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二宮浩太郎の独断推理ノート 〜高校生探偵の追究〜  作者: スズキ
第二話 「マネージャーの仕事」 VS強豪校水泳部マネージャー/片野瞳
20/55

一・マネージャー、片野瞳の殺意


 こんな豆知識をご存知でしょうか。


 昔、ソ連のパブロフという博士が犬に対してある実験をしました。


 実験の内容は、犬に餌をやるときに毎回ベルを鳴らして、それを犬に聴かせてから犬に餌を与える。この内容を何度も繰り返すというものです。


 すると犬はベルの音を聴いただけで餌が来ると思い込み、よだれを流すようになりました。これがかの有名な『パブロフの犬』のお話です。


 もちろんこのような話は人間にもあります。これをオペラント条件づけといいます。


 たとえば、毎朝通勤通学に使っている道を何も考えずに無意識で歩いてしまったり、几帳面な人の場合は部屋が散らかっていたら無意識に片付け始めたり、「儲かりまっか」と言われたら「ぼちぼちでんなあ」と答えてしまったり……


 気づいていないだけで、こういった話は皆さん自身にもあるかもしれません。


 そう、気づいていないだけで──



 市内のひっそりとした農村地帯に位置する私立蔵ヶ丘(くらがおか)高校はスポーツの強豪校として名を知られているが、それはこの学校の水泳部も例外ではない。毎年多くの部員が県大会に進出しており、インターハイに駒を進める者も少なくない。


 そんな精鋭たちのなかでも特に優秀な成績を収めているのが、バタフライ選手である部長の瑞中(みずなか)(とおる)である。


 小学生の頃から多くの競技大会で新記録を打ち立て、ひいては次回の世界ジュニア水泳選手権大会への出場を渇望されている透を目標にしている水泳選手は部内に留まらない。


 その日、蔵ヶ丘高校の所有するプール棟にある二十五メートルの屋内プールで、透が中央の第五レーンをひとりで泳いでいるのを、部のマネージャーである二年生の片野(かたの)(ひとみ)は管理室の窓ガラス越しに眺めていた。


 スポーツ推薦でこの学校に入学した透とは違って学力試験で入学した瞳は、入学して間も無くの頃に水泳部にマネージャーとして入部し、それから堅実に職務をこなしてきた実績が評価され、三年生の引退に合わせて部のマネージャー長に任命された女子部員である。


 マネージャー長である瞳の仕事は主に他のマネージャーへの指示出し、備品の管理、そして部活が終わったあとに最後まで残って設備の点検をし、プールの入り口にある配電盤のスイッチを押してプールの照明を消すといったものだ。


 いま、この場には瞳と透のふたりしか居ない。新人戦地区予選を翌日に控えて、他の部員たちは本番に備えて体を休めるために先に帰ってしまっている。顧問も打ち合わせのために今日はもうここに戻ってこないとのことだった。


 そんな状況で大会の緊張をほぐすためにひとりで静かに泳ぎたいという透の希望で、彼はひとり残ってプールで泳いでいるというわけだった。瞳はその監視役として残っている。こういったことは今日に限らず、よくあることだった。


 明日の大会の会場となっているこのプールでは、大会本部となる透明なビニールの屋根が貼られたテント、飛び込み台の後ろには選手が待機時に座って待つための椅子などがある。


 瞳は書き終えた備品管理チェックシートを机の上に置くと、近くにある冷蔵庫の上に置かれてある備品の紙コップを袋からひとつ取り、冷蔵庫に入れてあったスポーツドリンクをペットボトルからコップに注いだ。このあと透が泳ぎ終わった時に、彼に渡して飲ませるためだ。


 コップの八分目までスポーツドリンクを注ぐと、瞳はジャージ上着のポケットから白い粉末が入った小さいビニール袋を取り出した。


 袋のなかにある粉末は、錠剤のものを砕いた睡眠薬だった。


 瞳は薬を溢さないよう、手が震えるのを抑えながら慎重にコップのなかへ注ぎ込んだ。


 睡眠薬をスポーツドリンクに溶かしきると、瞳は管理室から地面がざらざらしているプールサイドに出た。プールサイドでは飛び込み台のすぐ後ろにある安っぽいプラスティック製の椅子に置かれた透の携帯電話から、彼の好きなポップスの曲がエンドレスで流れていた。


 本当に水中で音楽なんか聴こえるのかなと瞳が思っていると、泳ぎ終えた透がプールから上がってきた。


 スポーツマンらしい逞しい身体から水を滴り落としながら渡が出てくると、瞳は彼にバスタオルを渡した。


「サンキュ、瞳」


 ゴーグルと水泳キャップを外した透は瞳からバスタオルを受け取ると、それで濡れている髪をごしごしと拭いた。


「スポドリ入れたけど、いる?」


「うん、飲むよ」


 透は瞳から差し出された紙コップを受け取ると、その中のスポーツドリンクを一気に飲んだ。妙なものが混ぜられているとは夢にも思っていないようだった。


「変な味、しなかった?」


「いや、ぜんぜん」


「そう。ならいいんだけど」


 瞳の不可思議な質問にクエスチョンマークを浮かべた透だったが、近くにある自分の携帯からメッセージアプリの通知の音声が聴こえると、すぐさまそれを手にとって流していた音楽を止めて画面を見た。


「誰からのメッセージ?」


「いや、それは……」


 瞳に訊かれた透は言い淀んだ。


「もしかして、大橋(おおはし)さん?」


 瞳が透のガールフレンドである大橋おおはし萌花もえかの名前を挙げると、彼は面食らった。透が部の後輩である萌花と付き合い始めたのは、つい三ヶ月前のことだという。


「どうして判ったんだよ」


「だって、最近よく彼女と一緒に帰ってるんでしょ? みんな知ってるから」


 まいったな、と透は苦々しい顔をして呟いた。


「そんな顔をすることないでしょ。前にも言ったけど、わたし、もうあのことを気にしてなんかいないから」


「……悪いね」


 そう言って、へらへらと笑う透の顔を見て瞳は改めて思った。


 この男を殺害するという自分の判断は、決して間違ってはいなかったのだと。


 今でこそ堂々と大橋萌花と交際している透だが、彼はかつて瞳と交際していたのだ。


 半年前のことだ。ある日の帰り道に透は瞳に交際を申し込んできた。


「嘘で言ってるんじゃないよね」


「本気だよ。実を言うと、ずっと前からおまえのことが気になってたんだよ」


「そう……そうなの」


「それで返事は?」


「……家に帰ったら、携帯で送る」


「いい返事、待ってる」


 その後、瞳は透と交際することに決めた。彼に対して特に悪感情は持っていなかったし、純粋に好意を持たれていることが嬉しかったからだ。


 ただ、部のエースとの交際とあって、周囲に自分たちの関係が知られてしまうと色々と面倒なことになると思われた。瞳は周りには秘密にすることを条件に、透にオーケーの返事を出した。


 透が瞳の条件を受け入れて、めでたく交際が始まった。何度か映画を観に行ったり、レジャー施設でデートをしたりと、瞳にとってはなかなか楽しい交際生活だった。


 だが二ヶ月前のことだった。ちょうど夏休み真っ只中のとき、瞳は透に地元のお祭りへ一緒に行かないかと誘った。


 その誘いを透は断った。その日は家の用事があるのだと彼は説明した。


 仕方がないので、瞳はクラスの友人と一緒にその祭りに行った。そして屋台を巡っているとき、透が部の後輩である萌花と一緒にいるところを目撃したのだった。


 翌日、学校のプールで瞳は部活終わりに透を引き留めて、昨日の祭りで見た光景を彼に話した。


 すると透は青ざめた顔をして瞳に土下座をした。


「頼む、このことは誰にも言わないでくれ」


 土下座をした透がこういったとき、瞳に殺意が芽生えた。


 ただ透が浮気をしてしまっただけなら、怒りこそ湧き上がっただろうが、殺そうとまでは思わなかったはずだった。


 しかし、透が裏切った恋人に対して謝罪することより、自分の保身のことを先に考えたことが瞳は許すことができなかった。


 このとき瞳は透に別れよう、そして自分も事を大きくしたくないからこのことは萌花にも、誰にも話さない、と伝えた。


「ありがとう」


 透は跪きながら瞳の手を握った。


 だが、既に瞳の胸の内では透の殺害計画が組み立られていたのだった。


「さてと、着替えてすぐそっちに行くって萌花に返信しないとな……あれ?」


 透が携帯の画面を操作しようとしたとき、突然彼の体がふらついた。睡眠薬の効果が出てきたようだ。


「なんでだろ、急に眠く……」


 透が手に持っていた携帯を落として頭を抱えると、瞳のほうに寄りかかってきた。


 瞳はふらふらとこちらに向かって倒れ込んでくる透をかわした。そして彼の身体はバタンと音を立てて地面に伏せた。


 最後の力を振り絞って透は瞳の方を向こうとしたが、力尽きてごろんと寝返るとそのまま瞼を閉じて眠ってしまった。それを確認すると、瞳は地面に落ちている彼の携帯を手にとって萌花から来たメッセージの文面を確認した。


 メッセージを確認すると、どうやら萌花はプール棟の出口で恋人の透が来るのを待っているようだった。やはり、今日も一緒に帰るつもりだったらしい。


 こんな現場を誰かに目撃されてしまったら困る。瞳はメッセージアプリを起動して萌花に先に帰るようにという旨の文章を送信しようとしたが、携帯にはロックがかけられていた。


 だが、そのロックは最新の指紋認証だった。瞳は倒れている透の手首を摑んで、彼の親指を携帯の指紋認証エリアに押し付けた。すると携帯のロックは易々と解除された。


 メッセージアプリを立ち上げると、瞳は萌花に「ごめん、遅くなるから先に帰ってて」というメッセージを送信した。するとすぐに彼女から、「それじゃ先に帰ります。明日は頑張りましょう!」と返信がきた。


 大橋さんには悪いことしたな──瞳は携帯の画面を切ると、それを近くの椅子に置いた。


 ここからが本番だ。瞳は仰向けになって倒れている透の身体を、上半身を羽交い締めにしながらプールのあるほうへと引きずって運んだ。


 さすが鍛えているとあって、筋肉質な透の身体は非常にずっしりとしていて重かった。女性である瞳なのだから、なおさら骨の折れる作業だった。


 息を荒げながら透の身体を第九レーンの隣まで運ぶと、瞳はなおも眠り続けている透をプールサイドからプールの中へと落とした。


 バシャンと音を立てて水中に落ちた衝撃で、透は目を覚ました。口から水を一気に飲み込み、苦しみもがきながら透はパニックになってじたばたと暴れた。


 しかし睡眠薬の影響でうまく身体を動かすことができないようだった。必死になってプールから這い上がろうとしても、それはただ彼の体力を無駄に消費するだけに過ぎなかった。


 その光景を、瞳はただ冷たい目で見つめていた。


 透が水中から瞳のほうに向かって手を伸ばした。しかしそれを瞳は容赦無く蹴り飛ばした。


 それが止めになったのか、次第に透の手足の動きが鈍くなってゆき、最後に彼の身体は水面にぷかんと浮かんだ。プールに浮かんだ透の身体は微動だにせず、再び動く気配を見せなかった。


 蔵ヶ丘高校水泳部部長、瑞中透はプールで泳いでいる最中に溺死した──


 これこそが瞳が描いたシナリオだった。どう見ても事故としか思えないこの状況に、誰が殺人事件だと疑うだろう。


 しかし見落としがないとも限らない。瞳は周囲を用心深く見回した。


 すると椅子の上に置いてあった渡の携帯の存在に気が付いた。あの携帯には瞳の指紋がたっぷりと付着している。現場に駆けつけた警察が携帯の指紋を調べれば、検出された指紋の持ち主である瞳に嫌疑の目が向けられるのは明白だ。


 プールの水で湿らせたバスタオルで携帯に付いている指紋を拭き取ると、瞳は死体となった透の手首を手にとって、彼の指紋をべたべたと携帯に付着させた。もし携帯に持ち主の指紋が全く付いていなかったとしたら、警察が不審に感じるだろうと思ったからだ。


 携帯への細工を終えると、瞳はもう一度周囲に見落としや、犯行の痕跡を残していないか確認をした。


 今度こそ、もう大丈夫そうだった。


 瞳はさきほど透に飲ませた紙コップを回収すると、死体を残して足早にその場から立ち去って建物を出た。


 翌朝、大会の準備のために朝一番でプール棟に来た水泳部の顧問と部員たちが、プールに浮かぶ透の姿を発見した。


 第一発見者たちによって即座に救急隊が呼ばれたが、死者が再び息を吹き返すはずがなかった。


 事件現場となった学校のプール棟には通報を受けて出動した警察の車両が囲み、関係者一同が混乱し騒然とするなか、瑞中透の死亡事故の捜査が始まった。


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