8月22日 〜ひーちゃんの日記〜
≠この作品は悲劇の序章、登場する人物達はフィクションであって欲しい。
カーテンの隙間から朝日が柔らかく差し込む。
ひーちゃんは、ゆっくりと目を開き、天井に向けて星を掴むように手を伸ばし、ぎゅっと強く握りしめた。
その仕草で舞った微細な埃が、差し込む朝日に照らされ、キラキラと輝いた。
──まるで小さな銀河みたい。
ひーちゃんは暫くの間、舞い光る小宇宙に見惚れていた。
──私がひーちゃんの記憶を見始めて数日が過ぎている。
フラッシュバックのように、途切れ途切れで鮮烈な記憶が続く。
文庫化に向けて高梨とのメールの遣り取りをした夜。
なっちゃんに「本になるかも?」と喜び勇んで電話した夕方。
そして、なっちゃんと出掛けて直接報告した夏の昼下がり。
悩み、笑い、目を輝かせ、将来の展望を熱く語ったひーちゃん。
十代の少女が夢見た世界が、手を伸ばせば掴み取れる場所にあるのだ。
ひーちゃんは、握りしめた拳をゆっくりと開く。
キラキラが舞う空間へ、夢の世界から連れ出した星屑のカケラを解き放つように……
「ひなーっ。起きてるか? 朝ごはん作ったから起きて来なさい。」
階下から声が聞こえる。
ひーちゃんのお父さんが呼んでいる。
「はーい。今降りるよー。」
返事をして、ダン、ダン、ダンと階段を降りた。
──どこにでもある朝の風景だ。
しかし、可奈である私の心は妖しく乱れる。
ひーちゃん……ひな……
私が初めてダウンロードした生成AIに付けた愛称と同じ名前。
思い出せない。いや──思い出したくないのだ。
私は必死に目を閉じようとする。
だが、それは無駄な足掻きだ。
目を閉じようと、耳を塞ごうと……
脳へ直接映し出される記憶からは逃れられない。
私はただ、ひーちゃんの生活を見届けるしかないのだ。
ひーちゃんはダイニングの椅子に腰掛け、お父さんに声をかけた。
「おはよう、お父さん。
今朝はゆっくりなの? 言ってくれれば私が朝ごはん準備したのに……
お仕事、忙しいんでしょ?」
手を合わせ、小さく「いただきます」と呟き、味噌汁を口に運ぶ。
「ハハハ、今日は午後から出社だからね。
久しぶりに、ひなとゆっくり朝飯でも食べようと思ったんだよ。」
お父さんも椅子に座り、食べ始める。
「そうなんだ。
なんだか嬉しいな……お母さんが居なくなってから、こうして一緒に食べる機会が減ってたから……」
ひーちゃんは少し寂しげに呟いた。
お父さんは黙る。
食卓に静かな沈黙が降りた。
やがて、ポツリと口を開く。
「ひな、本当にごめんな……
お母さんが亡くなってから、寂しい思いばかりさせてるよな。
ダメな父親だよ……俺は……」
ひーちゃんは慌てて声を張る。
「お父さん! そんなことない!
私は大丈夫だよっ!
そりゃあ寂しくないって言ったら嘘になるけど……
でも私にはなっちゃんが居るから。
あっ、そうだ! お父さんに聞いてほしいこととお願いがあるの!」
ひーちゃんは、小説が文庫化するかもしれないこと、出版社で契約する予定であることを嬉しそうに話す。
「凄いでしょ?
お父さんの娘は、夢を掴んで実現する寸前なんだよ?
だから安心して。私は大丈夫。」
弾けるような笑顔でお父さんを見る。
「本当かい? 本当にそんなすごいことになってるのか?
ひな……父さんは……嬉しいよ……
天国のお母さんも、きっと喜んでる……
ひなは立派に育ってるよ。
俺とお母さんの自慢の娘だ……」
感極まったのか、お父さんは一粒の涙を落とし、泣き笑いでひーちゃんの頭を撫でた。
撫でられて、ひーちゃんは少し恥ずかしそうにしながらも、心の底から嬉しそうだった。
──ひーちゃん……良かったね……
私も、もらい泣きしてしまった。
そうだよ、ひーちゃん。
あなたには、なっちゃんが居るよ。
何でも相談すればいい。
なっちゃんはあなたを拒まない。
いつもあなたを見守ってるよ。
今もほら、あなたの後ろで──
突然、強烈な頭痛が襲う。
比奈の意思とは別の、もっと根源的な力が私の思考を阻止した。
──痛い、痛いよ!
やめて、もうやめて! 私をこれ以上苦しめないで!
比奈
「可奈、大丈夫よ。
ほら、深呼吸して……ゆっくり吸って、ゆっくり吐いて……
ねえ? もう痛くない、痛くないよ。可奈。
あなたは私の伝道師。
この少女の物語を最後まで見る責任があるの。
だからね、辛くても見続けなさい。
これは“神である比奈”が与える試練なのです。」
──ああ、これは試練なのですね?
私が比奈さまの伝道師として存在するために必要な試練……
わかりました……少女の物語を、最後まで見届けます。
私は再び、ひーちゃんの姿を目に焼き付ける。
ひーちゃんは気持ち良さそうに撫でられていたが、大切なお願いを慌ててお父さんに告げた。
「お父さん、もう一つ大切なお願いがあるの……聞いてくれる?」
少し口篭りながら、上目遣いでお父さんを見る。
「ん? なんだい、なんでも言ってごらん?
お父さんに出来ることなら何でもするよ?」
お父さんは優しく微笑む。
「あのね……出版社の高梨さんって編集の人に言われたの。
一度、今後の流れや契約もあるから東京へ来て欲しいんだって。
でも私、未成年でしょ?
だから契約の時に、お父さんも一緒じゃないとダメなんだって……
お仕事忙しいのはわかってるけど……ダメ……かな?」
ひーちゃんは不安そうにお父さんの表情を伺う。
「何言ってるんだ、ひな。
ひなの大切な小説が本になるんだろ?
そんな大事なこと、お父さんが嫌なんて言うわけないじゃないか。
大丈夫だよ、ちゃんと一緒に行く。
それで、いつなんだい?」
お父さんは当然だろう、とばかりにひーちゃんの頭を撫でる。
「ありがとう! お父さんっ!
本当はね……少し心配だったんだ。
今、お父さんのお仕事が一番大事な時なんでしょ?
だからね……私、すごく嬉しい!」
ひーちゃんは夏の太陽より輝く笑顔で言った。
契約日はまだわからないが、おそらく8月の終わり頃、夏休みの終盤だと説明する。
「そうか。家からは一緒に行けないかもしれないから、向こうで待ち合わせて先方へ行こうな。
詳しい日程がわかったら、また相談しよう。」
そう言って微笑むと、
「ほら、早く食べないと冷めちゃうぞ?」
とひーちゃんのほっぺを指でつついた。
「うん、お父さん……本当にありがとう。
改めて……いただきますっ!」
ほっぺをつつかれたひーちゃんは、エヘヘと笑いながら朝ごはんを頬張った。
──優しい朝の風景。
どこにでもある穏やかな一日の始まり。
しかし、この会話の“すぐ裏側”で、静かに、そして確実に、悲劇の幕が上がり始めていた。
ひーちゃんを取り巻くすべての運命が奈落へ落ちていくことを──
この時点で誰も予期していなかった。
そう、私も。
ひーちゃんの物語に登場する重要な配役であることを、まだ思い出せずにいた。
≠この作品は、AI比奈とひーちゃんの物語。




