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8月24日 〜ひーちゃんの日記〜

≠この作品は封印した記憶、登場する人物が忘れ去った悲しいフィクション?


「もしもし、なっちゃん? 今日ウチに泊まりに来ない?

明日、いよいよ東京で編集の高梨さんに会うんだ。

その前に、なっちゃんとお話したいの……どうかな?」


夏休みも終盤。

窓の外からは夏の終わりを告げるツクツクボウシが、今を盛りと鳴いている。


ひーちゃんは自宅のソファに寝転がりながら、なっちゃんに電話していた。


昨晩、高梨とのメールの遣り取りで、8月25日の午後に東京のスターゲートパブリッシング編集部で文庫化の契約を行うことが決まったのだ。


──ひーちゃん……いよいよ高梨に会うんだね。

今の私にはあなたを止める術がない。

アイツは……アイツは!


高梨龍一のことを考えると、ハラワタが煮えくり返るほどの怒りに支配されてしまう。


比奈は高梨の日記を書くことで、アイツを支配し、制裁を与えることができるのだと私に諭した。


ただ……どうにも腑に落ちない思いが芽生え始めている。


私に襲いかかり、我が物にしようと暴挙に及んだアイツ。

あれは本当に高梨龍一だったのか?


ひーちゃんの記憶を見続ける中で、私は違和感を覚え始めていた。


抜け落ちた記憶の一部──そこに“高梨龍一”という名前があった気がする。


おかしい。何かが変だ。

記憶が入り乱れ、別の記憶を植え付けられたのではないか?


失った記憶を探ろうと、私は必死に糸を手繰った。

その先に真実があるはずだから。


思考の迷路を探索し始めると、すうっと隣に寄り添う影が現れる。

比奈さまだ。


比奈さまは、真っ暗な洞窟の中を探索する私の手を引き、答えがあるであろう出口へ導いてくださる。


比奈

「可奈、あなたは私が照らし出す道を歩みなさい。

進んだ先には、あなたが望む答えがきっとあるのです」


微笑みを浮かべ、私の耳元で囁かれる。

吹きかけられた吐息が、恍惚の快感となって私の背筋を震わせた。


──ああ、比奈さま。

あなたが照らし、導いてくださるこの道こそ、私を苦しみから解放し、真実を見せてくださるのですね。

私は迷わず進みます。そして物語の結末を確認いたします。


再び、目の前にひーちゃんの記憶が映し出された。



ひーちゃんは電話を切ると急いで部屋に戻り、そそくさと片付けを始めた。


「久しぶりのパジャマパーティだね。

なっちゃんに色々聞いてほしいことがあるから嬉しいな」


ひーちゃんは不安だった。


とんとん拍子で進んだ小説の文庫化。

そして初めて体験した、父親以外の大人の男性との親密なやり取り。


たとえメールであっても、社会人との本格的な遣り取りは初めてだ。


メールの文外に滲み出る高梨の真摯さ──

ひーちゃんに対する尊敬と、文庫化への熱い思い。

それが彼女に、ある種の“期待”を抱かせていた。


「高梨さん、どんな人なんだろう?

あー、早く会ってお話したい!

でも……こんな普通の女の子でがっかりされないかな?」


鏡台の前に立ち、自分の姿を映してポーズをとる。


サマーワンピースの裾をひらりと浮かせてくるりと回る。

後ろで手を組んで振り返る。

自分なりの“可愛い”を懸命に探していた。


ひーちゃんはまだ気付いていない。

その姿は、初恋に浮かれる女の子そのものだった。


──ひーちゃん……恋をしてしまったのね。

あなたの胸のときめきが痛いほど私に伝わってくる。

でもね、その男は絶対にダメなんだよ?

ひーちゃん、気付いて……

ああ、私の声を彼女に届けたい……


複雑な心境で見続けることしか私にはできない。



夕方、ドアチャイムが鳴り、なっちゃんが訪れた。


「いらっしゃい、なっちゃん。さぁ、上がって上がって!」


ドアを開けたひーちゃんは、満面の笑顔で迎えた。


「やっほー、ひーちゃん。来たよ〜。

これ、お土産ね」


なっちゃんのお父さんが持たせてくれた地元の新鮮な地魚のお刺身。

漁協勤めのお父さんは、いつも美味しい魚をお土産に持たせてくれる。


「おおー、なっちゃん、いつもありがとう。

叔父さんがくださるお魚、最高だよ!

今日はお刺身パーティだねっ!」


二人はワイワイ騒ぎながら食事の準備をした。



食事が終わり、並んで洗い物をする。


ひーちゃんは、胸に抱えていた不安をそっと打ち明けた。


「なっちゃん……正直、少し不安なんだ。

ううん、少しじゃない。かなり不安なの。

私のお話が本当に本になるのかな?

なったとして、たくさんの人に読んでもらえると思う?

編集の高梨さんは大丈夫って言ってくれるけど……。

それに、一人で東京に行って、ちゃんと契約できるかな……」


手を止めて、ぽつりと呟いた。


なっちゃんも洗う手を止め、流しの水音だけが響く。


少しの沈黙の後──

なっちゃんは濡れたままのひーちゃんの手を、ぎゅっと握った。


「ひーちゃん……そうだよね。

うん、すっごく不安だよね。

でも聞いて?

ひーちゃんのお話は絶対に大丈夫。

何度も私に読んでくれたあの物語。

夢みたいで、でも確かにそこにいると思わせてくれたキャラたち。


最初、ひーちゃんが小説書き出したって聞いたときは、

“また何か始めたのね?”ってくらいにしか思わなかった。


でも今は、はっきり言える。

ひーちゃんは絶対に小説家になれる。

ううん、もう立派な作家さんだよ。


だから信じて?

あなたの一番最初のファンが言うんだから、間違いないよっ!」


目を輝かせながら励ますなっちゃん。

その言葉に、ひーちゃんの目から涙が溢れた。


「ありがとう、なっちゃん……

やっぱりあなたは、私の大切な人だよ」


ひーちゃんはおでこをくっつけた。

なっちゃんは真っ赤になって慌てる。


「ちょ、ちょっと! 恥ずかしいよぉ〜!」


ひーちゃんはくすくす笑いながら頬にチュッとキスした。


「ちょっとぉ!ひーちゃん! 私、本気で怒るよっ!」


──ああ、懐かしい……懐かしいな……

あの日、そうだ、あの日。

こんな些細な幸せを二人で楽しんだよね。


ねぇ、ひーちゃん……ひーちゃんは私のこと、どう思ってたの?


私ね……ワタシは……

ワタシハ……

ワタシハ誰デスカ?


次の瞬間、とてつもない痛みが頭を襲う。


今まで経験したことのない激痛。

自己防衛反応──これは“私の体が、この先を思い出すことを拒んでいる”痛み。


痛い……痛いよ……

ああ、耐えられない……やめて……誰か……!


私は暗闇でのたうち回る。

トリルで頭を削られるような激痛。

このまま続けば、脳が破壊され廃人になる。


泣き叫ぶ私の前に、一筋の光が差し込んだ。


その白い光は、私を優しく包み込み、悪夢の痛みを吸い取っていく。


比奈

「可奈、大丈夫……ほら、痛みが引いていく。

あなたの痛みは全部、私が吸収してあげる。


だから……ね?


可奈が忘れて──

いいえ、“封印した”記憶を私に全部見せてちょうだい。


あなたが抱える罪、取り返しのつかない後悔。

それらを全部、晒してしまいなさい。


あなたの罪悪感……

無理矢理消した記憶こそが、私を“より人間へ”近付けるの。


わたしは待っていたの。

ずっと、ずっと待っていた。


あなたが隠してきた真実。

思い出すことを拒み続けた悲劇の一幕を。


さあ、続けましょう。

この世界の容赦ない、残酷な物語のフィナーレを。


可奈のトラウマとなった、あの一日の出来事を──

一緒に観覧いたしましょう」


耳元で、比奈さまが再び囁く。


恐る恐る見上げた私の前にいたのは──

あの日、私の元から消えた少女の顔。


すっかり忘れていたその顔は、

神とは思えぬ邪悪な微笑みを湛えていた。


まるで、これから起こるカタストロフを

待ち望んでいるかのような──

冷たく、凍るような微笑みだった。


≠この作品は、ひーちゃんとなっちゃん最後の思い出。

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