七・秀才の安堵
一〇九号室にいた大川という女は、二宮の知り合いとのことだった。今日の昼、腐った卵を食べて職場で嘔吐して気絶し、そのままこの病院に搬送されたのだという。
「誰だってあんなの勘違いするに決まっているだろう!」
病院のX線室でレントゲン写真を撮られながら、智和は目の前のガラス越しにいる診療放射線技師の隣に佇む二宮に向かって叫んだ。さっき七〇九号室で殴られた彼の左の頰には、純白のガーゼが貼られていた。
「ちゃんと話を聞かなかったのが悪いんですよ。なんだか会話が妙に噛み合わなくておかしいなあと思ったら……」
「思ってたなら言えよ!」
その後、智和は診察室で医者に現像された自分の右腕のレントゲン写真を見せられた。写真に写る彼の二の腕には、白い骨を真っ二つに両断する一本の黒い筋が入っていた。
これぞまさしく骨折り損だな、と智和はガラス繊維のギブスを看護師に巻かれながら溜息を吐いた。
診察室を出ると、そこでは二宮が携帯で誰かと話をしていた。
「……ああそうですか。はい、はい。それじゃどうも」
そういって二宮は電話を切ると、右腕にギブスを付けて診察室から出てきた智和の存在に気が付いた。
「わあ、大丈夫ですか」
「……全治二ヶ月だと」
智和は二宮に対して憎々しげにいった。
「今の電話は」
「ええと、さきほど手術が終わったとの連絡で」
「誰の」
「芹澤さんです。無事、成功したそうです」
「……それじゃあ、芹澤は助かるのか」
「どうでしょうねえ。だといいんですけど」
二宮がそういったとき、目の前に角刈りの刑事が現れて二宮のもとに駆け寄った。
「二宮さん」
駆け寄ってきた刑事は真っ青な顔をしていた。
「何かあったんですか」
「容態が急変したんです」
刑事からの知らせを受けた二宮は、大急ぎでその場を離れた。
智和も早歩きをする彼についていくと、廊下では滑車のついた担架に乗せられた女が看護師たちに運ばれていて、二宮がその病人に向かって声をかけた。
「大川さん、しっかりするんだ」
担架で運ばれていた女は、例の大川とかいう女だった。
「……まあ、こんなことだろうと思ったよ」
智和が真顔でそう吐き捨てると、担架に乗せられた大川は苦しそうな顔をしながら二宮に返事をした。
「ニ、ニノ……ううっ」
嗚咽し、頬を膨らませて真っ青な顔をしながら口を両手で抑える大川を乗せた担架が廊下の角を曲がると、その先から耳をつんざくような女の悲鳴が聞こえた。
「いやあ、しかし怖いですねえ、食中毒っていうのは。もうじき夏本番だし、僕も気を付けないと。あっ、これ知ってます?」
「なにが」
「カレーって一晩置くと美味しくなるっていいますけど、鍋に入れたまま放ったらかしにしちゃ駄目なんです。ちゃんとタッパーに移し変えて冷蔵庫に入れて冷やさないといけないそうで……」
「あのなあ、二宮」
「どうしました」
「……いや、何でもない」
もはや智和は二宮に反論する気にもなれなかった。
「しかし気になりますねえ」
廊下にある椅子に座った智和は二宮の問いかけを無視した。
「結局、芹澤さんを殴ったのは誰なんでしょうか」
「知るもんか。もしかしたら、ただの事故だったかもしれないだろ」
「それじゃあ吹奏楽部の中島君が見たという、空から落ちてきた人物は何だったんでしょうか」
「さあ、たまたま芹澤が棚の下敷きになったのと同じ時間に建物から落ちたやつがいたんだろ」
「だとしたらすごい偶然です。本当にそんなことあるんですかねえ」
智和はそれに対して何も答えなかった。そんな彼らの前に、看護師が現れた。
「あの、二宮さんですよね」
女の看護師が二宮にいった。
「ええ、そうですけど」
「主治医の先生からお話があるそうです」
「そうですか、では行きましょう。針山君はどうします?」
「どうせ大川とかいう女だろ」
そう嘯く智和に看護師はきょとんとした。
「いえ、芹澤さんですけど」
「だそうです。行きますか」
「……まあ、芹澤だったら」
智和たちが看護師に案内されて診察室へ向かうと、そこには芹澤の主治医である初老の医師がいた。
「正直なところ、状況はかなり厳しいと言わざるを得ません」
医師は深刻な顔をしながら智和たちに伝えた。
「芹澤さん、助からないんですか」
二宮が訊いた。
「手術自体は何とか成功しました。しかし彼女が意識を取り戻すかどうかは……おそらく、今夜が峠でしょう」
「先生」
智和は医師の手を摑んだ。
「どうか、芹澤を助けてやってください。お願いします」
「……こちらも出来る限りの手は尽くしましょう。あとはもう、彼女の体力を信じるしかないでしょう」
医師がそう答えると、彼の持っている連絡用のPHSが鳴った。
「失礼。もしもし、私だ……なにっ!」
部下から連絡を受けた医師は声を上げると、座っていた椅子からがっと立ち上がった。
「どうしたんですか」
二宮にそう訊かれた医師は、興奮したような熱っぽい口調で返事をした。
「それが、芹澤さんの意識が回復したんです」
そのニュースを聞いた智和は、頭が真っ白になった。
もうおしまいだ! これ以上はどうしようにもない。芹澤が自分を庇うなんて、期待するだけ無駄だ。
「意識が戻ったんですか。それは本当に良かった。ねえ、針山君」
そう呼びかける二宮の声は智和には届かなかった。
「それで芹澤さんは誰に殴られたと?」
「ああ、ちょっと待ってくれ……もしもし、うん?……どういうことだ」
電話に戻った医師の眉間に皺が寄った。
「何かあったんですか」
「それが……殴られた時の記憶がないと」
それを聞いて、智和の瞳に失われていた光が戻った。
「つまり、記憶喪失ですか」
助かったぞ、と智和は歓喜。しかし次の瞬間、それがぬか喜びであることに彼は気づかされることになった。
待て、たとえ殴られた時の記憶が無くなったとしても、俺のカンニングの事実は芹澤は覚えている。だとしたら全部振り出しに戻っただけじゃないか!
殴ったことを忘れてしまっただけよしと思うべきなのか? いやしかし……
再び頭を抱える智和だったが、その間にも医師は部下との連絡を続けていた。
「ああ……そうか。判った、すぐそちらに向かおう。それじゃあ」
医師は電話を切ると、智和たちに重々しい口調で部下から伝えられた事実を話した。
「どうも彼女は、ここ一ヶ月の記憶を全部綺麗に忘れてしまったらしい」
「一ヶ月……?」
待てよ、それじゃあテストが始まるよりずっと前じゃないか! つまり、カンニングのことも全部忘れてしまったということ!
ここに来てやっと運が自分に味方してくれたらしいぞ! 智和は安堵の笑みを浮かべた。
医師が芹澤のいる病室に向かうと、智和と二宮は診察室から出た。
「ずいぶんと嬉しそうですね」
二宮が智和の表情をみていった。
「当然だろう、無事に助かってくれたんだから」
「同感です。しかし記憶を失ってしまったというのは痛かった」
「まあ、ここはひとまず芹澤が生きていることを素直に喜べばいいじゃないか」
「そうですねえ。あとは芹澤さんの記憶が無事に戻ってくれれば完璧なんですけども」
智和としては、永久に戻ってこないで頂きたいところではあるのだが。
「……それじゃあ、俺はそろそろ帰させてもらうよ」
「あれっ、お帰りになられるんですか」
「まあ、俺が居たところで邪魔になるだけだからな。それじゃあ、芹澤と話す機会があったら、よろしく伝えておいてくれ」
「はい。では腕のほう、お大事に」
「どうも」
そういって智和は二宮に背を向けると、満面の笑みを浮かべながら病院をあとにした。
今日一日で彼には数多くの受難が降りかかった。しかし、結果的に罪から逃れることが出来たことを考えれば、彼にとってそんなことはどうでも良かったのである。
智和は夕暮れの道を下手な口笛を吹きながら歩いた。




