第2章ー8
日ソ双方が併せて、2000両近くの戦車部隊が激突した5月19日のラセイニャイでの戦闘の日没後、ラセイニャイ近郊にいたソ連軍は、リガ方面への転進を徐々に開始した。
軽戦車、豆戦車を先陣に立たせ、中戦車で中軸を固め、KV戦車が後衛を主に務めるという極めて真っ当な方法による転進作戦を、ソ連軍は展開した。
5月20日の朝、ソ連軍の動きを把握した日本軍は追撃を行うことにしたが、中々上手くはいかなかった。
「自分が陣頭指揮を執りたいものだ」
西住小次郎大尉は、切歯扼腕していた。
西住大尉の愛車というか、搭乗していた一式中戦車は、ソ連戦車の主砲弾直撃によって転輪部を破壊されてしまい、完全に要修理状態となって、戦場に半ば骸を晒していた。
このために、西住大尉は修理状態の戦車の傍で愚痴る羽目になっていたのである。
「まあまあ、搭乗員全員が命があっただけでもいいと思わないと。それに戦果も挙げたのでしょう」
戦車の修理を行ってくれている整備兵の一人が、そう西住大尉を慰めてくれる。
実際、一緒に戦車に乗っていた自分を含めた5人の内1人は、頭を打って意識を失い、師団病院に担ぎ込まれる羽目になったが、残りの4人は軽傷で済んでいる。
また、要修理状態になる前に、T-34戦車1両を含む3両の戦車を破壊するという戦果を、西住大尉の乗る戦車は挙げている。
だから、整備兵の言うのも正しいのだが、西住大尉としては、自分が戦車に乗って、追撃が行えないために、自分の目の前の戦況が不満でならなかった。
その一方。
右近徳太郎中尉は、トラックに乗っての追撃を行う羽目になっていた。
自分の本音としては、装甲車に搭乗して、小銃弾くらいは気にしない状況での追撃を行いたい。
だが、そういった装甲車はそんなにない。
どうしてもトラックが主役になってしまう。
そして、トラックでは。
「車輪がパンクしました。すみませんが」
「ああ、分かった」
運転手の謝罪の声に思わず声を荒げてしまい、心の一部は自省するが、残りは憤懣が募る一方だ。
荒れた戦場で、トラックでの追撃はトラブルを発生させる。
また。
「KV戦車の集団が、迎撃準備を整えていると、前方の部隊から連絡です」
「厄介だな」
兵からの報告も、右近中尉の神経を逆なでした。
ソ連軍の判断は、極めて合理的なものだ、と冷静さを保っている自分の心の片隅は認めるが、追撃が阻害されていることは間違いない。
KV戦車の集団は、あたかも壁のような存在だ、日本軍の追撃を阻害する。
自分達より上の方の判断が既に下っていたらしく、日本空軍の戦闘爆撃機が飛来してきて、空爆を試みてくれるが、KV戦車が相手では、当たり所が余程良くないと、破壊は困難なようだ。
いや、むしろ擱座してしまい、簡易の固定トーチカと化してしまう例まで出ている。
右近中尉は、そういった現状に対し(部下の兵達の心情を思いやって、内心での罵倒に止めながら)、味方の戦車とも共闘しての前進を図らざるを得なかった。
これは、5月20日のラセイニャイ近郊の各所で見られた光景であった。
そういった3日に渡る戦闘の結果。
日本軍は、約900両の戦車の内、2割余りの戦車を失い、1割近い人員を死傷させた。
一方のソ連軍は、約900両の戦車の内、半数近くの戦車を失い、2割以上の人員を喪失した。
これは、3日間の戦闘の末、日本軍が戦場を確保しての追撃を行えたという事から生じた結果だった。
ともかく明確な勝利を日本軍は収められたが、その損害は少ないとは言い難いものとなった。
山下奉文大将らの日本陸軍司令部は、まだ、リガが程遠い現状にもかかわらず、これだけの損害が出たことに背中が冷たくならざるを得なかった。
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