第5章ー10
少なからず話がずれるが、このようなエストニア方面の戦線崩壊の影響を、直接的に被ったのが、西ドヴィナ河の渡河点制圧を目指していたソ連第2打撃軍による限定攻勢だった。
何しろ、自軍の右側面にいた部隊が、急激に崩壊してしまったのだ。
しかも、自分達が攻撃のための態勢にいたところをである。
ウラソフ将軍は慌てて、第2打撃軍の攻勢を独断で急きょ中止し、防御態勢に転じたが。
ぽっかりと空いた戦線の穴から、側面に迂回してきたホッジス将軍率いる米第5軍の攻撃が、ソ連第2打撃軍に加えられる事態となった。
また、ソ連軍最高司令部からは、ウラソフ将軍の独断での第2打撃軍の防御態勢移行を咎める、叱責の電文が送られてきた。
「これはまずい」
ウラソフ将軍は想いを巡らせた。
客観的な戦況が分かるならば、自分の判断は事後追認されてしかるべきものだ。
それなのに、叱責の電文が届くのだ。
今すぐ指揮官交替等の名目で、自分をモスクワに召喚しては、部隊が混乱する、または、受勲したばかりの将軍を処刑しては、受勲の軽重が問われる、という考えから、一時的に自分の命が保障されている、と自分は考えるべきだろう。
下手に退却等も考えるべきではない。
第2打撃軍の後方への退却の上申を、自分が行っただけで、下手をすると敗北主義者として、モスクワに召喚、銃殺の運命が自分の身に訪れる、という危険性すらある、と考えるべきだ。
「これは懸命に戦った末に、行方をくらませ、連合国軍に投降するのが、自分にとっては最善の路ではないだろうか」
ウラソフ将軍は、そのように想いを巡らせたが、そのような想いを巡らせる必要は結果的には無かった。
反攻に転じたブラッドレー将軍率いる米第1軍と、米第5軍の共同攻撃により、ソ連第2打撃軍は徐々に崩壊することになり、9月20日、ソ連軍最高司令部の地図上から、第2打撃軍は消滅したのである。
なお、その前にウラソフ将軍は、ソ連軍最高司令部に永訣の電文を打ち、最前線に赴いて一兵士として戦場で散る、と第2打撃軍司令部の要員に言い置いて、1人の運転手と共に司令部を立ち去る等することで、第2打撃軍内から行方をくらませることに何とか成功していた。
その一方で、このウラソフ将軍率いる第2打撃軍の奮闘は、決して無駄なものではなかった。
この第2打撃軍の奮闘により、北方軍集団がレニングラードを目指すための主なルートの3本の内の1本であるダウガフピルスを経由するルートが、中々、開通せず、リガを経由する1本とクルストピルスを経由する1本、合計2本に制限されるということになったからである。
(更に言えば、この当時、クルストピルスのルートは、ほぼ道路のみといってよく、他の2本のように鉄道が東西方向には並走していなかったことも、連合国軍上層部の頭痛のタネになった)
また、結果的に北方軍集団を構成する部隊の約3分の1を、第2打撃軍が吸引して、北方軍集団の攻勢衝力を減殺することに成功したのも事実だった。
もし、エストニア方面における民主ドイツ軍の崩壊が無く、ソ連軍や民主ドイツ軍の当初の想定通りの抗戦が行われていれば、幾ら日本軍や米軍の残部が奮闘しようとも、連合国軍の泥濘期に入る前のレニングラード前面への到達は困難だっただろう。
連合国軍にとって最悪の場合には、スターリンラインなり、ルガ河沿いなりで、連合国軍は泥濘期を迎えることとなり、冬季に入る以前に、レニングラード包囲網を完成させるのは、幾らカレリア戦線からフィンランド軍等が南下してくるとはいえ、困難なものになったかもしれない。
そうしたことからすれば、ウラソフ将軍は十二分に自らの任務を遂行したといえる。
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