大川千尋の独断総括ノート・千尋の野望の巻
……環境の移り変わりは、人を惑わせます。あたしにとってはニノとの出会いがまさにそうでした。
彼とは辛かったこと、楽しかったことなど様々な思い出があります。京都へ一緒に旅行に行ったこともあります。
しかしニノと出会ってからというものの、あたしが担当する事件はだいたい彼が解決しました。そのおかげであたしは警察署のなかで、「高校生に頼りきりのダメなヤツ」とみんなに言われるようになりました……
あたし、ニノと出会わなかった方が良かったのかなあ!?
繁華街のごじんまりとしたバーに、ひとりのスーツ姿の女性がカウンター席に座っていた。県警捜査一課の女性刑事、藤野愛美である。
「千尋、遅いなぁ」
愛用している腕時計を眺めながら、愛美は同僚の女性刑事である大川千尋を待っていた。
仕事終わりに愛美は千尋と、このバーで一緒に飲む約束をしていたのだが、警察署を出る時に千尋は「ちょっと寄り道してくるから、先に店で待ってて」とだけいって買ったばかりの愛車でどこかへ行ってしまったのだ。
「寄り道してくるって、何しに行ってるんだろう」
愛美がそう呟いていると、彼女の隣の席にタキシードを着た男性が座った。
その男性の顔を見た瞬間、愛美の表情が固まった。なぜなら男の口の上には明らかに不自然な付け口髭が乗っていて、ついでにいってしまえば付け口髭を付けているその人物は男ではなく、愛美がよく知っている女性だったからだ。
「何やってるの、千尋」
「えっ、なんで判ったのっ?」
一発で自分の正体を見破った愛美に、なぜか男装していた大川千尋は目を丸くした。
「だって、どこからどうみても千尋にしか見えなかったからだよ! それに口髭が取れかかってるし」
「ああっ、なんかさっきから口のあたりがムズムズしていると思ってたの、こいつのせいか!」
千尋は取れかかった髭をぺりりと剥がした。
「やっぱ安物はダメだなあ。すぐ取れちゃうもん」
そういって口についた付け髭の糊をウェットティッシュで拭く千尋に、愛美は怪訝な顔をした。
「あのさ、その格好はなに? なんで急に男装なんかしだしたの。さっきいってた寄り道って、これのこと?」
「うん。百均で付け髭を買って、それとファッションレンタルのお店に行って、このタキシードを借りてきたの。高かったよ、一晩着るだけなのに三万円もかかっちゃったもん」
「それで、肝心の男装をしている理由はなに」
「そうそう、その話なんだけどね。愛美ちゃんは今回の夏目くんの事件を担当したのがあたしってことは知ってるよね?」
「知ってるよ。いつも通り二宮くんが解決したんでしょ」
「そう、そこが問題なんだよ!」
「どうしちゃったの、そんなカッカしちゃって」
「いっておくけど今回の事件はね、あたしが解決したようなもんなんだよ」
「そうなの?」
「もしあたしがニノにアドバイスをしなかったら、事件はきっと迷宮入りしてたと思うね」
「えっ、二宮くんにアドバイスしたってことは、千尋は彼より先に事件の真相に気がついてたってこと?」
「……ま、まあね」
「絶対嘘だ。じゃなきゃなんでいま一瞬黙ったの」
「だけど、あたしがニノにアドバイスしたのは本当だよ! あのアドバイスのおかげで事件は解決したようなもんなんだよ。なのにみんな、だれも褒めてくれないんだよ、ひどいと思わない!?」
「いや、千尋はアドバイスをしただけで、結局事件の謎を解いたのは二宮くんなんだから、別に褒められることはしてないでしょ」
「ひどいなあ! 愛美ちゃんまでそんなこと言ってくるなんて」
「愚痴はいいから、なんで男装なんかしてるのか教えてよ」
愛美が尋ねると、千尋は俯いて溜息をついた。
「あたし、警察やめようかなって思ってさ」
「えっ、急にどうして」
愛美が目を丸くした。
「だって、警察にいたままじゃ、誰もあたしの中に眠る実力を認めてくれないもん」
「そりゃあ寝かしたままじゃ誰も気づかないでしょ。というか、そんな実力があるの?」
「あるよ! そしてその眠っていた実力がようやく目覚めたんだよ」
「男装の実力に?」
「違うよ、推理の実力だよ!」
「まさか、さっきのアドバイスとやらが推理の実力とでもいうの?」
「……愛美ちゃんはコナン・ドイルって知ってる?」
千尋は愛美の疑問をやや強引に誤魔化した。
「知ってるけど、それがどうしたの」
「それでね、名探偵コナンの作者でお馴染みのコナン・ドイルは……」
「コナン・ドイルは名探偵コナンの作者じゃないよ? シャーロック・ホームズだって!」
「あっ、そうなの?」
「そうなのじゃないよ、常識以前の話でしょこれは!」
本気で千尋のことが心配になった愛美をよそに、当の千尋はぽかんとしていた。
「とにかく、推理作家として有名なコナン・ドイルだけど、実際にドイルは冤罪を着せられた死刑囚の無罪を証明したことがあるらしいんだよ」
「へえ、そうなんだ。初めて知った」
どうしてそんな話を知っていて、コナン・ドイルを名探偵コナンの作者だと勘違いしていたのかが愛美には不思議でならなかったが。
「つまりだよ、推理作家に推理の実力があるってことは、逆に推理の実力がある人間は推理作家になれるってことだよ。ここまではわかる?」
「なんとなく理解できるような、できないような」
「つまりだよ、推理の実力があるあたしには、推理作家の才能があるってことだよ!」
自信満々にそう言い張る千尋に、愛美は絶句した。
「どしたの、黙っちゃってさ」
「……千尋、きっと疲れてるんだよ」
「別に疲れてなんかいないよ」
「今日はもう帰って寝たほうがいいよ。そしたら頭も冷めるだろうしさ」
「ちょっと、さっきから愛美ちゃん何言ってるの」
「それはこっちのセリフだよ! どうしたらコナン・ドイルと自分を重ね合わせられるの!? 第一、それだけで推理小説が書けるわけないでしょ!」
「ふふん。あたし、推理小説のためにちゃんとトリックを考えたんだよ」
「ウソだあ」
「ウソじゃないから聞いてみてよ。それに今しているこの男装が、あたしの考えたトリックに大いに関係があるんだからさあ」
「その男装が?」
やっと本題に入ったよ、と愛美はなぜか安心した。
「それであたしの考えたトリックなんだけどね、これは今回の事件から思いついたんだ」
「捜査の報告書丸写しで小説書くつもりじゃないよね」
「違うって! まず事件の犯人は俳優で、この犯人は自分の所属している事務所の社長を殺すんだよ。そしてこの事務所の社長っていうのがひどい女好きでさ、毎晩愛人を取っ替え引っ替えしてて」
「今回の事件そのままじゃん」
「本題はここからだよ。さっきいった俳優は男なんだけど、社長を殺す時に彼は女装するんだ」
「……それで?」
「社長が部屋でひとりになっているところを、犯人は周りの人に自分が社長の愛人に見えるようにアピールしながら部屋に入って、社長を殺す。そして現場から逃げて元の姿に戻った頃にはみんな、いるはずのない愛人を探しているってトリックだよ。どう、いいと思わない?」
千尋の話を聞いて、愛美は「ううん」と唸った。
「けっこういけてるでしょ」
「せっかく自信満々に言ってるところで悪いんだけど、そんなの推理小説にはありがちなトリックだと思うよ」
「いや、そんなことないでしょお」
容赦のない愛美の言葉に千尋は戸惑った。
「わたしだって、推理マニアっていえるほど推理小説読んでいるわけじゃないからよく判らないけど、ぶっちゃけこれで本を出したら読者に石投げられるレベルだよ」
「うへえ、難しいなあ。トリック考えるのって」
そういって不貞腐れると、千尋はカウンター席の向こう側にいるマスターにカクテルを頼んだ。
「マスター、いつものやつお願い」
酒を待っている間、愛美がいまだ明らかになっていない問題について千尋に訊いた。
「というか、結局そのタキシードは何だったの」
「ああ、これ? 男装しているあたしを、本当は女かってみんなが気付けるかっていう実験だよ。男女逆ではあるけど、さっきいったトリックが使えるかどうか試したくてさ」
「少なくともわたしは一発で見破られたけどね」
「ちぇっ、タキシードのレンタル代、無駄になっちゃった。結構高かったのに」
「何万円だっけ?」
「三万円。まあいいや。貯金はけっこうあるし、刑事やめてもしばらくは暮らしていけるだけのお金はあるし」
「……本当にやめるつもりなの?」
「そりゃ、刑事やりながら推理作家になるのはムチャだからね」
「やめときなって。そんなんで推理小説なんか書けるわけないし、絶対後悔するって」
「いいもん、決めたんだからね」
「どうなっても知らないよ」
「大丈夫だって……それにしても、いま胸にさらし巻いてるんだけど、これ結構キツいんだよね。ここで外してもいいかな」
「場所を考えなよ! 絵面最悪だから絶対止めて!」
ふたりがそう話していると、カウンターの上に千尋の頼んだカクテルの入ったグラスが置かれた。
「わあい、いただきます」
そういって千尋がグラスに手を伸ばした時、どこからか”ビリッ”という何かが破れるような音が鳴った。
「……愛美ちゃん。いま、なんかイヤな感じの音が聞こえなかった?」
千尋の表情が固まった。
「奇遇だね。わたしも聞こえたよ」
千尋が音が鳴った自分の背後に向けて、恐る恐る目線を動かした。すると彼女は恐るべきものを見てしまった。
「ああっ! 背中があっ!」
千尋が大きな声をあげた。なぜなら自分が着ているタキシードの背中の縫い目の部分が、盛大に破れてしまっていたからだ。裂かれた縫い目からは白いシャツの布地が露出している。
「あちゃあ。これ、メンズの服でしょ。そんなのを無理やり着るからだよ。これは弁償しなきゃだねえ」
「そ、そんなあ」
「別に大丈夫でしょ。こういうのって汚しちゃったりとか、何か起こった時のための保険をレンタル料と一緒に払ってるもんでしょ? ちゃんと謝れば、そんなにお金を取られることも……」
愛美がそう話していると、千尋の顔がなぜだか次第に青くなっていった。
「どうしたの、そんな顔を真っ青にして」
「あたし、レンタル代安くしたかったから保険に入ってなかったんだよ……」
「あちゃあ。それじゃ、弁償代はどれくらいになりそう?」
「……三十万円」
「ありゃりゃ。それじゃあ、さっき言ってた貯金なんかも……」
愛美がそこまで話すと千尋はなんだか悲しげな顔をし始め、その表情を愛美が伺っていると、千尋は彼女に泣きついた。
「貯金全部出しても足らないかもしれない」
「まあ、これからも大人しく刑事として頑張って、お給料稼ぎなさいってことだよ。たぶん」
やれやれ、本当に推理作家になって、千尋が世間に恥を晒さずに済んで良かった、と愛美は思った。
「愛美ちゃん」
「はい」
「あたしはこれまでたくさんの服を買ってきたけど、今破れたこのタキシードが一番高い買い物になったよ……」
「もったいないし、切り刻んで布マスクにでも改造したら?」
わんわんと胸元で泣く千尋の背中を、愛美は撫でた。
「千尋の野望の巻」 完




