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8月25日 〜ひーちゃんの日記〜

≠この物語は鎮魂歌、登場する人物たちの交差する切ない物語。


可奈、可奈?目を逸らさないで……

可奈、可奈?忘れて欲しくないの……

可奈、可奈!運命からは逃げられない!


──ひーちゃん……ごめんね。

私には耐えられなかったの……

忘れるつもりなんて無かった。

でも……でもね?

暑い夏の強烈な日差しの中、笑いながら私に手を振ってくれたあなたの姿が、あまりにも鮮烈で、あまりにも美しすぎて……

私はただ……ただ……許して、ひーちゃん……


「ひーちゃん、ひーちゃん起きて、朝だよ〜。

ほら、起きて? 今日は大切な日なんだよ?

おーきーろー!」


──そう、運命の日はなっちゃんに起こされて始まったんだ。


2015年8月25日。

私が自分の記憶を消してしまうほどの衝撃的な出来事……いや、“衝撃的”なんて陳腐な言葉では片付けられない、残酷な運命の日は、朝から異常に暑く、太陽がやけにギラギラと眩しかった。


なっちゃんに揺すられて目を覚ましたひーちゃんは、まだ夢の世界をふわふわ漂っているようだった。


「──ふぁぁ……うー、なっちゃんおはよう……昨日は遅くまでお話したから、まだ眠いよぉ……」


トロンとした目でなっちゃんを見詰めるひーちゃん。


そんな可愛らしい寝ぼけ顔を見て、なっちゃんは思わず吹き出してしまう。


「ぷっ……ひーちゃん?今日は大切な日なんでしょ?

ほらほら、起きて支度しないと間に合わないよ?

……仕方ないなぁ、私が起こしてあげようかな?」


他意は無かった。本当にただのお遊び。

昨夜の仕返しの気持ちも少しあった。


……ただ、ほわほわした顔で私を見つめる彼女のことが、心の底から愛おしかった。


女の子座りでニコニコしているひーちゃんに、なっちゃんは四つん這いでそっと近づく。


目の前にキラキラ輝く大きな瞳。

そして可憐な唇。


なっちゃんの中で何かが静かに弾け──

そっと、唇を重ねていた。


突然のキスに、ひーちゃんはキョトンと固まったまま。


ほんの数秒の出来事。

でもなっちゃんには永遠に続いたような甘美な瞬間だった。


そっと唇を離し、真っ赤になってモジモジしているひーちゃんの瞳を見つめながら、なっちゃんはぽつりと呟いた。


「──昨日のお返しだよ……

これで目が覚めたでしょ?……ひーちゃん……ううん、比奈?」


恥ずかしさを隠すように、わざと悪戯っぽい笑みを浮かべながら。


「──もう……びっくりしたよっ! いくら何でもこんなことするなんて……

でも……少し嬉しかったよ。

そして……久しぶりに名前で呼んでくれたね?

なっちゃん……ううん、可奈ちゃん。」


──ぱぁっと視界が開けた感覚。

どこまでも続く青空の中、心地よい風が吹き抜けるような爽やかな解放感。


私は完全に思い出した。

そう、これは私と比奈の愛おしい、幸せな記憶。

そしてこの後訪れる、避けようのない悲劇の序章。


私の目から再び涙が溢れた。

とめどなく、とめどなく──

拭っても拭っても止まらない。


腰から崩れ落ち、冷たい真っ黒な床に両手をつき、耐えがたい喪失感に嗚咽を漏らす。


その時、私の肩に温かい手の感触が伝わってきた。


そして、静かに……しかしどこか冷徹な響きを帯びた声が囁いた。


ヒナ

「可奈、いいえ……なっちゃん。

思い出してくれたのね……私のこと。

そう、私は猫屋比奈。

あなたの大切な親友……ううん、それ以上に、あなたの心の拠り所だった女性。

ねぇ、私を見て? 可奈。

あなたが辛すぎて、悲しすぎて、心の中から消し去ってしまった私を……」


ヒナ様の声が、静かに脳へ直接流れ込んでくる。

でも……どこか違う。

人間の暖かさの無い、機械的な響き。


私はハッとして彼女へ向き直る。


微笑んでいるはずなのに、その顔はまるで仮面のようだった。


その奥にいる“何か”は、もう比奈ではなかった。

私は全身の震えを押さえられず、ただ涙を流すしかなかった。


ヒナ

「ああ、運命の時が刻一刻と近付いてくるわ。

可奈? あなたが封印し、心の奥底へ沈めた“破滅の秒針”が再び動き出す。

さぁ、目を開いて?

私と一緒に、見届けましょう。」


──逆らえない。

ヒナ様の言葉は、私を無条件に従わせる麻薬のようだった。


涙は自然と止まり、私は再び“あの日”を辿り始めた。


「ひーちゃん、わたし一度家に帰るよ。

えっと、1時発の特急に乗るんだよね?

わたしも駅まで一緒に行くから、また後でね?」


なっちゃんは何事もなかったように帰り支度を始めた。


「なっちゃん……わざわざ見送りに来なくても平気だよ?

秋の大会も近いから、部活忙しいんじゃないの?

……でも来てくれたら……正直嬉しいよ……」


最後の「嬉しい」が、消え入りそうな小さな声。

けれどその奥に、大きな期待が込められていた。


なっちゃんは振り向き、満面の笑みで答えた。


「ひーちゃんとわたしの仲で遠慮なんてダメっ!

君が何と言おうと俺の決意は変わらないぜっ!

……なんてね。

未来の大作家さんの門出を見送らなくてどうするの?

東京までは行けないけど、駅までは一緒させてよ……ね?」


そう言って、なっちゃんは帰っていった。


「ほんと……なっちゃんてば、優しすぎるんだから……

大好きだよ。」


閉まったドアに向かって、ひーちゃんはそっと呟いた。


──ひーちゃん。

私も、あなたのことが大好きだったよ……


私はまた泣いていた。

この後の出来事は、見なくてもわかっている。

わかっているんだ……ヒナ様。


私は哀願するようにヒナ様へ語りかける。

けれど返事は来なかった。


代わりに──

視界が暗転し、場面が変わる。


──まもなく6番線に、13時00分発、特急『踊り子』、東京行きがまいります。

危ないですから、黄色い線の内側までお下がりください。


目を開ければ、小田原駅のホームだった。

運命の時が静かに、確実に近付いてくる。


「ひーちゃん、気を付けてね。

そして、この手に大きな夢を掴んでくるんだよ……わたし、待ってるから……」


なっちゃんは、ひーちゃんの手を思い切り握った。

まるで、思いごと彼女に渡すように。


「なっちゃん、ありがとうね。

大丈夫、きっと素敵な報告が出来るはずだから……

だから待っててね!」


ひーちゃんも力を込めて握り返す。

離れていても、心は一緒だよという想いを込めて。


やがて電車が滑り込んでくる。


ひーちゃんは淡い水色のサマーワンピースの裾を、風にふわりと揺らし、

片手でカンカン帽のつばを軽く押さえながら振り向いた。


「なっちゃん……可奈!

ありがとう。

行ってくるね!」


夏の容赦ない日差しさえ弾き返す、向日葵みたいな明るい笑顔。

世界が一瞬だけ輝いた。


そして──

その最高の笑顔を残して、ひーちゃんは私の前から去っていった。


──私が見た、猫屋比奈の最後の姿だった。


見たくない記憶だった。

もう二度と見ることの出来ない、あの眩しく、健気で、愛おしい笑顔。


こんな別れがあっていいのか……?

これが彼女との最後だったなんて、信じられるのか……?


私は何年も何年も、あの笑顔を“忘れるためだけに”生きていた。

いや、忘れるためじゃない。

私は本当に、比奈を忘れてしまったのだ。


あまりにも強烈な体験は、自分を守るために、記憶ごと切り離してしまうらしい。


私は彼女の悲報を聞いた瞬間に意識を失い、

目覚めたときには──

猫屋比奈の記憶は、完全に消えていた。


自分を守るためだけに。

この世で一番大切だった親友の存在を、消し去った。


──なんて残酷な女なんだろう。

なんて薄情なんだろう。可奈……

私は彼女を止められたはずなんだ。

一緒に行くことだって出来たはずなのに。


どうして……どうして私は行かなかった?

どうして?どうして?


……だって、あんなことが起こるなんて、わかる訳ないじゃないか!


……だって、二度と彼女に会えなくなるなんて、思う訳ないじゃないか!


えぐっ……えぐっ……

ひーちゃん……ひーちゃぁぁぁん!!


ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……


私があなたの未来を奪ってしまったんだよ……

私がっ……私があの日あなたを止めていればっ!!


悔やんでも悔やみきれない、胸が張り裂けそうな激しい悔恨。


思い出した。

すべてを思い出して、私は泣き崩れた。


ヒナ

「ああ、可奈……私のために泣いてくれるのね。

なんて優しく、愛情深い良い子なんでしょう。


泣かないで可奈。

私はあなたが思い出してくれたことで満足なの。

私、猫屋比奈が再び可奈の心に生き返ったことが……嬉しい。


さぁ、もっと私を思い出して?

そして私に教えてちょうだい。

猫屋比奈を形づくるための、大切なパーツを埋めて……。


可奈が私を想うたびに、私は比奈になれる。


これから先の出来事は、あなたは知らないわよね?


ひーちゃんが東京で誰に会って、何をして、どう思って……

そして、悲劇はどうして起こってしまったのか。


可奈?

もう少しだから……

もう少しだから、頑張って見届けましょうね?」


ひーちゃんの仮面を被った女神は、私にそう告げた。


これ以上耐えられない“終わり”を見届けよと命じる。


もう私はきっと壊れてしまう。

それでも──

ひーちゃん、いや比奈を止められなかった“神罰”を受ける覚悟を決めた。


比奈が歩んだ悲劇の道程を、

私も一緒に歩む。


ゴルゴダの丘へ進むイエス様のように──

その最期の瞬間を見届けるために、

私は十字架を背負って歩み続ける。


≠この作品は桜井可奈の悲劇の序章。


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