四・異なる点
透を殺害してから一夜が経ち、瞳に殺人という罪を犯したという実感がますます湧いた。あのもがき苦しみながら息絶える透の姿は、いまだに彼女の目に鮮明に焼き付いていた。
そんなことを全く知らない透の友人たちは、彼の死に大きなショックを受けているようだった。
いま瞳のいるプール棟のミーティングルームで待機させられている部員たちは皆、沈痛の表情を浮かべていた。男子部員は繰り返すように小さい声で悪態をつき、女子の何人かは泣いていた。
その中で透のガールフレンドであった大橋萌花はぼろぼろと涙を溢し、顔に両手をあてて俯いていた。萌花の周りには彼女の友人が取り囲むようにして慰めていた。
瞳はそんな萌花の近くに歩み寄って、彼女に声をかけた。
「大橋さん、本当にごめんなさい。わたしが先に帰ったりなんてしなければ……」
「いえ……いいんです」
萌花は涙を手で拭って、震える声でいった。
「瞳先輩は悪くないです。あたしが透先輩と一緒にいなかったのがいけないんです」
萌花に続いて、周りにいる部員たちも瞳を擁護した。
「そうだ、瞳が落ち込むことなんかない。萌花も悪くないからな」
「ああ、いつもすかした顔で俺たちよりずっと早く泳いでいるくせして、溺れるなんてみっともない死に方したあのバカが悪いんだ。透のやつ……」
透の友人たちがそう口々にするのを聞いていると、流石に罪の意識を感じずにいられなかった。
そのとき、部屋のドアが空いて外から誰かが顔を出してきた。瞳は最初、その人物の整った顔立ちを見て女性かと思ったが、よく見ると男性用の黒い襟詰の学生服を着ていた。
「あの、すいません。片野瞳さんはこちらにいらっしゃいますでしょうか。ここにいるって聞いたのですけども」
そういって学生服を着た少年は部屋の中をきょろきょろと見回した。
「……わたしですけど」
瞳は戸惑いながら自分を訪ねてきた少年に返事をした。警察の人間でもなければ、この学校の生徒でもない、急に現れたこの少年はいったい何者なのだろう? 風貌を見るに、自分と同じくらいの年頃のようだが。
「あなたは誰なの? どう見ても警察の人のようには見えないけれど……」
「はい。僕、二宮といいます。お察しの通り警察の人ではありません。あなたと同じ高校生です」
二宮と名乗った少年は、恭しくも気さくな口調で瞳に話しかけた。
「二宮くんが着ているその制服、うちの制服じゃないよね……警察でもなければ、この学校の人でもないあなたが、わたしに何の用なの?」
「ええとですね、事件のことに関して片野さんにいくつかお訊きしたい事がございまして。ここで話すには少々デリケートな問題なので、ちょっと来て頂きたいのですが」
「……別に良いけれど」
「助かります」
自分と同じように困惑する友人たちに見送られながら部屋を出ると、瞳は二宮の横についていった。
瞳が警察から取り調べを受けるのは彼女の想定内だった。たとえこの事件が最終的に事故として処理されるとしても、被害者が最後に会っていた人物に話を聞くのは当然だろう。取り調べに来る刑事に対して向かい合う時の心の準備もした。
自分を取り調べるのはどんな人物なのだろうかと瞳は思っていた。先程見かけた半袖シャツを着た女性刑事のように、いかにもお人好しそうに見える刑事ならうまく騙すことが出来ただろうと思っていた。
だが、実際に目の前に現れたのは得体の知れない高校生だ。まだ夏の暑さの余韻が漂っている気温の中で詰襟を着ていながら、にこやかな表情をして汗を一滴も流していない二宮の姿は瞳に不気味な印象を与えた。
「訊いていい、二宮くん?」
「何でしょう」
「二宮君はわたしから今回の事件の話を聞こうとしているんだよね。どうして高校生の君が、そんな警察みたいなことをするの?」
「ええと、どうしてと言われると困っちゃいますねえ。話すと色々と長くなるので、その辺りのことはまた別の機会にでも」
「じゃあ別のこと訊いていい?」
「何でしょう」
「わたしたち、いまどこに向かっているの?」
「それはですね、行けば判ります」
「わたしが知りたいことをぜんぜん教えてくれないんだね。それとさっきから気になっているんだけど、二宮くんが手に持っているそのレジ袋はなに?」
「これですか。さっきコンビニで買ってきた朝ごはんです。まだ食べていなかったもので」
話をしていると、二人は事件の起こったプールの更衣室の前まで辿り着いていた。入り口には警察が貼り付けた黄色と黒の立ち入り禁止のテープが貼ってあった。
「二宮さん、お疲れ様です」
入り口で警備をしていた制服警官が二宮に向かって敬礼をした。
「こちらこそお疲れ様です、小田原さん」
「いや、あの、言いづらいんですが……私の名前は小田切です」
「ああっ、すいません。小田切さんでしたね。きちんと覚えておきます」
そんな奇妙なやりとりののち小田切という警官はテープを外し、二宮と瞳は更衣室を通ってプールサイドに出た。
「しかし本当にすごい設備のプールですねえ。あれ、壁にタッチして時間を測るタイマーじゃないですか? いやあ、うちの学校の屋外プールなんか比べ物になりませんよ」
二宮はあたりを見渡しながら、大仰な口ぶりでいった。
「それで二宮くん、わたしに訊きたいことってなに?」
「そうですね、立って話すのも疲れるでしょうし、あちらの管理室で座って話しましょうか」
二宮に導かれて瞳が管理室の中に入ると、中に二脚の椅子が向かい合って置いていた。それに二人が座ると、二宮は手に持っていたレジ袋を机の上に置いて広げて、袋の中からおにぎりだとか、魚肉ソーセージといった食品を出した。
「片野さん、今朝は早かったそうですね。朝ごはん、ちゃんと食べましたか?」
「……食べてない」
「それはいけません。コンビニで買ってきたこれ、いかがです? ツナマヨおにぎりなんかありますけども」
二宮は机の上に広げた食品を瞳にみせた。
「ありがとう。だけどいいの。わたし、食欲ないから」
「そうですか。そりゃまあそうですよね、あんな事があったんですから」
二宮は手に持って差し出そうとしていたおにぎりを袋の中に戻した。
「ええと、片野さん」
「瞳でいいよ」
「では瞳さん。顧問の田島先生から、亡くなった瑞中さんと最後にお会いしていたのは、あなただろうとお聞きしたのですが」
「ええ、たぶんそうだと思う」
「そうですか。そのとき彼、どんな様子でした?」
「どんな様子だったって、そんなことを訊かれても……」
「特に変に思った事がなければ、そうお答えして頂いて構わないのですが」
「そうだね、何か変なことはなかったけれど……二宮くん、こっちも質問していい?」
「なんでしょう」
「これは警察の捜査なの? わたしが二宮くんに話すことが、捜査に関わったりするの?」
瞳が尋ねると、二宮は困った顔をして照れ笑いを浮かべた。
「いやあ、どう答えたらいいんですかねえ」
「そもそも二宮くんって何者なの? さっきも訊いたけど、どうしてこんな警察みたいなことするの? まさか推理漫画みたいな高校生探偵だとか言うんじゃないでしょう」
「参ったなあ……話を事件のことに戻しましょうか」
「駄目でしょう。ちゃんと答えてよ」
「また別の機会にゆっくり話しますから。とにかく、あなたが最後に瑞中さんと会ったとき、特に気になる点はなかったということですね?」
「ええ。それが何か?」
「いえ、僕としては少しですね、気になる事があるんです」
「気になること?」
鸚鵡返しをしたのと同時に、瞳の心臓がどくりと大きく鳴った。
「瞳さんは知っていますか? 水泳の選手はどういう順番でレーンに並ぶのか」
「知っているけど。速い人が真ん中のレーンに来るんでしょう」
「それがなぜかもご存知ですか」
「端のほうだとプールの壁に水が当たって波ができて、その波で泳ぎにくくなって良いタイムが出なくなってしまうから、だったはずだけど」
「その通りです。僕もさっき、水泳経験者の知り合いからそう聞きました」
「それが透が死んだことと何か関係があるの?」
「大いにあります。考えてみてください、端っこのレーンだと泳ぎにくいというのは、泳ぐ側としてはあまりそういうところで泳ぎたくないということになります」
「まあ、そうなるね」
「しかしです。溺れた瑞中さんの遺体は第九レーンに浮かんでいました。つまり彼は死ぬ直前、泳ぎにくい端っこのレーンで泳いでいたということになります。部活が終わってプールで泳いでいるのは残った彼ひとりという独占状態だったというのに、どうしてわざわざそんなことをしたのでしょうか。そのあたりが気になるんです」
二宮の話を聞きながら瞳はごくりと生唾を呑み、こめかみから耳の裏へと冷や汗が流れたのを感じた。
「瞳さん、瑞中さんは普段ひとりで泳いでいたとき、どこのレーンで泳いでいましたか」
「……第五レーン」
瞳は正直に答えた。下手に嘘をついたところで、他の部員に尋ねればすぐにばれてしまうと思ったからだ。
「第五レーン。瞳さん、先程あなたは瑞中さんに最後に会ったとき彼に変わった様子はなかったとおっしゃいましたね」
「ええ」
「ですが、もしもですよ。あなたがこのプールに残っているときに彼が真ん中の第五レーンではなく、第九レーンで泳いでいたとしたら、そのことにあなたは気付いていたはずです。いつも真ん中で泳いでいる人が急に端っこで泳ぎ始めたんですから、妙だと思うはずなんです。しかしそうはならなかった。
つまりあなたが帰る前、彼は第五レーンで泳いでいたということになります。となると彼はあなたが帰ったあと、なぜ急に端っこのレーンで泳ぎ始めたりなんてしたのでしょう」
「……二宮くん、訊いていい?」
「はい」
「これはただの事故なんでしょう? 確かに透が端のレーンで泳いでいたことは不思議だけど、だからっていちいちそんなことで頭を悩ませる必要はないんじゃないかな」
瞳が訊くと、二宮は「ううん」と唸った。
「瞳さん、これはまだ誰にもいっていないことなんですがね」
「聞かせて」
「ここだけの秘密にしておいて欲しいんですが」
「どういう秘密なの」
「誰にもいっちゃ駄目ですよ、どえらい騒ぎになりますから」
「勿体ぶらないで教えてよ」
「それじゃあ言っちゃいますが……僕はこの事件、ただの事故ではないと思うんです」
二宮の言葉は瞳をひどく動揺させた。顔に出さないように堪えようとしたが、それでも声が震えそうになった。
「つまり、二宮くんはこの事件が殺人だっていうの?」
「本当に誰にも言わないでくださいよ、まだそうだと完全に決まったわけじゃないので」
瞳は椅子から立ち上がって、二宮から目を背けた。
「どうしてそんな大事な話をわたしにしたの?」
「いや、それは話の流れと言いますか……」
ごにょごにょと言葉を濁す二宮の言動から、瞳はこの謎の高校生は自分を疑っているのだというある種の確信を持った。
しかしなぜだ。今まで話したなかで、二宮に余計な口を滑らせただろうか。いや、そんなことはないはずだった。
確かにレーンの件は二宮にこの事件に対する疑念を抱かせるのには充分な謎だ。だが、それが自分に繋がることになるとはとても思えなかった。
「……もう行っていいかな。わたしに訊きたいことはあらかた訊けたでしょう」
「ああ、ちょっと待ってください。もうひとつだけ訊きたい事があるのですが」
「なに?」
「コンビニで買ったものの残りの包装紙とか、そこにあるごみ箱に捨てちゃって構わないでしょうか」
そう言って二宮は机の近くにあるごみ箱を指さした。中には数日前から溜められた様々なごみがあった。
「ええ、ご自由に」
ややぶっきらぼうに言うと、瞳は部屋から出た。
「どうも。それでは、また何か判ったらお知らせします」
にこやかな表情で見送る二宮の視線を感じながら、瞳は透を殺害した時以上に気持ちが沈んだ。




