67.松雪綾乃は決める
最近の私は、比呂くんの言動に振り回されっぱなしです。
「今日は……城戸さんと二人きりがいいんだ」
比呂くんがそう言って、紬さんを連れて私に背を向けた時。
「もしも松雪さんが元カレに逆上されたらと思うと、今の僕じゃ守り切れないから。だから、少しでも強くなって安心してもらいたかったんだ」
その理由を比呂くんに尋ねた時。
「頼りにならないかもしれないけど、僕は絶対に松雪さんの味方だから。それだけは信じてほしい」
私が一部の人から悪女と嫌われても、そう言ってくれる比呂くんの声を聞いた時……。
良くも悪くも感情が揺さぶられて。自分ではコントロールできませんでした。
それだけではありません。
私の話を聞いてくれて、私の頭を撫でてくれて、私の涙を拭ってくれる……。
安心したり不安になったり。嬉しかったり悲しかったり……。感情がとても不安定になるのに、そんな比呂くんとずっと一緒にいたいと思ってしまうのです。
「比呂さん、アタシと付き合ってください♪」
だからこそ唯花ちゃんが比呂くんに告白した時、胸がざわついてしまったのでしょう。
可愛らしい女の子とはいえ、相手は小学生です。比呂くんが付き合うと首を縦に振ることはありません。
ですが、これが紬さんだったら……?
見ればわかることですが、彼女は比呂くんに恋しています。
そんな彼女が勇気を出して比呂くんに告白をすれば……二人が付き合っても不思議ではありませんでした。
そんな想像をすると、胸がチクリと痛みます。
「やり方は人それぞれだろうけど、何もせずにする後悔が一番悔しいんだってさ。お母さんがそう言ってたよ」
唯花ちゃんの言葉が頭の中で何度も繰り返されます。
私は自分のしてきたことで何度も後悔しました。こんなことするんじゃなかったと、自分を責めてばかりでした。
でも、本当に何も行動せずに後悔すれば、今まで以上に苦しい思いをするのだろうと確信できます。
「私は、比呂くんのことが好きなのでしょうか?」
比呂くんは好ましい人です。
嘘をつかず、下心もなく、私の悪い噂や恥ずかしい姿を見ても包み込んでくれる。そんな優しい人です。
今までの男子とは違う気持ち。それは嬉しくもあり、苦しくもあります。
これがみんなが言うような「好き」という気持ちなのか、確信が持てません。
こんな気持ちは初めてで、どうしても戸惑いが勝ってしまうのですから。
「でも……」
でも、だからといってこのまま指を咥えて見ているだけでは後悔する。
そんな予感がしてしまうのです。気がついた時には比呂くんが私の手の届かないところに行ってしまって……手遅れになるなんて……。
「そ、それは絶対に嫌です!」
「何が嫌だって?」
「ひゃっ!?」
急にお兄ちゃんに声をかけられて驚いてしまいました。
「な、なんで──」
「ここリビングだから。俺がいたって不思議じゃないよ」
そ、そうでした……。帰宅して、とりあえずソファに座って休んでいたら考え事に夢中になって……お兄ちゃんが帰ってきたことにも気づきませんでした。
「綾乃は最近ぼーっとすることが増えたよね。恋煩い?」
「なっ……!?」
なぜそれを!? お兄ちゃんはエスパーか何かですか!?
お兄ちゃんはぼーっとした目で私を見つめます。
「図星だった?」
「ななな、何も言ってないでしょうっ」
「気になるならとりあえず付き合ってみれば? 綾乃なら相手が誰だって断られることはないよ。比呂くんも喜ぶと思うし」
「今一言も比呂くんの話をしていませんよねっ!?」
お兄ちゃんは私の頭の中でも覗いているのでしょうか? だとすれば兄妹でも距離を置かなければいけませんね……。
「綾乃の表情がコロコロ変わって、俺は嬉しい」
「もしかして私をからかって遊んでます?」
「そんなわけない。俺はいつだって綾乃の味方だから」
お兄ちゃんが珍しく微笑んだ時でした。
リビングのドアが開いてお母さんが顔を出しました。お兄ちゃんと話していたせいか帰ってきたことに気づきませんでしたね。
「隼人、綾乃と何を話していたの?」
「別に。俺、自分の部屋で勉強するね」
ついさっき私の味方だと口にしたお兄ちゃんは、逃げるようにリビングを後にしました。別にいいんですけどね。
「お母さんお帰りなさい」
「またすぐに仕事に戻るのだけれどね。悪いけど綾乃、洗濯物お願いできる?」
お母さんはバタバタとした様子で、鞄の荷物を入れ替えます。
帰ってきた時くらい家でゆっくり休めばいいのに。そう思うのは私がまだ働いていないからでしょうか。
「なかなか学校の話を聞けていなかったわね。綾乃はお友達と仲良くできているの?」
お母さんは手を動かしながら、私にいつもの質問を投げかけてきます。
「……はい。もちろんですよ。学校では仲良しの人ばかりです」
私もいつもの返答をしながら笑ってみせます。
「そう。それならよかったわ。お願いだから問題は起こさないようにしてね。綾乃は私に似て優秀な子なんですからね」
「はい。わかっていますよお母さん」
頬に力を込める。なぜかいつもより少しだけ力が必要でした。
「勉強もちゃんとしているの? 友達が多くて遊びすぎて勉学に励む時間がないなんて言わないでちょうだいね」
「はい。真面目に取り組んでいますよ」
「勉強を頑張るのはいいのだけれど、嫌味に思われないようにね。醜い嫉妬心を隠せない人とお友達になる必要はないのだけど、綾乃自身が敵を増やすような真似をしてはいけないのよ。もう孤立したくはないでしょう?」
「はい……」
この前の試験も学年一位でしたけど……。言わない方がよさそうですね。何が嫌味と判断されるかわかりませんし。
「学生の頃の友人は大切なんだから。一生の宝物にだってなり得るんだからね。でも夜遊びしてはいけないのよ。お菓子もダメよ。せっかく私譲りの美貌がくすんでは勿体ないわ」
お母さんは私を見ないまま鞄に荷物を詰めていきます。
顔を合わせる機会が少ないからか、とにかく言いたいことを全部言おうとしているのでしょう。
お母さんが口にしたことを覚えていないと「あの時ちゃんと言ったわよね!」と怒られてしまいます。
「まあ変にこじれていなければいいのよ。とくに男とトラブルがなければね。私は仕事で忙しいから、呼び出されるような事態になっても困るわよ」
「もうお母さんの手を煩わせるようなことはしませんよ」
「ならいいのよ。じゃあ行ってくるわね」
お母さんは鞄を肩にかけて、慌ただしく出かけて行きました。
お母さんなりの「教育」が終わったからか、その表情はスッキリしているように見えました。
「……」
着替えやら何やらが散乱したリビングの惨状を眺めて、後片付けに頭を抱えそうになります。
散らかした物を片付けて、放り出された洗濯物を運びながら思います。
「比呂くんを家には呼べませんね……」
お母さんは私によく口出しをしてきます。
けれど、それは要領を得なくて、余計に混乱させられてきました。
失敗したら怒られますが、何が悪くてどうすればよかったのか……そこまでキッチリと教えられたことはありません。
だから比呂くんがどう思われるかもわかりませんでした。
「でも……」
でも、比呂くんとは仲良しで、もっと仲良くなりたいと思っています。
もしお母さんに文句を言われたとしても、まだハッキリしていないこの気持ちだけは大切にしようと決めたのでした。




