72.ボクシングをする理由
ボクシングジムに通い始めてから、プロを目指しているという彼のことが気になっていた。
だけど真剣にトレーニングしている姿を見ていると、声をかけることすら憚られていた。とても近づける雰囲気じゃなかったのだ。
自分と近いであろう年頃で、自分とそう変わらないであろう背丈の男子。
僕と比べるなんておこがましいかもしれないけれど、僕は親近感を覚えた彼のことをひっそりと応援していたのだった。
「まさか僕と同じ学校の人とは思わなかったよ。大迫健太郎です。よろしくね」
「矢沢比呂と申します……。よ、よろしくお願いしますっ」
「同い年なんだからタメ口でいいって」
彼、大迫くんと握手を交わす。
トレーニング中のギラついた目はどこへやら。
優しく握手してくれる大迫くんの顔は、僕を安心させてくれる柔和なものだった。
顔の広い松雪さんは同級生の大迫くんと友達のようで、間に入って僕に彼を紹介してくれたのだ。
「健太郎くんがここのボクシングジムに通っているとは思っていませんでした。家から遠くないですか?」
「下手に知り合いとは会いたくなかったから……。そ、それにある程度家から離れていた方が雑念がなくなって集中できるんだよっ」
「それは失礼しました。私の存在が健太郎くんの煩悩を刺激してしまったのですね……」
「別にあ……松雪さんをエッチな目で見ているわけじゃないよ!」
「エッ……!?」
「ち、違う! 本当に違うんだよ!」
さすがは松雪さんだ。ストイックな大迫くんを赤面させている。
それにしても、二人は仲が良いんだな。
松雪さんの接し方は、クラスの男子に対するものとは違っているように見える。それがなんだか落ち着かないというか、ちょっともやもやしたものが胸に広がる。
松雪さんはたくさんの人と仲が良くて、だけど親密度に差がある。別のクラスの佐野くんだって、やっぱり他の人とは違って何か特別って感じがするし。
「……」
だから僕が気にするようなことではない。
松雪さんが誰と仲良くしようが僕には関係ない。興味もないし……もちろん口を出す立場でもない。
「大迫くんはプロを目指しているってトレーナーのおじさんに聞いたんだけど」
僕は大迫くんに顔を戻した。
「ああ、そうなんだよ。最初は性根の腐った自分を変えるためってだけで、全然そんなつもりなかったし、今からプロボクサーだなんて身の程知らずにもほどがあると思うんだけど……それでも挑戦してみたいって思ったから、全力を尽くすと決めたんだ」
彼は真剣な顔で、決意のこもった言葉を口にする。
「す、すごい……」
大迫くんの表情と言葉を目の当たりにして、僕は圧倒されてしまった。
プロのスポーツ選手はとても過酷で、簡単にやっていけるものではないと思っていた。
いや、実際に簡単な世界ではないのだろう。
だからこそ彼はこっちが気圧されるほどの努力を重ねているし、それでも足りないとばかりにさらに努力して、僕には見えないほどの高みを見据えている。
そんな人が同じ学校で、しかも同学年にいただなんて思いもしなかった。
「身近に大迫くんみたいな人がいたなんて……。すごい! すごいよ! 僕は応援しているよ!」
「ありがとう矢沢くん。プロテストに合格したら報告させてもらうよ」
僕たちは再び握手を交わした。
話してみても僕は彼に親近感を抱いたままだった。むしろ実際に会話できたことで、より近い存在に感じられる。
こんなにもストイックな人に失礼だと思うんだけど、大迫くんに自分を重ねてしまったのだ。自分を変えようと努力しているところ。彼みたいになれるように僕も頑張らなきゃと思えた。
「それじゃあ僕はトレーニングに戻るから。また話をしよう」
「うん。僕も大迫くんを見習って頑張るよ」
僕たちは拳をぶつけてから互いのトレーニングに戻った。
「比呂くんと健太郎くんって、意外と相性良いのですね」
松雪さんが僕の耳元でそんなことを言う。汗をかいているせいか、彼女の匂いがいつも以上に感じられる……。
松雪さん相手に何意識しているんだか。僕は何気ない風を装って返す。
「意外ってどういう意味?」
「いえ、深い意味はありませんよ」
松雪さんは目を逸らす。オイ、後ろめたいような想像をしていたんじゃないだろうね?
「……」
それから城戸さんは、僕たちが大迫くんと話しているのを遠くから眺めていたようだった。ミスコンに参加して度胸がついたと思っていたけど、元々人見知りだもんね。
◇ ◇ ◇
なぜ僕がボクシングジムに通ってトレーニングに励んでいるのか?
「いい加減にしろよ松雪! この俺に恥かかせてんじゃねえぞ!」
それは松雪さんを守るためである。
ある日の放課後。人気のない校舎の廊下で、松雪さんは僕の知らない男子と向かい合っていた。
いきなりの怒声に驚いてしまったけど、これでも一応告白の場面である。
彼に告白された松雪さんは丁重にお断りをした。それで返ってきた言葉が先ほどの怒声である。こっそりと覗いている僕でさえ目を白黒させてしまった。
目の前であんな大声を浴びせられた彼女はもっと驚いただろう。
「だ、だから私には好きな人が……」
「嘘つくんじゃねえ! 可愛いからって調子に乗りやがって……お前が本気で誰かを好きになるわけねえだろうが!」
「……っ」
文化祭が終わってから彼女に告白する連中が増えたらしいのだけど、今回はかなり柄の悪い男子だった。
相手は三年の先輩。受験勉強で忙しいだろうに、彼は色恋に時間を浪費したいらしい。
いや、むしろ恋愛に逃げたいのかもしれない。
松雪さんに告白する前からイライラしっぱなしだったから。それは好きな人に告白する精神状態に見えなくて。最初から断られるのを前提に、ストレスを発散しようとしているようにしか思えなかった。
松雪さんもそれを察知していたのか、僕に「男の先輩に呼び出されてしまって。悪いのですが、ついて来てもらってもいいですか?」と頼んでいたのだ。
そんなわけだから曲がり角からこっそり様子をうかがっていたわけだけど……これはもう仲裁に入ってもいいよね?
「わ、私は……私、だって……」
「俺に口答えすんな!」
僕が間に入るよりも早く、先輩男子は松雪さんに手を伸ばそうとしていた。
やばい! 慌てて駆け出すけど、僕は遅すぎた。
「女の子に、何をしようとしているんですか?」
松雪さんへ伸ばされた先輩の手を止めたのは、突然現れた大迫くんだった。




