56.男なら美少女のフローラルな香りに反応せずにはいられない
昨日はちょっと汗臭いと感じていたボクシングジム。
だけど、今日はフローラルな香りが漂っていた。
「これ、楽しいかも」
綺麗なフォームでサンドバッグを打っている城戸さん。
昨日との違いを挙げるとすれば、彼女の存在の有無だろう。城戸さんって良い匂いがするんだなぁと新たな発見である。
それに、とても筋がいい。
「いいよいいよー! いい音させてるよー!」
心なしか、トレーナーのおじさんの声の張りが昨日よりも増しているように聞こえる。
城戸さんがパンチを放つ度に揺れるサンドバッグを見ていると、確かな才能を感じさせるのだろう。
僕は結局初日にサンドバッグを打たせてもらえなかったし……ちょっと悔しい。
まあ城戸さんは軽々と筋トレや縄跳びを終えていたし、ジャブとストレートの打ち方も初めてとは思えないほど綺麗なものだった。
それならサンドバッグを打たせてみたいと思うのが人情というものだろう。ボクシングジムに入会するのなら、やっぱりサンドバッグを打ちたいとみんなが思っているのだろうし。
城戸さんがサンドバッグを打ち始めてから、三分が経過したところで休憩となった。
「はぁ……はぁ……」
さすがの城戸さんも息を切らせている。
けれど、その顔は充実感で満ちていた。……いいなぁ。
「比呂先輩に連れて来てもらってよかった。ボクシングって楽しいね」
「それは何よりだよ」
少しのジェラシーを感じながら、そんな気持ちの良さそうな顔を見せられると連れて来てよかったと思わずにはいられない。
休憩する城戸さんに飲み物を渡していると、トレーナーのおじさんに声をかけられた。
「次は矢沢くんもサンドバッグを打ってみようか」
「い、いいんですか!?」
やった! お許しが出た!
ボクシンググローブをつけさせてもらい、高鳴る胸を押さえながらサンドバッグの前に立つ。
今こそシャドーボクシングの成果を見せる時だ。
「教えたジャブとストレートを使って。あとは好きに打ってくれていいよ」
「は、はい」
うわぁ……本物のボクサーになった気分だ。なんかワクワクするなぁ。
構えを取って、左ジャブからの右ストレートを打ち込んでみた。
バシンッ! と、拳になんとも言えない感触が広がった。
き、気持ち良い~~!!
スカッとする気持ちの良さに任せて、僕はパンチを打ち続けた。
そして、三分経過。
「ぜぇ……ぜぇ……ぜぇ……ぜぇ……」
息も絶え絶えになっている僕が出来上がってしまった。
調子に乗ってパンチを打ちまくってしまった。もっとペース配分を考えなきゃいけなかった。いや、そもそも体力が足りていないのか。
「比呂先輩、スポーツドリンクがあるよ」
「あ、ありがとう……」
息が上がりすぎて頭に酸素が回らなくなっている僕に、城戸さんが飲み物のペットボトルを渡してくれた。
中身が半ばほど残っているそれを、一気に飲み干した。疲労で渇いた身体に水分が染み渡る。
「ふぅ……ありがとう城戸さん。って、僕いつの間にペットボトルの封を切ってたんだっけ?」
「それ、あたしが飲んでいたやつだから……」
「えっ!?」
ということは城戸さんが口をつけた飲み口に、僕も口をつけてしまったわけで……これって間接キスでは!?
いや待て! 間接キスくらいは高校生なら恥ずかしくないのか? じゃなかったら城戸さんが自分が飲んでいたペットボトルを僕に渡したりしないはずだ。
もしかして間接キスで恥ずかしがるのは中学生までなのか? こういう経験がないから基準が全然わからない。教えてリア充先生っ!
「よし、リングに上がれ。スパーリング始めるぞ!」
脳内で軽くパニックに陥っていると、リングに上がる二人のボクサーが視界に入った。
そういえばリングに上がった人を見るのは初めてだ。スパーリングって、練習試合のことでいいんだよね?
リングに上がった男の一人は城戸さんくらいの身長だろうか。
対するもう一人の男の人は、僕よりも少しだけ高いくらいの身長に見える。並んでみると小柄な印象だ。
ていうか昨日プロを目指しているって言われていた人じゃないか。ギラついた目はすでにプロの風格のようなものを感じさせる。
ボクシングって階級とか厳密に分けられているんじゃなかったっけ? あの組み合わせはいいのかな?
「矢沢くん、城戸さん。ボクシングの試合を生で見たことはあるかい?」
「いいえ、見たことないです」
「あたしも」
トレーナーのおじさんに尋ねられて、僕たちは首を振る。
「だったら丁度いい機会だ。せっかくだから見学するといいよ。生で見る迫力は段違いだからね」
スパーリングが始まって、トレーナーのおじさんが言っている意味がすぐにわかった。
テレビですら格闘技をあまり見てこなかった僕だけど、そのすさまじい迫力が伝わってきたのだ。
パンチの応酬。軽快なフットワーク。こっちまで緊張感に襲われるほどだった。
「すごい……」
この呟きは僕のものだったのか城戸さんのものだったのかわからない。
ただ、僕たちの気持ちは一緒だったのだろうと確信できた。
ゴングが鳴って、スパーリングは終わった。
結果は意外なことに、小柄な男子が自分よりも大きい選手から一度のダウンを奪っていた。
身体が小さくても、自分よりも大きい人を倒せる。その光景を見せられて、僕の心は震えた。
「よーし、僕も強い男になってみせるぞ! 次はどんな練習がありますか!」
「若者は元気がいいね。おじさんも張り切っちゃうよ」
やる気になって練習に取り組む僕を、城戸さんは柔らかい笑みで眺めていた。気恥ずかしさと嬉しさが混ざって、変な感覚だった。
◇ ◇ ◇
「き、筋肉痛が……っ」
次の日の朝。僕は教室の自分の席で筋肉痛に苦しんでいた。
素人が二日連続でトレーニングに励んだのだ。運動部なら大したことはないのだろうけど、僕の貧弱な肉体はあっさり悲鳴を上げていた。
筋肉痛を繰り返す度に筋肉がついていくのだと、トレーナーのおじさんが教えてくれた。
確か超回復って言っていたっけ。今日はしっかり休んで、筋肉の回復を促そう。
「お、おはようございます……っ」
「おはよう松雪さん」
松雪さんの声に内心でビクついた。
彼女のことだ。僕が筋肉痛だと知れば、面白がって身体をつっついてくるかもしれない。
できるだけ悟られないようにしなければ……と思っていると、松雪さんが自分の席に向かわずに、僕の席の前に立ったままなことに気づく。
「あ、あのっ」
「え?」
松雪さんは僕を見つめていた。
何か用事でもあるのだろうか? そう思って見つめてみるけど、彼女は口をパクパクさせるだけでなかなか言葉が出てこない様子だった。
「その……ですね……」
そんなにも言いづらいことなのだろうか?
僕は急かすことなく、松雪さんが話すのを待ち続けた。
だけど、いくら待っても言葉が出てこないようで。登校する生徒が集まってきて、松雪さんに怪訝な目を向ける人が増えてきた。
「松雪さん、今日は昼休み一緒にご飯食べられる?」
「え、あ、は、はいっ」
「じゃあ、話はその時でもいいかな? 昼休みならゆっくり聞ける時間があると思うから」
松雪さんはこくこくと何度も頷いた。
……何気に自分からご飯に誘ったのは初めてだ。僕にも友達甲斐というものが出てきたのかもしれない。
「あ、あのっ!」
松雪さんの声に、伏せようとしていた顔をもう一度上げる。
「今日のお昼は……比呂くんと、二人きりでもいいですか?」
二人きり? 松雪さんと僕が?
松雪さんは顔を少し紅潮させていた。
目線は僕を捉えて離さないけれど、両手でぎゅっとスカートの裾を握り締めている姿からは緊張が見て取れる。
きっと、僕だけにしか相談できないことがあるのだろう。
「わかった。城戸さんには僕から言っておくよ」
「は、はい……!」
緊張していた松雪さんの顔が一気に緩み、華やいだ笑顔を見せた。笑顔のパワーなのか、良い匂いまで感じられる。
「っ」
彼女の嬉しそうな笑顔を間近で目にして、不覚にもドキッとしてしまった。
そういえば、松雪さんは学校一の美少女だったのだ。
女子に異性としてドキドキすることがなくなってしまったかと思っていたけど、どうやら完全には男のそういう気持ちをなくしたわけじゃなかったようだった。




