十・長い夜の始まり
同僚の刑事を誘拐するという計画を洋介から聞いたとき、この男はなんて非情なのだろうと英治は思った。刑事が自分の目的に利用するためにそんなことをやろうと思ってしまえること自体、過去にいくつもの犯罪を犯していた英治でも恐ろしく感じた。
しかしいまなら判る。こんなヘボ警官、どんなに酷く扱ったところで少しも心が痛まない。目の前で椅子ごと床に横倒しになったまま、しくしくと泣いている千尋をみて英治はそう思った。埃だらけの床には倒れた千尋の涙と猿轡から漏れ出ている涎で小さな水たまりが出来ている。
警察に取引の連絡を入れた英治は、電話に使った千尋の携帯を自分のレザージャケットのポケットにしまった。そして千尋をひとりで残して彼は建物から出ると、表に停めてある白いミニバンに乗って、彼は車の持ち主である友人の住むアパートへ向かった。
「おっ、きちんと返してくれたか」
ミニバンの持ち主である佐々岡大志は、アパートの部屋の玄関先で英治から車の鍵を受け取った。大志も英治と同じくいかにもチンピラのような風貌をしていて、無精髭を生やし、何ヶ月も散髪していない髪は肩の辺りまで伸びきっていた。
「珍しいな、おまえがきちんと約束通りの時間までに返してくれるなんて」
「俺だって、たまには約束くらい守るよ」
「ハハハ、それは悪かったな」
大志は鍵をズボンのポケットにしまうと、手に持っていた缶ビールをぐいと呑んだ。
「なあ、おまえこれから暇か? だったら一緒に飲もうぜ。つまみもあるからよ」
そういって大志は煙草の臭いが立ちこめる部屋の方を指さしたが、英治は首を横に振った。
「悪い、これから色々と仕事があるんだ」
「ふうん、それは残念だ。じゃ、また今度飲みに行こうや」
「いや、それも無理かもしれないな」
「……それ、どういうことだ?」
大志はビール缶を口から離すと、眉を顰めて英治をみた。
「俺、ここを離れることになったんだ」
「ここを離れる? つまり引っ越すってことか。どうしてまたそんなことに」
「詳しくはいえない。暫くはこっちに戻って来られないだろうな」
「英治、おまえ、いったいどこに行くつもりなんだ」
「東北のほうだ。それ以上はいえない」
「そうか」
酒臭い息を吐くと、大志はポケットの中から財布を出し、そこから一万円札を五枚ほど出すとそれを英治に手渡した。
「これは?」
「ほんの気持ちだ。これでうまい飯食ったり、いい女抱いてこい。東北の方にはいい女が多いっていうからな」
「おいおい。聞いたことないぜ、そんな話……だけどありがとう。大事に使わせてもらうよ」
「気にするな。また会ったとき、奢ってくれりゃいいさ。それじゃ、元気でな」
「ああ。出来れば、また」
アパートの鉄骨の階段を降りながら、英治は深い溜息を吐いた。
大志には悪いことをした。これから英治が向かうのは東北ではなく関西方面だ。万が一警察に英治の存在をマークされたときに、あらかじめ保険として彼の近しい者にこの計画が終わったら英治が行くのと全く異なる逃亡先を伝えて、それを基に警察に誤った情報を伝えさせるのはどうか──そんな提案をしたのは洋介だった。
確かに悪くないアイデアだったが、数少ない友人である大志をこういった形で一方的に巻き込むのには流石に英治も気落ちした。
しかし友人と離れ離れになるとはいえ、英治はこの街を離れることに対して未練はなかった。なにしろ、今まで多くの犯罪を犯してきた以上、この街は彼にとってとても生きにくい場所になっていた。ならいっそのこと、全く新しい新天地へ金を持って逃げるのがいい。そしてほとぼりが冷めたら、戻ってきてまた大志を飯に誘えばいい。
とにかく、いまいちばん肝心なのは身代金の取引を成功させることだ。これさえ切り抜ければ、後は洋介の力を借りてこの街から抜け出せばいい。
英治は顔をあげて前を向くと、ひとり暗い道を歩いた。
誘拐犯たちの長い夜が始まろうとしていた。




