一・俳優、夏目誠士郎
携帯電話や自転車を愛着の湧いているものから新しいものに買い換えると、なかなかしっくりこなくて、前使っていたものに戻したくなったことがあるんじゃないでしょうか。
人間関係にも同じようなことがあります。学校のクラス替え、進学。新しい環境に馴染むことができなくて、昔が恋しくなるというのは誰もが一度は経験するものです。
しかしですね、大抵そういう場合意外とすぐに新しい環境に慣れてしまって、そのうち前のことなんかすっかり忘れてしまったりするものです。
ただですね。問題なのは、そうでない場合もたまに起こるということで──
「この人殺しっ」
金銭的な利益のために自らの妹を殺害したアンソニー・ウィルソンに向かって彼の母親であるジャネット夫人は大声で怒鳴り、その声が建物じゅうに反響した。
「おまえはもう私の息子じゃないわ! いや、人間でもない! 怪物よ! 人でなしっ」
肚の底から空気を切り裂くような声をあげる夫人に続いて周囲の人々が、眉も動かさずに悠然としているアンソニーを一斉に責め立てた。
「アンソニー兄さん、失望したよ。ミッシェルはあんなに兄さんのことを愛していたのに、当のあなたは父上の遺産の配分を増やしたいがために、そんな理由で殺してしまうなんて……」
「私もマイクと同じ意見だ。金なんてこの先いくらでも手に入れる機会がある。だがあの可愛いミッシェルが戻ってくることは、二度と無いんだ!」
弟のマイケル、伯父のリンガーバーグが次々にアンソニーを非難した。
しかし、アンソニーはニヤリと口もとを歪めて椅子から立ち上がると、辺りを一遍ぐるりと見渡して、「アーッハッハッハ」と高笑いをした。
「何がおかしいんだっ」
「この私がおかしいですって? フフフ……聞いて呆れますよ。ここにいる皆さんの殆どが、僕を責められる立場になんかないというのにねえ」
アンソニーが蛇のように鋭い眼光を眼鏡越しにマイケルに向けた。
「マイケル、数年前にみんなで別荘に行った時のこと覚えているだろう」
「そ、それがなんだっていうんだい、兄さん」
マイケルがアンソニーの視線にたじろいた。
「忘れたとはいわせない。あの時おまえは海で小さい子供が溺れているといって、私を海岸まで誘い出した。確かに海には何か大きいものが浮かんでいるようにみえた。泳げないおまえに代わって私は海に飛び込んで、子供を救い出そうとした。しかしそこに浮いていたのは子供ではなく、空っぽの木樽だった。そして不味いことに、辺り一面には海月が何匹も浮いていた。もし海月に刺されていたら私は毒で痺れて、そのまま溺れ死んでいただろう。危ないところだった」
急に思い出話を始めたアンソニーに姉のロザンナが尋ねた。
「そんなこともあったわね。だけど、それがなんだっていうの」
「姉上、話はきちんと最後まで聞いてください。あなたの悪い癖ですよ」
皮肉めいた笑みを浮かべながら姉を挑発するアンソニーに、ロザンナはぎりぎりと歯軋りをした。彼女の横にいるマイケルはアントニーといっさい目を合わせようとせずに、肩をがくがくと振えさせていた。
「幸いにも、近くでボートを動かしていた漁師のおかげで私は九死に一生を得た。それまでの間、私は樽にしがみつきながら海月を刺激しないようにじっとしていた。その時樽からある匂いがするのに気がついた。赤ワインの香りだ。今でもはっきり覚えている。前の晩にディナーで出ていたカルベネ・ソーヴィニヨンだ。この時私は悟った。これは罠だと! ワインの貯蔵庫の管理をしていて、私を海まで誘い出したマイケルの罠だと」
張りのある声でアントニーがマイケルの罪を告発した。
「マイケル、プランテーションの経営権を兄である私に握られていたおまえは私のことが憎くて憎くて仕方がなかった。それで私を殺し、全てを奪おうとした。さあ、違うと反論したいのならいくらでもすればいい! どうだ、私に何か言いたいことはないのか」
その問いかけにマイケルは黙ったまま膝を情けなく振るわせるしかなかった。アンソニーはそれを罪の自白と受け取った。
「リンガバーグ伯父様、さっきからそこで突っ立ってばかりいますが、あなたのやったことも私はすべてお見通しですよ」
「な、何の話だっ」
リンガーバーグが口から唾を飛び出すほどの大声をあげた。
「父の貿易会社の帳簿係だったあなたは、会社の資金を盗んで密かに売春宿を経営していましたね。もちろん違法経営です。周りに知られてしまえばひとたまりもないでしょう。宿が経営破綻した際も、損失を会社の金庫から横領して補填しました。そしてこの事実を父上は知ることのないまま亡くなりました」
「どうして、どうしておまえがそんなことを知っているんだっ」
「これまでずっと泳がせていたのですよ。いつかこの切り札が役に立つ日が来ると思っていてね」
「……この屑めがっ」
「それはお互い様ではないですか。宿の共同経営者を口封じに海に沈めておいて、よくそんなことがいえたものです」
「そ、それは」
顔面が青く染まり、広い額から脂汗を流すリンガーバーグの肩を彼の娘であるリンダが激しく揺さぶった。
「ねえお父様! いまのアントニーの話、本当なのっ? それじゃあ私たち、叔父様の遺産を相続することができないじゃない!」
この期に及んで父親より金の心配をし始めたリンダの存在を無視すると、アンソニーは自分の母親のほうをみた。
「そして母上。あなたは病床に伏せた父上の看病をメイドたちに押し付けて、外遊ばかりしていたではないですか。それも若い男と一緒にね。外でハンカチを濡らしながら父上への愛を口にして周囲のご婦人たちから同情されている母上の姿を見て、私は笑いを堪えるのに必死でしたよ」
「う、うるさいっ」
ヒステリックに喚く母親の醜態をアントニーが嘲笑うような眼差しで見つめた。
「なんて惨い」
亡き主人の遺言状を公開するために屋敷に招かれた弁護士、ブラッキー・フリントはこの醜い一族の有り様に愕然とした。
「奥様も、マイケル様も、リンガーバーグ様も、そしてアントニー様も……どうしてそんな真似ができるのか、私には到底理解できません」
「弁護士さん。あなたも我々と同じような立場に立ったら判るはずですよ。我々のような人間にとって、家族というのは大金が入っているが決して取り出すことのできない金庫のようなものです。ならばそんなもの、壊してしまえばいい」
どこか恍惚とした表情を浮かべながらアンソニーが自分に酔いしれるように語っていたその時、部屋の隅からひとりの男の影が彼にめがけて突進してきた。
「うわあああっ」
雄叫びをあげてアントニーに突進してきたのはミッシェルの婚約者の青年、フリント・オースティンだった。彼の手にはテーブルに置いてあったナイフが握られていて、彼はそれをアントニーの腹部に突き刺した。
うっ、と小さい唸り声を吐き出したアントニーをフリントは憎悪の篭った目で睨みつけた。
「よくもミッシェルを……素晴らしい義兄だと、尊敬していたのに!」
ナイフが引き抜かれるとアントニーは引きつった不気味な笑みを浮かべながらその場でよろめき、そして地面にばたんと大きな音をたてて倒れた。
屋敷にいる女性たちが大きな悲鳴をあげ、男たちはアントニーを滅多刺しにしようとするフリントを取り抑え、弁護士のブラッキーが医者を呼びに行こうとするなか、赤い強烈な光で照らされたアントニーは傷を負っていなかった。
なぜならフリントがアントニーを刺したナイフは刃が鞘に引っ込む偽物で、ここまでの話はすべて舞台上で役者が演じている演劇だったからである。
この劇、『ウィルソン一族』はベテラン俳優須藤耕作が主宰する、劇団ミッドナイトピープルの新作である。
元々は一九五七年にアメリカの劇作家アンドリュー・ペニントンと演出家スタンディールー・ロックフォードが共同執筆した戯曲を現代の日本人向けに翻案したものだ。
そしてこの物語のキーパーソンとなるアントニー役に抜擢されたのは、多くのテレビドラマ、コマーシャルに出演し、若者に絶大な人気を集めている男性俳優、夏目誠士郎である。今年二十七歳の彼はこれまでの爽やかなアイドル路線から脱却を図り、ゲスト出演としてこの冷酷なアントニー役に挑んだのである。
公演初日前日のゲネプロを終え、楽屋にあるモニターで自分の演技をチェックしていた誠士郎に若い劇団員が声をかけてきた。
「さっきの演技、素晴らしかったです。感激しました」
「ありがとう。君たちにそういってもらえて嬉しいよ」
稽古の初顔合わせでは外部からのゲスト出演という形で現れた誠士郎に、劇団員の殆どが突如現れた部外者に対して不信感を思っていたが、今では誰もが彼の実力を認めるようになっていた。
「まったくだ」
今回の劇ではリンガーバーグ役を演じ、劇全体の演出も手掛けている須藤耕作が誠士郎の横に現れた。
「正直なところ最初はどうなるかと思っていたが、ここまで仕上げてこれるとは思わなかった。本当に驚いたよ」
「恐縮です」
「謙遜しなくていい、自信を持つんだ。出来ることなら、この公演が終わったらおまえさんにはまた次の舞台にも出て欲しいんだが……」
「須藤さんにそう言っていただけて光栄です。だけど、まずはこの公演を全力でやり切ることを考えないと」
「それはそうか」
耕作が苦笑した。
「それに、事務所の意向もありますから。俺としてはこれからも皆さんと仕事をしたい気持ちでやまやまなんですがね」
「いろいろと大変なんだな」
「……須藤さん、その件でひとつお願いしたいことがあるんですが」
須藤に頼みごとを話した誠士郎は彼からの了承を取り付けると、ゲネプロを行った初演の会場である三ツ谷市多目的ホールを出た。
建物の出口の周りには周囲には誠士郎が現れるのを待って出待ちをしていたファンたちが警備員に取り抑えられていた。サングラスを付けた誠士郎は彼女たちに微笑むと小さく手を振って、マネージャーの待つ車に乗り込んだ。
「予定通り、レストランに向かってくれ。社長から連絡は?」
「ええと、時間通りに来られるそうです」
若き男性マネージャー、秋山也人が車を発進させると、追いかけようとするファンたちを振り切って駐車場から出た。
車の天井に取り付けられているテレビモニターでバラエティ番組を眺めていると、運転席でハンドルを握っている也人が誠士郎に申し訳なさそうな口調で話しかけてきた。
「すいません。ガソリンが切れそうなので、スタンドに寄らないと」
「会食には遅れないだろうね」
「それは間に合うはずです……たぶん」
「判った。今度からはそういうのはこっちが仕事している間にやっておいてくれよ」
「気をつけます」
寄り道をした結果、レストランに到着したのは約束ぎりぎりの時間になってしまった。
会食相手の計らいで貸し切り状態になっている高級中華レストランに入ると相手はまだ来ておらず、先に着いたのは自分のようだった。
席に座ってしばらく待っていると、店に小太りの中年男が入ってきた。
「久しぶりだな、夏目君」
そういって誠士郎の前に現れたのは彼が所属する芸能事務所、笹渡芸能プロダクションの社長、笹渡敏三だった。
「待たせて悪かった」
「いえ、とんでもない。俺も先ほど来たばかりですから。どうぞ、お座りになってください」
ようやくふたりが席についたところで、料理が次々と大きなターンテーブルの上に運ばれてきた。
食事を進めていると、敏三のほうから誠士郎に話しかけてきた。
「それでどうだね、最近の調子は」
「万事絶好調といったところですよ。明日からの公演も、うまくいきそうです」
「そうか」
「社長。俺の今後の件について話をしたいのですが」
「ああ、それならこっちで大方決まっているんだ」
「えっ?」
敏三がレンゲを動かす手を止めて、持ってきた鞄からホチキスで留められた書類を出した。
「これを読みたまえ」
誠士郎が敏三から渡されたのは、映画の企画書だった。中身を読んでみると、映画の内容は昨年ベストセラーになった小説の映画化で、難病に冒された女性が家族や友人たちと共に人生最後のかけがえのない日々を過ごすといった筋書きだった。そして誠士郎は主人公の恋人役を演じると企画書にはあった。
はっきりいって、今の誠士郎にとって何の興味も湧かないオファーだった。このような役柄は既に何度も演じてきたし、いつまでも同じようなことを続けているようでは、そう遠くない未来に観客が飽きてしまうのは明白だ。
そしてその危機感が彼に『ウィルソン一族』のアントニー役を演じさせたのだ。今更前と同じことをしても仕方がない。
大方、映画会社から事務所側に金が入ることを狙った社長のいつもの計画だろうと察した。いつだってこの笹渡敏三という男は目の前の利益ばかり追い求めている男なのだ。
「もう話は動いている。公演が終わったらすぐにプレス発表をして、クランクインするように調整を行っている。異論はあるかね」
拒否は許さない、敏三が暗にそういっているように誠士郎には思えた。
「判りました。しかし社長、ひとつ頼みたいことがあるのですが」
「何だね」
「明日は空いていますか」
「午前中はいくつか打ち合わせがあるが」
「午後は」
「いちおう空いてはいるが、それがどうしたのかね」
「明日の初演、社長にも観に来て頂きたいんです」
「急にまた、どうして」
「社長にいまの俺のポテンシャルのようなものを知って欲しいんです。劇団の須藤さんにも話は通してあります。楽屋のほうも社長のために一部屋空けておきましたから、ぜひとも来て欲しいのですが」
ううん、と敏三が腕を組んで唸った。
「お願いします。せっかくの機会ですから」
「まあ、判った。じゃあ用件が終わり次第、そちらに向かうとしよう」
「ありがとうございます。では、劇の成功を祈って、乾杯」
そういって誠士郎は紹興酒の入ったグラスを掲げた。
それはこれから始まる殺人計画の始まりだった。




