これは夢じゃない
好々爺が体を捻って孫たちに手を振るような姿に頬を緩ませたハントとイーサンはフッと息を漏らした。
「お話を伺うと、嫁は奪うし泥棒が市民を虐殺するし、隣国はとんでもないことばかりしていますね」
帝国と明言せずに神妙な顔つきでハントが言うと、辺境伯領主は、そうだろう、と頷いた。
「これがまた、百年前の歴史を紐解いてもこちらとしては不満ばかりなのだから、自分のとこの領土くらいしっかり護れ!と言いたくなるのもわかるだろう?だが、孫と領民たちが滞在しているとあっては話が別だ。もし、あの地がキャロルの手紙の通りの護りの結界ならば神罰の影響がどこまで及ぶのか、儂には想像できん」
護りの結界、神罰、という話の流れにイザークはなぜ自分がここにいるのかに思い至ったようで苦虫を噛み潰したような表情になった。
「休暇中に旅行に来ただけなのにとんでもない事態に巻き込んでしまったね」
辺境伯領主がイザークに声を掛けると、イザークは苦笑した。
「休暇に旅ができるようになったのも、古代魔法陣の扱い方を習得したからなので、この出会いは偶然というより必然なのでしょうね」
事情を全く知らないイザークは自身の研究成果を出したタイミングで憧れの辺境伯領に観光に来ると帝国軍人を連れた留学生一行を目撃してさぞ驚いただろう。
「君の領地が特殊なのは跡継ぎが限定されていることで推測できた。そんな特殊な事情を持つ君は町長が次々と突然死する町についてどう考えるかい?」
辺境伯領主の問いにイザークは眉を寄せると小声で言った。
「即座に退避することを勧めます」
そういうことだ、と辺境伯領主がぼくたちを見遣ると、そうでしたか、とイザークは呟いた。
「白砂にならずに町が残っているのなら、よほど教会の護りの魔法陣からの立地が良い場所なのでしょうね。その領の領主一族はおそらく領の護りの魔法陣からその町を除外することで護りの結界を維持しているのでしょう」
イザークの推測に、まだ魔法学校生なのにこの話だけでそこまで理解するのか、とハントとイーサンは目を見張った。
「彼は優秀ですよ。その優秀さゆえに国に残っているのです」
ガンガイル王国は人材が豊富だろ、と辺境伯領主が得意気に言うと、国に残ったものの務めを果たしているだけです、とイザークは控えめな回答をした。
「君が領主ならどうする?」
「魔法陣に蓋をして上書きする程度に留めますね」
辺境伯領主の問いかけにフフっと笑ったイザークは即答した。
「私も同じ考えだ。そんな町を抱えても実績が出せない領主はころころと交代させられるのが常だろう。教会からの恩恵が濃い立地条件の町を立て直したら、即座に嫉妬されて奪われる恐れがある。奪われたら壊れる仕掛けぐらい仕込むだろうな」
そうですね、とイザークは賛同すると、ハントとイーサンは心当たりがあるのか左斜め上に視線を向けた。
「問題は古代魔法陣がむき出しの状態であるのなら、うっかりそこに魔力が流れてしまうと消し炭になる影響力がどこまで及ぶのか想像がつかないことです。近寄らないのが正解でしょう」
イザークの意見に辺境伯領主は頷いた。
市電は火の神の祠前の駅を通過し空の神の祠前駅に向かっている。
もう間もなく騎士団の宿舎の最寄り駅に到着するだろう。
「イザーク君。この後もう少し付き合ってくれるかい?」
辺境伯領主の誘いに、ろくに話せなかったぼくたちを見てイザークは頷いた。
「はい、喜んで、と言いたいところですが、ぼくの護衛を噴水広場に置いてきてしまいました。連絡がつくのなら喜んでご同行いたします」
それは済まなかった、と辺境伯領主が謝罪すると、目的地まで騎士団員たちが皆さんを案内しています、とマルクさんがフォローした。
騎士団宿舎前駅に市電が到着した時には地下鉄を乗り継いだであろうイザークの護衛たちがすでに待ち構えていた。
騎士団の宿舎の庭には男子棟女子棟に別れた子どもたちの仮設の宿舎が設置されており、大部屋にずらりと並んだ清潔なベッドとフカフカの寝具に子どもたちは大喜びした。
ベッドの数が保護した子どもたちの人数より多いのは学習館の年長者たちのお泊り会も兼ねるつもりなのかもしれない。
留学生一行とハントとイーサンたちのためにもコテージのような宿舎が用意されており、各宿舎の真ん中に夕食用にテントが張られ、非番の騎士たちが大鍋で何か煮込んでいた。
美味しそうな匂いに鼻を引くつかせていると、皆で風呂に行こう!と辺境伯領主が子どもたちを誘うと、ハントとイーサンもついてきた。
騎士団宿舎の屋上に設けられた大浴場に行くと、子どもたちにトイレの使用方法や入浴の仕方を留学生たちで丁寧に教えた。
裸になった子どもたちは回復薬で元気になったとはいえ酷く痩せていた。
ハントとイーサンが痛ましい視線を子どもたちに向けると、笑顔でいなさい、と辺境伯領主は小声で注意した。
「この子たちの人生はこれから始まるようなものなのに、大人が可哀想な子を見る目をしてはいけない。この子たちの未来が可哀想なものになるのだとしたら、その責任は大人たちにある」
ハントとイーサンは黙って頷いた。
留学生たちが手分けして子どもたちの体を洗うと、ハントとイーサンも順番待ちの子どもたちの体を洗った。
孫息子との入浴に慣れているのを見せつけるかのように辺境伯領主が上手に子どもを仰向けに膝に乗せて得意気な表情で髪を洗ってあげた。
ぼくたちは無理せず、お目目閉じてね、と声を掛けてゆっくりとお湯をかけた。
騎士団員用の浴槽は洗礼式前の子どもたちには深かったのでぼくたちが一人ずつ子どもたちの脇に手を入れて一緒に浴槽に入った。
大きな浴槽にたっぷりのお湯にぷかぷかと浮かぶスライムたちは触手を人の手の形にして水鉄砲のやり方を子どもたちに教えた。
ハントとイーサンが抱えた子どもたちが二人の顔にお湯をかけると、上手にできたな、と二人とも笑った。
辺境伯領主まで、子どもを抱えて湯につかっている状態ではハントとイーサンの護衛たちも警戒のしようがなく、肩までお湯につかりながら穏やかな表情で見守った。
「小さい子にはこの湯は熱かろう。もう上がるかい?」
辺境伯領主がそう声を掛けると子どもたちはこの楽しい時間が終わってしまうことに寂しそうな表情になった。
「上がってからも楽しいことは続くよ。君たちとお友達になりたがっている子たちがお風呂の外で待っているよ」
マルクさんの言葉に、こんなゆめのようにたのしいことがつづくはずがない、とぼくが抱えていた子どもが本音を漏らした。
「これは夢じゃないよ。温かいお風呂も、美味しい食事も、安心して眠れるベッドも、これから毎日ちゃんとあるんだよ。洗礼式の前に国に帰ることになるけれど、その頃にはきっと、この二人のおじさんが国をよくしてくれているはずだよ」
ぼくが優しく語り掛けると、子どもたちはぽたぽたと大粒の涙を湯船に落とした。
「ぼくも孤児になったけれど、引き取られたおうちの大きなお風呂に感動したなぁ。ぼくも大変な目にあったけれど幸せになれた。君たちだって幸せになるために生まれてきたんだから、幸せになる努力をしよう。さあ、笑って!」
ぼくの話に、グフー、と声を上げてイザークやクリスやボリスまで泣いていたのを見た子どもたちは、みんなやさしいね、と呟いて口角をグッと上げた。
まだ素直に笑顔がでる精神状態ではないけれど、笑おうと努力する子どもたちにぼくたちが微笑むと、子どもたちの涙をスライムたちが拭ってあげた。
昼過ぎから怒涛の勢いで救助された子どもたちのガス抜きができたところで風呂から出ると、脱衣所では満面の笑みを浮かべたクロイとアオイと不死鳥の貴公子や学習館の年長者たちが待ち構えていた。
後方で父さんが、任せておけ、と目で語った。
「今日の湯上りの牛乳は特別仕様になっています。着替えが済んだら一足先に堪能してください!」
不死鳥の貴公子が子どもたちに声を掛けると、見守っていた自身の護衛を振りはらい不死鳥の貴公子は真っ裸になった。
「兄さんたちはまだ湯につかっていたいでしょう?ひとまずここにいる騎士たちに任せて、もうひとっぷろ入りましょう!」
お行儀の特訓の成果で口調が丁寧になり、交渉力が上がったクロイに誘われた。
行っておいで、というかのように頷いた父さんに湯上りの子どもたちの着替えを任せ、ぼくたちは大浴場に引き返した。
「どれ、じいじが洗ってやろうかい?」
「自分でできます!」
不死鳥の貴公子に素っ気なく断られた辺境伯領主は、子どもが小さい期間はあっという間に過ぎていく、と若い護衛騎士に家庭を大事にするように話しながらハントとイーサンをサウナに誘った。
大人たちがゾロゾロとサウナに向かうと学習館の子どもたちは緊張を解いて安堵の息をついた。
「ごめんなさい。暴走しました」
手早く体を洗った不死鳥の貴公子が湯船に入ると、辛うじて頭が出る身長なのに一度ざぶんと湯に潜って顔を出し、唐突に謝罪した。
湯上りの子どもたちにフルーツ牛乳を振る舞いながら交流を図る予定だったのに、あまりにも痩せた子どもたちの目が涙で滲んでいるのを見ると、どう声を掛けていいのかがわからなくなり風呂に逃げてしまった、不甲斐ない、と不死鳥の貴公子は告白した。
「ぼくたちも動揺して便乗してしまったから同罪だよ」
項垂れるクロイの言葉にアオイも頷いた。
虐待された子どもたちだと聞いていたけれど、自分たちの想像を超える痩せ方をした子どもたちの姿に狼狽えてしまった気持ちはわかる。
「父さんに任せておけば大丈夫だよ。回復薬でだいぶ元気になっているけれど、いろいろあったあの子たちは夕食を食べたら起きていられないくらい疲れているはずだ。だけどね、同年代の子どもたちに会って少しでも笑える時間が持てたら心の栄養になるから、みんなは笑って一緒の時間を過ごすだけでいいんだよ」
ぼくの言葉に学習館の子どもたちは安堵したのに、オウオウと声を出して泣いたのはイザークだった。
「ごめんね。みっともなくって。ぼくにも姉がいたんだけれど、ぼくが生まれる前に亡くなっていたんだ。母が死んだときに赤ん坊の爪が棺に納められたのを見て初めて同腹の姉がいたことを知ったんだけれど、姉弟が生きていたらそんなふうに慰め合ったのかと思うと泣けてきちゃった」
イザークの告白に生まれてすぐ亡くなった兄貴を偲んで、いや横にいるけれど、ぼくたち兄弟はもらい泣きをした。
「そうだね、兄弟は辛いときに慰め合えるし、兄弟のために頑張ろうと思う強い心を持つこともできる。だけど、時に感情的になってうっかりきついことを言ってしまう時もある。兄弟と友人の違いは明日も、いや明日じゃなくても必ず会える自信があるから、後で謝ればいい、という絶対的な安心感があるところかな。友人ともそんな信頼関係は築けるよ。でも、明日があるのかを信じられない状態だった子どもたちには一つ一つ小さな約束をして、それをしっかり守って信頼してもらうことから始めないといけないね」
クリスがしみじみと語ると、ボリスだけでなくぼくたち兄弟も頷いた。
「……これから、みんなと信頼を築けばいいんだね」
失敗を挽回する気合に満ちた表情になった不死鳥の貴公子に、肩の力を抜かないと偉い人の息子だと引かれる気配を出すことになるよ、とアオイがボソッと呟いた。




