十三・確保
渡たちが車に戻ると、無線で飛び交う刑事たちの通信音声がカーナビの横にある音質の悪い無線機のスピーカーから流れていた。それを車でひとり待っていた二宮が、後部座席で二席分使って横になってぼんやりと耳を傾けていた。
「お帰りなさい、無事に帰ってこれて何よりです。どうです? 向こうで怪しい人物をみかけたりしませんでしたか」
二宮は体を起こすと伸びをして、寝癖のついた長めの髪を手櫛でとかした。
「ええっと、変装してる同僚とすれ違ったくらいかな。それと……」
そこまでいったとき、愛美は思わず口をつぐんだ。
「それと? それとどうしたんですか?」
愛美は沈んだ顔をして、黙って運転席に座っている渡のほうを一瞥すると小さく首を横に振った。
「いや……何でもない」
いまいち歯切れの悪い愛美の言葉に、二宮は「ふうん」と返した。
「ちょっとお腹減っちゃったなあ。なにか小腹を埋められるもの、ないですかね」
二宮がそういうと、愛美が「ちょっと待って」と座席の下に置いてある自分のハンドバックを出して中身を探った。
「カロリーメイトならあるけど。チョコ味の」
「それ、頂いてもよろしいでしょうか」
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
二宮は愛美から受け取ったカロリーメイトの箱を開けると、箱から中身を一本出して、袋の上の部分を破ると中身のスティック状のビスケットをハムスターのように齧りはじめた。
そんな二宮の姿を渡はバックミラー越しに眺めながら、無線機のスピーカーから流れる雑音混じりの音声を聴いていた。
「……随分と呑気ですね。こんな状況だっていうのに」
「焦っていたら、落ち着いて物事を考えられなくなりますからね。それに空腹も集中力を奪う要因だといいます。そうだ、堂本刑事もいかがです? カロリーメイトを一本」
「別にいいです」
渡はぶっきらぼうに返した。
二宮は「そうですか、美味しいのに」といって一本めのカロリーメイトを食べ終えた。
「さてと、いまは何時かな」
二宮はコートの裾をまくって自分の腕時計をみた。
「ええと、今は九時五十三分ですか。もうじき誘拐犯が現れる頃合いでしょうかね」
無線機のスピーカーからは刑事たちの『こちら異常ありません』といった声が繰り返し何度も流れてきた。その中に時たま『犬の散歩をしている女性とすれ違いました』だとか、『散歩中だという浪人生に職務質問しました』といった報告が出てきたが、大きな事態は今のところまだ起こっていないようだった。
「そういえば、霧崎警部はどこの配置についているのでしょうか」
二宮が二本目のカロリーメイトの袋を開けながら、前にいる刑事ふたりに訊いた。
「……どこの配置でもいいじゃないですか。警部が誘拐犯なわけがないんだから」
渡が目を伏せながら二宮にいった。
「どうしてそう思うんです? 霧崎警部が誘拐犯ではないなんて」
「二宮くんには判らないかもしれないけれど、あの人は犯罪なんてことをする人じゃないからです。この状況で仲間を信用できなくて、刑事が務まるわけがない」
「警察は人を疑うのが仕事だと思っていたんですがね」
「時と、場合によります」
「いまは、その疑うときなんじゃないですか」
何の造作のないことのように二宮がいい放った。しかし、それは鬱憤の溜まっていた渡の感情を爆発させる着火剤となってしまった。
「二宮くんは黙っていてくださいよ! 君に俺の気持ちが判るわけがないっ」
「ねえちょっと待ってよ! こんな時に喧嘩なんかしてどうするのっ」
気持ちの昂る渡を愛美が宥めようとしたときだった。スピーカーから洋介の声が聞こえてきたのだ。
『こちら霧崎。公園にひとり不審な人物が入ってきました』
その報告が入ってきた瞬間、車内にいる全員が諍いを止めて一斉に耳を傾けた。
『こちら本部、不審な人物の人相を教えてくれ』
『こちら霧崎。男はニット帽にマスクを付けていて顔はよくみえません。体格はやや小柄で、猫背で歩いています──男が公園のベンチに座りました。
男が周囲をきょろきょろと見回しています──男がベンチに座り、ベンチの下を覗き込みました。鞄を手に取りました。膝の上に置き、ファスナーを開けて中を確認しているようです。男がベンチから立ち上がり、公園から出ようとしています。
公園の外に出て、こちらの視界から出ました。直ちに男の追跡、そして確保の許可を願います』
『こちら本部。了解。各班不審な人物を追跡し、身柄を確保しろ』
郷家警視が命じると、ブツッという音と共に無線は切れた。
「ちょっと待ってください」
通信を聞いていた二宮が渡たちに向かっていうと、愛美が反応した。
「どうしたの」
「ここからその無線機で通信することはできますか」
「そりゃ、出来るけど……」
そういって愛美は無線機の傍にあるマイクに目をやった。
「今度はどうしたっていうの」
「いますぐ捜査員の皆さんに伝えなきゃいけないことがあるんです。至急無線を繋げてください。僕からが駄目でも、おふたりの口で──」
「駄目です」
渡がきっぱりと、毅然とした口調で二宮にいった。
「これ以上、君に余計な口出しをさせるわけにはいかない」
「お願いします。事態は一刻を争うんです」
「駄目です! もう俺は君のことを信用できないんだっ」
「堂本刑事」
口調が激しくなっていく渡に、二宮が冷静な口ぶりでいった。
「あなたは本当のところ、どう思っているんですか? 本当に霧崎警部が無実だと信じているんですか?」
「……それは」
渡の頭の中に、洋介の姿がよぎった。常に冷静沈着に事件を解決し、正義のために努める刑事。だが、その存在は先ほどからの二宮の推論で、少しずつ渡の中でも揺らぎつつあった。
「堂本刑事。あなたは上司と、自分自身の勘、どちらを信じるんですか」
二宮の言葉が頭の中で反芻するなか、渡は助手席の愛美のほうを向いた。彼女は哀しい顔をして渡をみていた。
渡は無線機のほうに目をやると、マイクに手を取って「……どうぞ」と小さく呟いて二宮に渡した。
「ありがとうございます」
渡からマイクを受け取ると、二宮は小さく咳払いをした。
「えー……お忙しいところ失礼します。二宮です」
二宮が淡々とした口調でそういうと、本部の郷家警視からの声が返ってきた。
『なんだ、君はこんなときに』
郷家警視はやや怒ったような声で二宮にいった。
「急ぎますので単刀直入にいいます。身代金を持ち去った人物の確保は、いったん保留してください」
えっ、という声が渡と愛美の口から漏れ出した。
『どういうことだ、それは』
「いまはいったん様子をみて、確保に移らないようにしてほしいということです。いまならまだ間に合うかもしれません。いますぐ捜査員の皆さんに指示をお願いします」
『待ってくれ、どうして君はそんなことをいうんだ。せめてその理由をいってくれないか』
「いま詳しく説明している暇はありません。とにかく急いでください。これは誘拐犯の罠かもしれません」
「罠? 罠ってどういう──」
渡がそこまでいったとき、無線機から別の人物の声が聞こえてきた。その声は男の刑事のもので、彼は息を荒げながら本部に通信をしていた。
『こちら丸山。いま男が走って逃げ出しました! 男は須田橋の方面に向かって逃走中です!』
通信に出てきた須田橋とはこの地域一帯を流れる川、須田川に架かっている橋で、全長約五十メートル、川からの高さが約十メートルの桁橋だ。
『こちら本部。了解、橋の対岸にいる捜査員とで挟み撃ちにしろ』
郷家警視は二宮の忠告を取り下げ、刑事たちに指示を出した。すると先ほどの刑事が再び報告を始めた。
『こ、こちら丸山です。男がなぜか急に橋の上で立ち止まりました……ああっ!』
『こちら本部。一体どうした、何があったんだっ』
『大変です! 男が鞄を欄干から橋の下に投げて落としましたっ』
『何だとっ』
突然の事態に騒然する刑事たちの声が無線機から流れる。そのなかで誰かが『確保ーッ!』と叫んで男を捕らえたようだった。
『こちら安井、男を確保しました!』
『こちら本部、鞄はどうなっている!』
『こちら丸山! 鞄は川辺の芝生に落ちて……あっ!』
『どうしたっ』
『橋の下から黒いオートバイに乗った人物が現れて、鞄を持ち去っていきました!』
『ナンバープレートは確認できるかっ』
『駄目です! 何かのシートに覆われていてみえません!』
一連の報告を聞いて、郷家警視は『くそっ!』と悪態をついた。
『こちら本部! 至急オートバイを追うんだっ! 急げ!』
刑事たちの怒号が飛び交う通信を聞きながら、二宮は虚ろな瞳で車の外の真っ暗な夜空を見つめていた。




