二・秀才の大脱出
目の前で横たわる芹澤の姿をみて、冷静になった智和は一時の激情に駆られて彼女を殴ってしまったことを深く後悔した。
殴り殺したところでどうするというのだ。確かに彼女を亡き者にして口を塞ぐことはできた。だがこそれと引き換えに自分は殺人者となってしまった。カンニングと殺人では全く話が違う。
一体どうすればいいんだと頭を悩ませてその場をうろうろしていると、智和は部屋のドアの鍵がいままで閉まっていなかったことに気がついた。
ドアノブにはつまみが付いており、そのつまみを横にすることで扉の鍵を閉めることができるのだが、智和が目撃した時つまみは縦のままになっていたのだ。
大慌てでつまみを回してドアにロックをかけると智和は溜息をついて脱力し、壁にある棚にもたれかかった。
棚に体重をかけた時、後ろにある棚がぐらっと後ろに揺れたことに彼はかなり驚いた。どうやら、建て付けが良くないらしい。
そのことに気がついた瞬間彼の頭に電流が走り、あることを閃いた。
智和はうつ伏せになって倒れている芹澤に駆け寄ると、彼女の上半身を抱えて引きずりながら棚の前まで運んだ。女子の身体とはいえ、これはかなりの重労働だった。
彼女の足を棚に向けた状態にすると、智和は額から噴き出した汗をシャツの袖で拭いた。室内はエアコンが効いていたのだが、この作業と緊張で智和の体温はかなり上がっていた。
そして彼は棚と壁の間にあった数センチほどの隙間に手を差し込むと、倒れている芹澤の上にめがけて棚を倒した。
棚を倒した時、棚に付いていたガラスの扉が割れる音と、衝撃によるドシンという大きな物音が部屋じゅうに響きわたった。そして棚に潰された芹澤の身体は、巨大な鉄の直方体に完全に覆われて見えなくなってしまっていた。
完璧だ。この光景を見て智和は思った。これなら誰がどう見ても事故にしか見えない。芹澤は不幸にも自然に倒れてきた棚に下敷きになって、事故死したのだと誰もが納得するはずだ。
念のためにファイルや棚に付けてしまった自分の指紋をハンカチで拭いていると、ドアの外から男の声が聞こえてきた。
「あの、すいません。中から大きな物音が聞こえてきたんですけど、大丈夫ですか」
その声を聞いて智和は顔を歪めた。声の主はあの二宮だったのだ。
どうしてあいつがここにいるんだと智和は困惑したが、いまはそんなことを気にしている暇はない。いまこの部屋の出口は完全に塞がれてしまったのである。
このまま馬鹿正直に部屋から出て、事故が起こったのだと二宮に説明するわけにはいかなかった。どうして自分が風紀委員室にいたのかも説明しなければならないからだ。智和としてはそれはどうしても避けなければならなかった。
俺はどうしたらいい、と辺りを見回していると部屋の窓が目についた。
そうだ、この窓から脱出してしまうんだ。智和は窓を開けると、そこから見える中庭の光景を眺めた。
幸い、放課後とだけあって外に人通りは全くなかった。部屋の外側には幅十五センチほどの足場になりそうなエアコンの換気扇のパイプがあった。
これを利用して二階の渡り廊下の屋根まで伝ってゆき、そこから吹き抜けになっている廊下に降りてそのまま校舎に戻れば、無事脱出を果たすことができる。見事な作戦だ。
たがこの作戦にはひとつ問題がある。それはこの部屋があるのが特別棟の三階で、一度足場からから足を滑らせたらひとたまりもないということだった。
落ちたらどうしようと智和が怖気付いている間にも、外ではお構いなしに状況が進行しているようだった。
「あれっ、二宮先輩、そんなところでどうしたんですか」
「この部屋の中から大きな物音が聞こえてきたんだけど、ドアの鍵が閉まってて。君、ちょっと職員室まで行ってスペアキーを取りに行ってきてくれないかな」
「了解ですっ。ダッシュで行ってきます」
「頼んだよ、なるだけ早くね」
まずい、このままでは二宮たちがこの部屋に踏み込んでくるのも時間の問題だ。いつまでもこうしているわけにはいかない。
ええい、ままよと智和は精一杯の勇気を振り絞って窓の枠を跨ぎ、建物の外側へと出た。外はエアコンが効いていた室内とは打って変わって、じめじめとした夏の熱気と湿気が周りの空間を支配していた。
両足をパイプに乗せて下を見ると、智和は縮みあがった。地面はコンクリートで固められていて、ここから落ちたら軽い怪我では済まされないような代物だった。
足を諤々と震わせながら、智和は渡り廊下に向かって一メートル移動するのに十秒ほどかけながらナメクジのようにゆっくりと慎重に進んだ。怖気付いてしまわないように足元はなるべく見ないように心がけた。
足の震えが小さくなり、少しずつ高所の移動に慣れてきたところで智和が移動スピードを早めようとした時だった。
「きゃああっ!」
風紀委員室のほうから女の悲鳴が聞こえ、その声に驚いた智和は両足を滑らせてしまった。
「ああっ、うわあっ」
すんでのところで両手で足場を摑み、どうにか窮地は免れた。しかし智和にここから自分の腕の力だけで這い上がれるほどの筋力はなかった。これまで一度も学校の部活に入らず、運動をして体を鍛えるという経験をしてこなかったツケがここに来て回ってきたのだ。
「うあ、うああっ」
下半身が宙ぶらりんになりながら、智和はか弱い呻き声を漏らした。
くそっ、どうしてこうなっちまったんだっ。俺はただカンニングをしただけだっていうのに、なんであいつを殺して自分も死ななきゃならないんだっ、最悪だ!
心の中で悪態をつきながら、足をバタつかせて無駄に体力を消耗させているうちに、とうとう彼は力尽きてしまった。
力を失った腕が人形のようにだらりとパイプから滑り落ちると、智和の身体は万有引力の法則に従ってまっすぐに地面に向かって落ちていった。
ちくしょう、死ぬ前に一度くらい兄貴たちを見返してぎゃふんと言わせたかったな──
この高さでぶら下がった状態から落ちたところで別に死にはしないのだが、智和は死を覚悟した。
しかし彼が落ちたところには、幸運にも学校の用務員が管理しているプランターだった。そこには低木が生い茂っており、それが落下時の衝撃をクッションのように和らげたのである。
どうやら、パイプの上を数メートル進んでいるうちに、地面がコンクリートのエリアからプランターのエリアへと移動していたらしい。
助かった、とほっとと溜息をついていると、建物のほうから誰かが智和に声をかけてきた。
「あ、あの……」
背後から聞こえてくるその声は、とても心配そうに智和に話しかけた。
「上から落っこちてきたみたいですけど、大丈夫ですか」
まずい、誰だか知らないが俺の顔を見られるわけにはいかない。智和は声の主に背を向けたまま、プランターからさっと立ち上がった。
「よっ、余計なお世話だっ!」
それだけ言うと、智和は慌ただしい様子でどたばたとその場から走り去った。
何はともあれ、結果的に智和は無傷で犯行現場からの脱出を果たすことが出来たのだった。




