二・事故捜査
蔵ヶ丘高校のプール棟の入り口の前には、大会に参加するために朝早くからここに来ていた他校の生徒たちがずらりと並んでいた。
だが入り口に貼られた立ち入り禁止のテープと、近くに立つ警官たちの警備のおかげで建物のなかに入ることができず、加えてパトライトが光る車が周囲に何台も陣取っているというこの異様な状況に、参加者たちはどうすることもできないまま混乱するばかりだった。
そんな彼らの横を一台の自転車が横切った。
軽いアルミニウムのボディに黒い塗装がされ、赤色のラインが描かれている自転車には、顔立ちの整った少年が坂道で息を切らしながらペダルを漕いでいた。
まだ残暑が厳しいこの時期に黒い襟詰の学生服を着ていた少年の姿は周囲の目を引いた。
少年がプール棟の入り口で自転車を停めると、立ち入り禁止テープのすぐ近くに立っていた制服警官の小田切琢磨巡査が彼に声を掛けた。
「おはようございます、二宮さん」
二宮さん、と呼ばれた少年はぜえぜえと荒い呼吸をしながら自転車から降りた。
「おはようございます。ああ、疲れたなあ」
「遠路はるばるご苦労様です」
「いや、いいんです。もともと友達の応援でここに来る予定でしたから。いやあ、それにしても本当に疲れちゃいました。こんなに坂が急なところにあるって知ってたら、タクシーで来てたのに……あっ、これ駐輪場に停めておいてください」
二宮は自転車のハンドルを琢磨に渡すと、膝に手をついた。
「それで現場は?」
「中にあるプールで大川警部補がお待ちです」
「そう。どうもありがとう。それじゃ、自転車よろしくお願いします。ええと、あなたのお名前は?」
「はっ。小田切琢磨であります」
「ううん、かっこいい名前ですねえ。覚えておきます」
琢磨に向かってそう言うと、二宮は立ち入り禁止のテープを潜って颯爽とプール棟のなかに入っていった。
建物のなかにいる警官たちに二宮は事件現場であるプールまで案内された。するとそこでは若き女性刑事の大川千尋警部補が捜査の指揮を執っていた。
「うん、それはこっちに運んで調べておいて……あっ、ニノ!」
千尋が白い手袋を嵌めてプールサイドに入ってきた二宮を呼び止めた。
「ああ、おはよう」
「おはよう、じゃないよっ。なんでこんなに蒸し暑いのにそんな格好してるの!」
季節外れな格好をしている二宮と違って、千尋はパンツスーツに袖をまくった白シャツという服装をしていた。
「なんでって、これじゃないと肌寒いからだよ」
「肌寒いって、どう考えてもニノの体温の調節機能がぶっ壊れてるやつだよ、それ。お願いだからせめて上着だけでも脱いでよ、見てるだけで暑苦しいからさあ」
「いやだよ、こっちだって寒いのいやなんだから。そんなことより被害者は? あそこで浮かんでいる人?」
二宮がプールの第九レーンに浮かぶ死体を指さした。その近くでは鑑識員がストロボを光らせながら死体の写真を撮っていた。
「ええと、ちょっと待ってね」
千尋は警察手帳を取り出して、そこにメモしてある内容を読み上げた。
「被害者はこの学校の生徒で、水泳部の部長をやっている二年生の瑞中透くん。遺体が発見されたのは一時間ほど前で、第一発見者は水泳部の顧問の田島秀夫さんと、ここに一緒に来た部員が数名。死因は見ての通り溺死。ようは、水難事故だね」
「溺死ねえ。彼が溺れたとき、誰か近くで助けてくれる人は居なかったの?」
「事故が起こったとき、被害者はここでひとりで泳いでたみたいだね」
「なんでひとりで泳いでたの。普通こういうのって何かあったときすぐ助けられるように、誰か監視役として近くにいるもんじゃない?」
「えーっと、被害者の瑞中くんはこの水泳部の部長ってことは今言ったよね。それに加えて、全国大会にも出られるくらい優秀な部員だったみたいでね。それで部では色々と特別扱いされていて、時々こうやって部活が終わったあとにひとりで泳いでいたらしいよ。顧問の先生も彼なら大丈夫だと黙認していたらしくてね。それにいつもならマネージャーの子が一緒に残って見ていたんだけど、昨日は遅くなるからってそのマネージャーの子が先に帰っちゃったんだよ。その結果、こんなことになっちゃって」
「ふうん」
千尋の話を聴きながら二宮は遺体の浮かんでいるプールのほうへ歩み寄ると、遺体の手前で膝をついた。
「どうしたの?」
千尋も二宮の横にしゃがんで腰を下ろした。
「……水着」
「は?」
「被害者の履いてるこの水着だよ。ずいぶんとボロっちいね」
二宮は目の前で背中を天井に向けて浮かぶ死体が履いている水着を指さした。縫い目の部分が所々ほつれていたのだ。
「ああ、ほんとだ」
「大事に使ってなかったのかな」
「あっ、この水着、競技用のやつだよ」
水着を眺めていると、千尋が声をあげた。
「なにそれ。水着に競技用のものなんてあるの?」
「そりゃあね。水着って、種類によって水を吸う量が違うんだよ。するとその吸った水の重さで泳いだときのタイムに結構差が出るんだ。だからこうやって競技用ってことで性能を統一しているってわけ」
「へえ。それにしても大川さん詳しいね」
「高校時代は水泳やってたからね。で、ここに描いてあるバーコードみたいなのが公式の大会で使える水着ですよ、っていうマーク」
「色々と厳しいんだねえ」
「水着の種類もだけど、大会で着けていい水泳キャップにも同じようにルールがあるんだよ。メーカーのロゴは大き過ぎちゃいけないとか……」
「そういう話はもういいよ。それより死亡推定時刻は?」
「ああ、はいはい」
千尋は手に持っている手帳のページをめくった。
「死亡推定時刻は昨晩の十七時四十七分から、十九時前後ってところだね」
「十七時四十七分って、どうしてそんな細かい数字が出たの」
二宮が至極当然の疑問を口にした。
「ええっとね、被害者の瑞中くんは死亡する前に彼女さんに携帯のアプリでメッセージを送っていたんだけど、そのメッセージの送信時刻がちょうどその時間だったんだよ」
「その携帯はいまどこに?」
「そこの安っぽい椅子の上。最初からあそこに置いてあったんだ」
二宮が立ち上がって、千尋のいった椅子のある場所まで歩くと、そこには透の携帯が警察の用意したジッパー付きのビニール袋に入れられて置いてあった。
「これ、触ってもいい?」
「袋から出さないでね。これから鑑識で指紋を調べるところだから」
二宮は袋に入った携帯を手にとると、それをしげしげと観察した。
「大川さん、これ、どう思う?」
「どう思うって……あっ、これ先月出たばかりの新型だ」
「そういうこと訊いてるんじゃないんだよ」
二宮は千尋の意見を冷たくあしらった。
「なんでこんなところに携帯が置いてあるんだって話だよ。普通こういうのって、更衣室のロッカーとかにでも置いておくもんでしょ」
「さあ、泳ぐ時のBGM用にそれで音楽を流してたんじゃない?」
「水中で聴こえるもんなの、そんなことして?」
「高校時代にあたしの入ってた水泳部でもやってたよ。みんなで好きなCDを持ち込んで、ラジカセで流したりして……」
「それ答えになってないよ。ちゃんと聴こえてたの?」
「……よくよく思い出してみれば、あんまり聴こえてなかった気がする」
「やっぱり」
「いや、だけどこういうのは気分の問題だからさ。流すのと流さないとじゃ、気合いの入り具合が違うんだよ」
「はいはい」
千尋の言葉を聞き流しながら二宮は携帯を椅子に戻すと、プールサイドの隣にある管理室に入った。二宮は部屋にある回転チェアに腰かけると、目の前の机に置いてあった書類を手に取って、それらの用紙をパラパラとめくった。
「備品管理チェックシートねえ……うわあ、細かいなあ」
「細かいって、どう?」
二宮に続いて部屋に入ってきた千尋が訊いた。
「いやね、消毒用の塩素とか、ビート板だとかそういうのは判るんだけど、これ見て。紙コップとか塩ラムネの個数とかもきっちり書いてあるんだよ。それも入ってる袋じゃなくて、そもそもの個数で。いちいち数えるの面倒くさそうだなあ」
そういって二宮はチェックシートを机に戻すと、また別の紙を手にとった。そこには何本も縦の直線が入って区切られた長方形の図形が書かれていて、それぞれの図形の中には水泳部の部員の名前が記されてあった。
「ええと、これは……」
「ああ。多分これ、練習の時のレーンの組み分けじゃない?」
千尋は二宮が見ている紙を覗き込んだ。
「組み分け?」
「ほら、練習するときにひとつのレーンにひとりだけで泳ぐ、なんて部員の人数的に不可能だからさ。種目だとか、泳げる速さとかでレーンごとにまとめてるんだよ」
「二種類あるね。フリーメニューと、種目別メニューか」
「あっ、フリーメニューっていうのは、クロール中心に練習するメニューってことで……」
「さすがにそのくらいは判るから」
「それじゃあこれは知ってる? 自由形っていうのはその名の通りどんな泳法でも泳いでいいってことで、なんなら犬かきで泳いでもオッケーなんだよ」
「いま初めて知ったけど、そんな話、今はどうでもいいよ」
「じゃあこれはどうかな。こういう泳ぐレーンを決めるときって、だいたい速い人が真ん中のレーンに来るんだよ。なんでかっていうと、端っこの方だとプールサイドで跳ね返った波で泳ぎづらくなって、いいタイムが出なくなるからなんだって」
「じゃあひとつ質問していい? 大川さんは高校で水泳やってたころ、どのレーンで泳いでたの」
二宮に訊かれた千尋は、視線を二宮から逸らして泳がせた。
「そ、そりゃあいちばん真ん中の第五レーンだよ」
「ふうん。それで本当は?」
「……いちばん端っこの第一レーン」
「正直でよろしい。どうせ、大会に出る時も犬かきだったんでしょう」
「な、なんで知ってるのっ?」
千尋が顔を白くし、口に手をあてて愕然とした。
「えっ、本当なの? 冗談でいったつもりだったのに……」
二宮は手に持っていた紙の束を机に放り出した。




