、玄関から入って左手のほうに手を向けた。
「ありがとうございますっ、お借りさせていただきますっ」
そのまま電話のあるほうに駆け出そうとした千尋を、「ちょっと」と二宮が止めた。
「全身ずぶ濡れで入るんじゃないよ。床が汚れちゃうじゃないか」
「あっ、やばっ」
そんなに千尋に女性が「ちょっと待ってください」とバスタオルを取ってきて、それをずぶ濡れの千尋に渡した。
「どうぞ」
「どうもっ」
そういって千尋はバスタオルで濡れた身体を拭きながら、その場から駆け出した。
「わざわざどうもすいません」
二宮が女性に向かっていった。
「こんな夜中に急に押しかけたりなんかしてしまって。迷惑じゃなかったですか」
「とんでもないですよ。それよりあなたのコート、少し濡れていますね。居間のほうで乾かしませんか」
「そうですね。そうします」
二宮は女性に案内されて、居間のほうに向かった。
部屋に入ると、壁にある煉瓦造りの暖炉を見た二宮が「わあ」と声を出した。
「なかなか味のある暖炉ですねえ。こんな暖炉、古い映画でしか見たことありません」
そういって満面の笑みを浮かべると、二宮は濡れたトレントコートを脱いでそれを女性に渡そうとした。
すると女性は二宮のほうを見て、ぽかんと呆気にとられた表情をした。
「どうされました?」
「あっ、いえ……ちょっと、服に驚いちゃって」
二宮がコートの下に着ていたのは、襟詰の学生服だった。服の前を留める金色のボタンには彼の通う高校の校章が彫られていた。
「あの、学生さんなんですか?」
「はい、高校生です。それがどうかされましたか」
二宮はきょとんとした顔で答えた。
「いえ……てっきりあなたもあの女性と同じ刑事なのかなって思ってて」
「ああ、そうですか。しかし刑事に見えますかね、僕」
二宮にそう言われた女性はもういちど彼の姿をよく見ると、「ううん」と唸った。
「言われてみれば、刑事さんにしてはちょっと若すぎるかもしれませんね」
そういいながら女性はふふっと笑うと、それに応えるように二宮も彼女に笑みを返し、そして自分の名前を名乗った。
「申し遅れました、二宮と申します。あなたのお名前は?」
「後鳥羽院です。後鳥羽院朱音です」
「後鳥羽院さんですか」
二宮は朱音の名前をしみじみと噛み締めるようにいった。
「今夜はおひとりで?」
「ええ、いつもひとりです」
「ご家族はいらっしゃらないんですか」
「いいえ、私ひとりです。ここ十三年間、ずっと」
朱音はどこか意味深な笑みを浮かべ、二宮から受け取ったコートを暖炉の前にかけて乾かしながら、二宮にいった。
次回更新は8月26日の予定です。




