常識を無視できるスライム
今まで成り行きで非常識なことを行なってきたが、常識的な意見を出されるとそれを打ち消せるだけの非常識な理論を振りかざせる人物は魔法の絨毯の上におり、地上にはいなかった。
「今日のところはジャミーラ領に帰ることに……」
常識的な選択をしたノア先生が急に黙り込み、見上げた視線の先にはハルトおじさんのスライムが、常識とは何だ?というかのように流れに任せて検問所の方へ一匹だけ流されていた。
「ハルト叔父様のスライムだから戻るように叔父様に命じてもらわなければいけませんね」
キャロお嬢様の言葉に、王族のスライムか!と助手が頭を抱えると、状況を察した水竜のお爺ちゃんがノア先生の股座に潜り込んだ。
何をするかに気付いたぼくたちは巨大化し始めた水竜のお爺ちゃんのしっぽを素早く掴んだ。
こうして、常識を無視できる胆力のあるガンガイル王国の王族のスライムが流されていくのを飛行魔法学の面々が必死に追いかけている、という事故(?)が発生した!という言い訳を手に入れたぼくたちは、態勢を整えて水竜のお爺ちゃんのたてがみの中に潜り込んだ。
咄嗟に行動ができなかった助手が狼狽し、そもそも追いかける気のなかったお婆とオーレンハイム卿夫妻が手を振っている背後で、教皇と月白さんが満面の笑みを浮かべていた。
まるで万歳をするかのように二本の触手を伸ばしたハルトおじさんのスライムは、見上げる治安警察隊に、行ってきます!と触手を振り大聖堂島を後にした。
追いかける水竜のお爺ちゃんを見上げた治安警察隊員が手を振り、この茶番劇を面白がるかのように笑った。
「成り行きに任せてしまっていいのでしょうか?」
マリアがノア先生に尋ねると、ノア先生は苦笑した。
「ガンガイル王国の王族のスライムが単独行動をしたことを、私が止められないのは仕方がないけれど、責任をもって保護しなければならないのです!」
大義名分を得たノア先生が豪語すると、そうですわ、とキャロお嬢様は自由に飛行するハルトおじさんのスライムを見て言った。
「加速度は教会都市を出るとすぐ最高速度で安定しましたね」
水竜のお爺ちゃんのたてがみを掴みながらジェイ叔父さんがハルトおじさんのスライムの飛行速度を解析した。
「このまま往路の飛行経路をなぞって飛行するのなら、復路の飛行申請をしていないけれど、そもそも一日かけて飛行する計画を申請していたから、周辺領地や軍からの抗議は出ないと思うんだよね」
ノア先生はハルトおじさんのスライムの暴走ではなく、予定外に進行した検証の延長上、という言い訳が効く区間は緊張しなくていい、と踏んでいるようだった。
「往路で飛行速度が加速した区間の延長線上に大岩の発着所があるとしたら、往路に被らないところからの飛行に警戒が必要ですね」
アーロンの言葉にぼくたちは頷いた。
帝都ではガンガイル王国の貢献を認められているが、ジャミール領のような地方、いや、派閥が瓦解したとはいえ、失脚した皇子たちの地元ではガンガイル王国留学生一行は不俱戴天の敵のような存在だと自覚しているぼくたちは神妙な面持ちになった。
「今の帝国にガンガイル王国と東方連合国の恩恵を受けていない土地などあり得ませんわ」
デイジーが高笑いをすると、小さいオスカー殿下とノア先生が苦笑した。
恩を恩とも思わない連中が逆恨みをしている可能性があるのは仕方がない。
「なに、この先で問題が起こっても、オスカー殿下がいらっしゃるのだから、使えるコネは何でも使いますよ!」
「そんな、皇子とはいっても、後ろ盾としての力がジャミール領にはない!」
皇子の威光を振りかざそうとするノア先生に小さいオスカー殿下が嘆いた。
「皇子は皇子ですよ。相手が一瞬怯んでしまえば、その隙に逃げ帰ればいいのです!」
キャロお嬢様の発案にノア先生は頷いた。
そうはいっても後で責任を取らされるのはノア先生だ。
振ってしまった賽の目に出たとこ勝負で乗ってしまったぼくたちは、勝負の行方を天に任せることなく貪欲に掴みに行かなければ、飛行魔法学講座が来年度なくなってしまうことを理解していた。
この検証に失敗したら無職になる覚悟を決めているのか、ノア先生はハルトおじさんのスライムが飛行する姿を嬉々として観察していた。
「私は今飛行魔法が何たるかを掴みかけている。カイルがガンガイル王国の魔法学校に入学したばかりの時に特許登録した浮かぶタイルの魔法を伝手あって読んだことがある。ほとんど力技で強引にタイルを浮かしたあの魔法は、私が生徒たちに教えない魔法術とあまり大差ない。ああ、そうなんだ。あの理論で飛行が可能になったとして魔力枯渇を起こしたら早々に墜落してしまう。同じようなタイルの魔術具なのに、これはまるで理論が違う。飛行魔法とは飛ぶことを神々がお許しになるからこそ飛べるのかもしれないのに、この研究を軍に渡したくない」
ノア先生の告白は飛行魔法学講座の研究にもうすでに圧力がかかっているかのような言い方だった。
“……先生の選択は間違っちゃいないね。儂にとっての飛行魔法とは大聖堂島とそこを行き来する石と鳥獣たちの世界だった。戦争のために空を利用するなんて考えられない”
水竜のお爺ちゃんは、軍関係者が首を突っ込んでくる前に重要な検証を終えてしまいたい、と焦るノア先生の背中を押した。
「でも、ジャミーラ領の素材をカイルが押さえてしまったから、もう……あ゛!」
ノア先生が焦る理由に思い至った小さいオスカー殿下が奇声を発した。
「ジャミーラ領以外の発着場が特定されたら、そこの領地に軍が圧力をかけて新素材が何なのかわかっていないのにもかかわらず、とりあえず独占してしまう可能性があるのですね」
小さいオスカー殿下の心の声を読んだかのようにアーロンが続きを言うと、ノア先生が頷いた。
「我々が軍関係者より先に該当領地の領主と話をつけられたらいいのですが……いったいどこに着陸するのやら」
南西に向かい飛行を続けるハルトおじさんのスライムを見たノア先生が深い息を吐いて呼吸を整えた。
帝国南西部は失脚した第一皇子の母で事故死した第一夫人の出身領地が占めるのだが、領地は現在、解体されて各派閥が乱入する形で統治されている。
第二皇子や第五皇子に縁がある領地なら話は早いのだが、つい先日失脚したばかりの第六皇子関係だったら……なんて考えたくもない。
兄貴とシロは落ち着いた表情をしているし、ぼくたちを見送った月白さんが満面の笑みを見せていた、ということは、そう悲観しなくてもいいのかもしれない。
「間もなく往路の飛行経路から外れます!」
ジェイ叔父さんの報告にノア先生も緊張したのか水竜のお爺ちゃんのたてがみを握る手に力が入った。
「我々は帝都上級魔法学校飛行魔法学講座の校外実習の最中です!予定飛行経路を逸脱したスライムを追跡中です!未払いの通行料は後日清算しますので、帝都上級魔法学校に請求書をあげてください!」
ノア先生は拡声魔法で地上に呼びかけると、領界の警備兵たちが地上からぼくたちに手を振った。
「なるほど。何人分の通行料を払うかを明言せず、お金を払う、とだけ言って不審な行動を誤魔化すのですね」
無許可で飛行している状態より、金は(言い値で)後で払う、と札束で頬を殴るような発言に耳目を集めさせたノア先生の手腕に小さいオスカー殿下が感心した。
「資金が足りなくなったら競技会でポップコーンでも販売しましょうね」
デイジーの言葉に、そんな金額で済めばいいね、とぼくたちは笑った。
領界を通過するたびに拡声魔法で声掛けしたことが功を奏したのか、不法侵入者として地上から攻撃されることはなかった。
いや、ハルトおじさんのスライム一体だけで飛行するタイルはかなり強めの視力強化をしなければ見えっこない大きさで、見えたとしても隣を飛行するキュアだけだろう。
それ以上に、巨大化している水竜のお爺ちゃんの方が圧倒的に目立つのだから、水竜に先制攻撃を仕掛ける判断をする部隊はないだろう。
ハルトおじさんのスライムが徐々に高度を下げ始めると、どこに着陸することになるのか、とぼくたちの緊張感が高まっ……、いや、ここのあたりには見覚えがある。
「もう少しあっちに寄ってくれたら塩湖が見えたのに、残念だね」
どこに向かって下降しているか見当のついたケインが呑気な口調で言うと、知り合いの領か!とノア先生が飛び上がった。
たてがみの外に出ると突風に体を持っていかれそうになったノア先生をぼくのスライムが触手で引っ張り転落を免れた。
「知り合いと言っても、かの領地の領主様は、正直あまり得意ではないですね」
ウィルが言葉を濁すと、ぼくたちは頷いた。
地図を見た小さいオスカー殿下は半笑いになった。
「第五皇子殿下の母方の領地、ククール領に着陸しそうですね」
孤児たちを養子として引き取った篤志家として名高い第五皇子の縁の領と聞いたノア先生の顔が明るくなった。
「あの狸爺、いえ、腹に一物ありそうな、いえ、老獪、いえそこまで賢くな……」
「言いたいことはわかったよ!」
キャロお嬢様がククール領領主を端的に説明しようとすると罵詈雑言を列挙しているようになったので、ノア先生が止めた。
「ククール領では私の威光は効かないでしょうね」
小さいオスカー殿下の言葉にキャロお嬢様は頷いた。
「第五皇子殿下は皇位継承権を返上なさっているではありませんか!」
「皇子としての籍が残っているのですから、私より上位者の祖父として対応するでしょうね」
小さいオスカー殿下の見立てにぼくたちは頷いた。
「うーん。それでは、飛行魔法学講座として検証している内容について詳しく語らない方がよさそうか」
ノア先生が着陸後の交渉について検討していると、地上の様子を視力強化で確認していたボリスとミーアが、ああああああ!と声をあげた。
ククール領の領都から検問所に向かって早馬を走らせている人物に心当たりがあった。
イーサンだ!とぼくたちが一斉に叫ぶと、拡声魔法を使用していなかったのにもかかわらず、早馬を走らせていた人物が馬を止めてぼくたちを見上げた。
「こんにちは!イーサン!飛行魔法学講座の実習中に飛び入り参加をしたガンガイル王国王族のスライムが飛行を中断しないので追いかけてきました!」
拡声魔法でイーサンに声を掛けると、イーサンはぼくたちに手を振った後、視力強化でハルトおじさんのスライムを探し当て指をさした。
「そうです!そのスライムです!着陸地点まで追いかけて回収します!」
イーサンは両手で大きく輪を作り了解の合図をした。
話が通じる人物がなぜか知らないが先回りしていたことにぼくたちは歓喜の声をあげた。




