女子寮監ワイルドの目論見
お忍びデートの皇帝夫妻は観客総立ちの拍手で迎えられた。
皇帝はお忍びのつもりで控えめな服装にし、劇場のチケットを買い占めなかった(末息子から奪っただけ)ことも高評価を受けることになり、初めての両陛下のお出かけの目撃者となったことに劇場内の観客たちは満足そうな笑みを見せていた。
寮生たちの反応は、初めてのお出かけデートに恥ずかしそうに頬を染めて時折見つめ合う老夫婦を、微笑ましく思うか、共感性羞恥心にもぞもぞするかに分かれた。
「若いうちにデートを経験しておかないとこんな感じになってしまうんだね」
ケインが赤面して言うと、寮長が苦笑した。
「嘆かわしい。アメリア姫が若いころ味わうべき青春時代があったはずだったんだ」
寮長の言葉に、好きな子がいたら黙って見つめているだけではなく玉砕覚悟でデートに誘うべきだ!という雰囲気が寮生たちの間に漂った。
誕生時の男女の比率が男児の方が多い世界で平和が続いたガンガイル王国では男性の未婚率が高く、自分には男女交際などは無理、とはなから諦めている寮生が多くいた。
魔法学校ではガンガイル王国の留学生は将来有望だと声を掛けてくる女子生徒がいても、晩熟な寮生たちは今一つ行動に移せなかったのに、爺さんになってからでは遅い!と気付かされたようだった。
「ガンガイル王国まで嫁に来てくれそうないい子を見つけるんだよ」
寮長の言葉に晩熟の寮生たちがコクンと頷いた。
キャロお嬢様とアドニスたちは注目が集まるロイヤルボックスとなった観覧席で幕の内弁当を食べる豪胆さを見せた。
「美味しそうだね」
「期間限定で中央公園でも販売されていたはずだよ」
これだけ多くの人が見ているのだから、即日完売の人気を博すことになるのは目に見えていた。
開演前の音楽が途絶え、観客席が暗くなると、序盤が暗い展開なことを知っているキャロお嬢様たちは食べ物を片付けた。
まだ真っ暗な舞台隅のオーケストラピットからバイオリンの悲しい音色が聞こえると、会場内は息をする音さえ聞こえそうなほど静まり返った。
バイオリンの音が小さくなると、逝かないでシーカー、と母親役らしき女性の声がし、はやくも嗚咽を押し殺した第三皇子夫人の喉が鳴った。
幕が開く前に、とある国のとある領の領主夫妻の御子が流行り病で亡くなる描写のナレーションが始まった。
数日前まで元気だった洗礼式前の子どもが流行り病でコロっと亡くなる例は珍しくないのか、劇場内ではすすり泣く観客の声が聞こえた。
本公演の設定は、仮死状態の少年キールが葬儀の行なわれる教会ですり替えられるのではなく、領主夫人に横恋慕する家臣の一人が子どもを殺さず夫婦仲を悪くする手段として、同じ年頃の死体と入れ替えることを、とある男に唆されて実行したことになっていた。
愛憎劇の女王と呼ばれるノーラ女史らしい台本は、今後、メロドラマになる予感をさせた。
ここでオープニングテーマ曲が流れると、談話室で視聴中の女子寮監は、可哀想に、とすでに号泣していた。
アドニスを知っている分、感情移入がしやすいのだろう。
開演のベルが鳴り幕が明けると、少年キール役の女優がベッドに横たわっていた。
少年キールの苦痛を表現する三次元映像の黒いモヤが少年の半身を覆い蠢く様に観客から悲鳴が上がった。
チケットを正規に購入した第三夫人の護衛の女性が立ち上がると、女子寮監ワイルドに、演出だ、と窘められ着席した。
少年キールが苦しみに悶えるたびに黒いモヤがちぎれて客席まで飛んで来ると、第三夫人も皇帝も体を反らせた。
皇帝の背後の席にいた第三皇子夫人が声もなく肩を震わせ涙を流すと、もう過ぎたことです、とアドニスがそっと第三皇子夫人の手を握った。
ナレーションが少年キールの身に起こった凄惨な人体実験の内容を告げた後、舞台上に犯人役の禿頭の男役の女優が登場すると、それだけで観客からブーイングが起こった。
禿頭の男は観客席に広がった黒いモヤを見ながら不快そうに眉を顰めると、まるで観客のブーイングを撥ね退けるかのように大きく両腕を広げてから一振りした。
その手の動きに合わせて広がっていた黒いモヤが禿頭の男の両掌の間に集まると、観客たちは息をのんだ。
『今日も抑えきれなかったか。努力が足りないな。……どれ、癒やしを施してやろう。こっちを向きなさい』
禿頭の男は少年キールに声を掛けながら集めた黒いモヤの塊を少年キールの体に押し込んだ。
劇場内から悲鳴が上がった。
『ありがとうございます』
癒やしの礼を少年キールが言うと、観客たちは、お前が諸悪の根源だ、と言わんばかりに憎々し気な視線を禿頭の男に向けた。
僅かばかりの癒しに少年キールが苦しみに縮こまっていた四肢を伸ばすと、精進しなさい、と言って禿頭の男は舞台袖にはけた。
少年キールはベッドの上で半身を起こして大きく伸びをして体が軽くなったことを表現したが、徐々に体を丸めて再び苦痛に襲われる様子を演技すると、再び黒いモヤが会場内に広がった。
第三皇子夫人は泣きっぱなしだったが、アドニスがそっと夫人を抱きしめて、あれはお芝居よ、今の私は大丈夫、と小声で言い続けた。
談話室でもハンカチで目頭を拭う寮生が多くいた。
……ワイルド上級精霊が皇帝の無茶ぶりを許した理由に気付いたぼくたちは、背筋がぞわぞわとした。
キャロお嬢様とクレメント夫人の二人芝居の時は他人事のようにしか感じていなかった皇帝の背後で、アドニスの悲劇を追体験した生母がすすり泣いている。
あれはお芝居よ、というアドニスの言葉が、現実はもっと悲惨だったかもしれないことを容易に推測させた。
本編の少年キールは生まれ変わりの設定もなく、ただ理不尽に苦痛を強いられ、癒やしを施す禿頭の男を保護者だと慕うが、素っ気ない対応をされていた。
第三夫人も自分の孫だと宣言したアドニスがモデルの少年キールに感情移入して涙を流しているので、皇帝はいやおうなく悲劇の根本に向き合うことになったのだ。
舞台上では時間の経過を現すように窓から差し込む光が移動しながら月明かりになり、窓辺に座った猫の影が大きく舞台上に現れると、談話室では、待ってました!と拍手が起こり、モデルとなったみぃちゃんとみゃぁちゃんが二本足で立ち上がると優雅に一礼をした。
『汝、悪しきものを排し、世界を正す行いをするのなら、少しばかり知恵を授けよう』
三次元映像の窓辺の猫がそう言うと、器用に窓を開けて猫は少年キールのベッドの脇に飛び降りた。
猫が禿頭の男を誘拐犯だと指摘すると、少年キールが否定し、馬鹿だなぁ、と猫が続けた言葉に、堪えていた第三皇子夫人が耐えきれなくなり嗚咽が漏れた。
『ほかに頼れる人がいないから、本能で庇護を求めているんだね。すぐ消える癒しの経過を見守らないなんて、あの禿は保護者として失格だ。仮に、奴が苦しむお前を見るに堪えかねて退席したんだとしても、あの男がお前を気の毒に思い、涙を堪え、お前の見えないところで洗面器に水を張って顔をつけて号泣した跡を隠しているとでも思うかい?……あり得ないだろう?』
猫のセリフに皇帝が頷いた。
『たとえ実の親子じゃなくても本当に愛情があるのなら、保護した子どもが苦痛にあえいでいるのなら、何としてでもその苦しみを取り除こうとするものだ。お前は死なない程度に癒しを掛けられているに過ぎないじゃないか』
猫の煽りに少年キールを取り巻く黒いモヤが猫に向かって襲い掛かるが、猫は大きく跳躍して黒いモヤを避けた。
黒いモヤの飛んでいった方向の客席側から、キャーと悲鳴が上がった。
『まあ、よい。信じるも信じないもお前次第だ。世界を正すと約束するのなら、その身を蝕む邪悪なものを浄化する聖なる力を授かるだろう。新月の夜に光る石を掴み邪気を払え!そして、健康な体を手に入れたら邪気の正体を暴く魔術具を制作し、邪気の根本を浄化すると誓うのだ!』
猫のセリフの以降の、少年キールが神々に誓約するくだりは離宮での二人芝居と同様だったので、第三夫人と皇帝はゆったりと席に肩をつけて見守った。
新月の夜を待って少年キールがベッドから転げ落ち、這いつくばって光る石を掴みに行く迫真の演技に第三皇子夫人は両手を握りしめて肩を震わせた。
アドニスは第三皇子夫人の肩を抱き寄せながら、本当はあの場ですぐに浄化してもらったのよ、と小声で暴露した。
舞台上の少年キールが光る石に触れ、石を掲げると、聖なる光に抵抗するかのように黒いモヤが劇場中で渦巻いた。
オーケストラが勇ましい音楽を奏でると少年キールの掲げた石が強く光り、竜巻のようになっていた黒いモヤが霧散した。
少年キールが輝かしい笑みを見せると一幕終了の幕が下りた。
劇場内は、まるで終演か、と思わせるような割れんばかりの拍手が起こった。
皇帝は振り返ってアドニスを見ると、よくぞ耐えて生き抜いたな、と声を掛けた。
親心が欠けていた皇帝が、第三夫人からの影響ではなく、第三皇子夫人の悲痛な追体験を通じて孫に気遣いをできるくらい心が成長していた。
女子寮監ワイルドの目論見が成功したことに兄貴と犬型のシロが満足そうに頷いていた。
何度生まれ変わっても心が育っていなかった皇帝は、もっと心の視野を広げた方がいい。
その後の舞台は、世界を正すための魔術具を制作することになった少年キールが素材を求めて旅をする冒険譚となり、水竜と友達になったり、避暑地に向かうお姫様が盗賊に襲われているのを助けて恋仲になったりしつつも、身分差に身を引こうとすると自分の出自を知り、両親に会いに行き、仇敵と再会する、予告編の場面へと進んだ。
涙あり、笑いあり、バトルあり、恋愛あり、の盛りだくさんな内容に、三次元映像とオーケストラの演奏で迫力満点の舞台に観客たちは大いに盛り上がった。
禿頭の男との戦いに勝利した少年キールは、囚われていた両親を救助し、魔術具を完成させて世界の邪なものを浄化し、王宮に姫を迎えに行って、めでたしめでたしで終演した。
カーテンコールでは皇帝も立ち上がり惜しみない拍手を送った。
警備の都合上真っ先に退場の案内をされる皇帝に、女子寮監ワイルドが小声で言った。
『この埋め合わせは、第五皇子が引き取ることになっている孤児の中から虎使いの資質のある少年を手厚く保護することの約束で、手を打ちましょう』
ご機嫌な皇帝は、それでいいのか!善処する、と即答した。
女子寮監ワイルドの真の目論見はこっちだったのか!




