二・殺人者になった殺人者
「おはようございます、社長」
「やあお早う」
舞台初日の本番一時間前、多目的ホールの裏口に来た敏三を既に劇の衣装を着込んだ誠士郎が出迎えた。スーツベストを着用し、あとはメイクをするだけといった状態だった。
「それでは楽屋のほうへ案内しますよ。こちらです」
敏三を連れて廊下を歩いている間、劇団員たちが役者裏方問わず皆怪訝な顔をして誠士郎たちのほうをちらちらと見ていた。敏三の顔、そして悪評は業界中に知れ渡っている。彼らが不安がるのも無理はなかった。
「この部屋です」
普段は俳優たちが休息に使うグリーン・ルームの扉を開けると、部屋のなかにはソファー、テーブル、液晶テレビといったものが揃えられていた。
「けっこう綺麗な部屋でしょう」
「そうだな」
敏三が部屋のソファーに腰掛けて目の前にあるテレビの電源を点けると、モニターには劇場の様子がリアルタイムで映し出されていた。舞台上では裏方が大道具の点検をしている。
「あと三十分くらいで開場なので、入り口が混み合う前に客席まで向かったほうがいいでしょうね。この部屋を出て左に曲がってまっすぐ行くと、広いスペースに出てその近くに案内看板が置いてありますから、それを見れば劇場の入り口の方まで行けるはずです」
「まあ、判ったよ」
「チケットをお渡ししますね」
誠士郎がベストの胸ポケットに入れていた劇のチケットを取り出した。チケットは完売しているが、招待客のための空き席がいくつかあるので、そこを昨日劇団の座長の耕作に頼んで確保したのである。
「ごゆっくりご覧になってください。それでは俺はこれから準備があるので、また」
「ああ。頑張りたまえ」
楽屋に戻ると、鏡の前に座らされて化粧を受けている女優、びっしりとメモが書き込まれた台本を睨みながらぶつぶつと呟いている男優、イヤホンを両耳に装着して音楽を聴きながら精神統一を図っている者など、役者たちが各々の形で本番前の時間を過ごしていた。
「社長、ちゃんと観てくれると思いますかね」
スポーツ新聞を読みながらスタイリストにメイクをされている耕作の隣に誠士郎が座った。
「不安なのか」
「昨日話したじゃないですか。劇を楽屋にあるテレビで見て済ませちゃって、客席まで行ってくれないんじゃないかって」
「そうだな。やっぱり俺が思うに、絶対来ないだろうな」
「須藤さんはそう思いますか」
「招待に応じたのも、売れっ子のおまえさんの機嫌取りのためでしかないだろう。わざわざ客席まで来やせんよ」
「すいぶんと手厳しいなあ」
「おまえさんはどうなんだ。客席まで来ると思うのか」
「ええ。それに来てもらわなきゃこっちの立場がありませんからね」
「いちおう俺は止めたんだけどな」
昨日の稽古後、敏三を翌日の舞台に招待するという誠士郎の頼みに耕作は最初反対した。そんなことをしても、自分のタレントを金儲けの道具としか見做していない笹渡敏三という男の考えを変えることなど出来ないと。
しかし誠士郎が何度もしぶとく頼み込んだ結果、耕作のほうが折れて了承した。そこまでして誠士郎が敏三を劇に招待することに拘ったのは、単に自分の演技を舞台で観て欲しかったからではなかった。
「須藤さん、賭けをしませんか」
「賭け?」
「社長が客席で観てくれたら俺の勝ち。逆に駄目だったら須藤さんの勝ちっていう賭けです。どうです、やってみませんか」
「俺は別に構わないけれど、何を賭けようか」
「そうですね、今日の晩飯にしましょう。寿司なんかどうです」
「乗った。君、このことをちゃんと覚えておいてくれよ。誠士郎があとで負けてからしらばっくれたりしたら困るからな」
耕作が自分をメイクしているスタイリストに冗談めかしていった。
「信用ないなあ」
こうして笹渡敏三殺害計画の第一段階を終えた誠士郎は内心ほくそ笑んだ。
一時間後、大ホールの舞台の幕が揚がり『ウィルソン一族』が開演した。
群像劇であるこの物語は第一幕で物語の主役であるウィルソン一家の幸福な黄金時代を描き、三十分の休憩時間を挟んだ後の第二幕では当主亡きあとの本性を表した家族同士の醜い争いが展開される。
誠士郎の演じるアンソニー・ウィルソンは第一幕では才覚溢れる好青年として描写されるが、第二幕では笑顔の裏に隠されていた恐ろしい本性が明らかになるといった、複雑な二面性を表現しなければならない極めて難しい役である。
何度も稽古で繰り返した所作も、実際の観客が入るとひとつひとつが一切の油断が許されなかった。明るい舞台から真っ暗な観客席の様子は殆ど見えないが、観客たちの視線が台詞を放つ自分ひとりに集中しているのを感じた。
第一幕の終わりはアンソニーの妹ミッシェルの十三歳の誕生日パーティで、ミッシェルの幼馴染みのフリント・オースティンが彼女の頬にキスをする場面である。家族全員がふたりを祝福し、ウィルソン家の永遠の繁栄を観客に期待させたところで幕が降りる。
幕の外側で観客たちが盛大に拍手をする音を聞き届けると、出演者たちは下手から舞台を出た。強烈な照明と熱演で汗がびっしょりになった役者たちにスタッフからバスタオルとスポーツドリンクが渡された。
彼らはタオルで汗を拭き、水分補給をすると息をつく間も無く早速第二幕の準備に入った。
誠士郎が軽いメイク直しと衣装の着替えを手早く終えると、老けメイクを受けている男優や髪型をスタイリストに整えられている女優たちを横目に部屋から出た。
「どうされましたか、夏目さん」
廊下でスタッフが誠士郎に声をかけてきた。
「ちょっと手洗いにね」
そういってやり過ごすと、誠士郎は手洗いにではなく自分のグリーン・ルームに向かった。
部屋に入ると、彼はテーブルの上に乗っている自分の鞄を開けて、そこから白い手袋と輪っかに纏めた約一メートルほどの長さの直径二センチの縄を取り出した。
手袋を着けて縄を衣装であるダークスーツの内ポケットに忍ばせると、誠士郎は自分の部屋を出て敏三のグリーン・ルームへ向かった。
もしも、敏三が客席まで足を運んで劇を鑑賞していたとしたら、誠士郎は彼の殺害を中止するつもりでいた。彼が今の自分の方向性に少なからず関心を示しているということなのだから、今後説得していけば殺さずとも済む話だ。
だが、もし楽屋にいるようだったら──
そう考えているとき、警備員の制服を着た男がひとり廊下をバタバタと慌ただしく走って誠士郎の横を通り過ぎようとした。
「すいません、なにかあったんですか」
「い、いえっ、気にしないでください。というか、来ちゃ駄目ですっ」
呼び止められ、汗を流してそう答えた警備員の態度が誠士郎は気にかかった。とりあえず、なにか問題が発生しているのは確かだろう。もしかしたら、殺害計画に支障をきたすようなトラブルだという可能性もある。
誠士郎が警備員の後ろをついていくと、廊下の先のほうで警備員と女性の声が聞こえた。
「君、いったいこんなところでなにをしているんだね。ちゃんと関係者以外立ち入り禁止と書いてあるだろうっ」
廊下の角から先のほうをちらりと見ると、そこには誠士郎が呼び止めた男を含めて警備員が二名、目の前の見たこともない女性に向かって厳しい視線を向けていた。女性は茶色がかったワンピースを着たボブカットの髪型で、身長は女性にしては少し高め。年齢は二十代後半といった感じだった。
「いえ、あの、もしかしたら夏目くんが見られるかなあって……ダメ?」
「駄目に決まっているだろう! なにを考えとるのだね君は!」
どうやら女性は自分のファンのようだった。やれやれ、と思いながらその光景を眺めていると、視界の隅から黒いトレンチコートを羽織ったひとりの少年が女性に歩み寄った。
「大川さん、こんなところでなにやってるの」
「いや、それが……」
大川さん、と少年に呼ばれた女性が言葉を濁した。すると大川の代わりに警備員が少年に向かって答えた。
「この女性が関係者立ち入り禁止のエリアに踏み込もうとしたものですから、こうやって話をお伺いしているわけです」
「そうですか、それはすいませんでした。僕がちゃんと目をつけなかったばっかりに」
話を聞いた少年は呆れかえった顔をした。
「そんなことをするなんて、ご迷惑じゃないか大川さん」
「だって、夏目くんが見えるかなって思ったもん! あたしたちの席、二階でめちゃくちゃ舞台から遠いしさあ……あっ!」
ひっそりと様子を見ていた誠士郎の姿に、大川が気がついてしまったようだった。
「わっ、夏目くんだっ。ねえ、握手して……うわっ、ナニするのっ!」
警備員たちに二人がかりで腕を摑まれて羽交締めにされた大川が抵抗しようとした。
「君っ、ちょっと保安室の方まで来てもらおうかっ」
「どうぞ、連れていってやってください。そんでもってお灸も据えてやってください」
「そんな、ニノーっ!」
悲鳴をあげて連れ去られる哀れな女性に、誠士郎は軽く手を振ってやった。
そして「ニノ」と呼ばれた少年がくるりとこちらのほうを向いて、誠士郎に向かってにこやかに微笑むと彼はその場を去っていった。
少年と目が合った瞬間、誠士郎はなぜか背筋が凍るような感覚がした。
しかしその理由を追求している暇はなかった。休憩時間が終わる前に敏三を殺害し、持ち場まで戻らなければならないのだ。
誠士郎は足早に敏三の部屋の前まで向かった。すると部屋の中から彼の声が聞こえた。誰かと話しているような感じだったが、相手の声が聞こえないのでおそらく電話をしているのだろう。
この瞬間、敏三の運命は決まってしまった。誠士郎はゆっくりと銀色のドアノブを捻って扉を開くと、そこにはソファーに座って携帯で電話をしている敏三の姿があった。テレビの画面には、幕の下がった舞台が映し出されている。
ひっそりと気づかれないように部屋に入った誠士郎の気配に、電話に夢中になっている敏三は気づかなかったようだ。
「──そうか、それじゃあ。ああ、楽しみにしているよ」
敏三がそこまで話して電話を切った瞬間、誠士郎は手に持った縄で彼の首を思い切り絞めあげた。
「か、かはっ」
呻き声を漏らして踠き苦しみ、抵抗する敏三だったが、中年太りしていた彼が毎日の筋トレを心がけている誠士郎の力に敵うはずがなかった。
窒息した敏三が意識を失い昏睡状態に陥ると、誠士郎は彼の首を縄で締め付けたままの状態で、縄の絞めていないほうを部屋のドアノブに縛って括り付けた。
すると敏三の体は部屋の扉に寄りかかって、ドアノブに付けられた縄で首が吊られている状態になった。一見すると首吊り自殺にしか見えない光景だった。
部屋の扉を開けて廊下に人が通っていないことを確認すると、誠士郎は部屋から出て扉をばたんと閉めた。あとは扉の内側で首が絞められたままになっている敏三が、完全に絶命するのを待つだけだ。
舞台に立ったとき以上の緊張を実感しながら、誠士郎は何事も無かったかのような素振りで楽屋に戻った。
「夏目さん、どこ行ってたんですか」
劇団員が誠士郎に詰め寄ってきた。
「ちょっと外の空気を吸いに行っていたんだ。まだ時間はあるだろう?」
「それはそうですけど……」
楽屋の壁に飾ってある時計を見ると、第二幕の開始まであと十二分だった。途中、予想外の事態が起こっていたとはいえ、さすがに時間をかけすぎたような気がした。
いままで付けていた手袋を外してスーツの内ポケットに隠し、先ほど配られたスポーツドリンクの残りを飲みながら昂る気分を落ち着かせると、第二幕の開始時刻になった。
『ウィルソン一族』の第二幕は、第一幕のラストから八年が経過したという設定だ。ウィルソン家当主であるジェームズ・ウィルソンが病死し、彼の弁護士だったブラッキー・フリントがウィルソン家邸宅に一族全員を召集しジェームズの遺言状を公開しようとするが、二週間前から行方不明となっているミッシェルだけがその場に現れないという幕開けである。
そして物語が進むなかで、ミッシェルは兄であるアンソニーに殺害されたことが明らかになるというわけである。
「──あなたも我々と同じような立場に立ったら判るはずですよ。我々のような人間にとって、家族というのは大金が入っているが決して取り出すことのできない金庫のようなものです。ならばそんなもの、壊してしまえばいい」
まさか、こんなことを言っている自分が本当に殺人者になってしまうとは。全くもって奇妙な感覚を味わいながら、誠士郎は不思議と愉快な気分になった。
窒息死した笹渡敏三の遺体が発見されたのは、終演後少し経ってからのことだった。




