甘くて、酸っぱくて、ほろ苦い
ぼくたちが旅立つ当日に飛竜の魔術具が驚くべきことに離宮に着陸することを許された。
別れを惜しむ暇も無く、離宮のアルベルト殿下とカテリーナ妃の自室と貴賓用寝室の新型トイレを設置した。
「このトイレが馬車に装備されていて、滞在先に時折大浴場がある旅をしていたのか!」
アルベルト殿下の感嘆にエンリケさんが頷いた。
「ええ、快適な設備もそうですが、出会う人々も個性的でした。でも何より、精霊が実在し、神々に祈ると精霊が現れるという事実を知ったことが衝撃的でした。精霊に応えてもらえないということは神への祈りが形骸化していたのだろうと痛感いたしました」
「高位貴族ほど、己の魔力量で高度な魔法を行使できるのだと思い込んでいるからな」
アルベルト殿下は精霊素が少ないスライムのテント内で自分の魔法が行使できなかったことを思い出したようで、自嘲ぎみに笑った。
「お父様の省魔力の魔術師、という異名は本物でしたね」
「これは祖母の力作です」
「まあ、素晴らしいおばあ様だわ!」
トイレを利用したカテリーナ妃は女性の設計に感激した。
便座に座った人物の魔力を利用して、おしり洗浄やトイレの洗浄を済ませてしまう最新型のトイレをすっかりお気に召したようだ。
王宮まで設置するためには飛竜の魔術具の定期運行が必須になる。
商会の代表者が商談を取り付けていた。
留学生たちは日用品の魔術具の売り込みをしている。
ぼくは魔獣たちを連れてこの地に植樹された二本のオレンジの苗木に別れの挨拶をするために、オレンジの苗木のために新設された温室に行った。
五本の苗木のうち二本をこの地に植樹した。
馬車の中でマリアにたっぷり魔力をもらった二本のオレンジの苗木は、もうぼくの腰の高さまで成長していた。
ハンスの木は年中実がなる不思議な果実だった。
それはあの受難の子の誕生を記念して実る特別な木だからだ。
あの土地を護る特別な子どもの誕生を祝うかのように、教会で年中実るオレンジの木が育った。
受難の子がいないこの地では条件が違う。
それでもいい。普通のオレンジでいいんだ。
将来この地を護るヘルムートや妹姫が大きくなるころに、家族みんなで食べられるささやかな収穫をもたらしてくれたらいいな。
植樹されたオレンジの苗木が風もないのにさわさわと揺れた。
「貴重な苗木を分けていただきありがとうございます」
マリアが温室までぼくを追ってきた。
「気にしなくていいよ。ここならハンスのオレンジの木もきっと大切にしてもらえる。友人のハンスもきっと喜んでくれるよ。北に位置するこの国では冬場の日照時間が短いから、育つのが遅いかもしれない。この木が実をつける頃にはマリアも帝国留学を終えているかもしれないね」
マリアがさわさわと揺れるオレンジの葉に触れて、ここに根付いてくれたらそれでいいのです、と寂しそうに言った。
叔母さんの国とはいえ、そうそう簡単にこの国に何度も来られないだろう。
「残りの苗木を帝都のガンガイル王国寮に植樹するから、マリアが遊びに来てくれたらオレンジの木の成長が見れるよ」
マリアがパッと輝くような笑顔になった。
「わたくしが遊びに行ってもかまわないのですか?」
「もちろんだよ。マリアが顔を出してくれたらみんなが喜ぶよ」
マリアが顎を引いて微笑んだ。
「ええ。皆さんにも本当によくしていただきました。下手な男装でしたのにずっと付きあってくださって、それでいて何気なくわたくしたちに配慮してくださいました」
つい最近の出来事なのにマリアは懐かしむように遠い目をした。
遊びに来て、とは言ったけれど、マリアはキリシア公国のお姫様なのだ。
もう気軽に声をかけることも出来なくなるだろう。
「いろいろありがとうございました。これをお返しいたします」
マリアはバイソンの皮にみぃちゃんのチャームをつけた声変わりの魔術具を差し出した。
「これはマルコに売ったものだよ。そのまま持っていていいよ」
「でも。ほかの魔術具の価格から見ても、これは安すぎです。お借りしていたような価格ではありませんか」
マリアは魔術具販売会で、他の魔術具の標準価格を知ってしまったようだ。
「試作品は定価より安いものだよ。それはマルコに販売したものだから、帝国でマルコとしてお忍びで活動する時に使ったらいいよ」
お忍びで、という言葉にマリアがハッとした。
「これはマルコとカイルの友情価格の品なのですね。そしてマルコは消えてしまっていない。マルコはこれからもカイル君の友人でいていいのですね」
ぼくも笑顔で頷いた。
「これからもカイルとマルコはずっと友だちだよ」
マリアの瞳に涙が滲んだ。
「ありがとう。マルコも……マリアもカイルとずっと友だちですよね」
マリアがぼくの両手を取って瞳を輝かせて微笑んだ。
「ぼくたちは友だちだよ。そしてこのオレンジの木は、ぼくとマリアと、ぼくたちの友だちと、ずっと遠く離れても友情で結ばれている記念のオレンジの木なんだよ。そしてこのオレンジの木はこれからヘルムート兄妹たちを育んでいき、遠く離れてしまうぼくたちと繋いでいてくれるんだ」
ぼくはマリアの手を繋きなおしてオレンジの苗木を見た。
マリアは嬉しそうに微笑んでぼくを見てからオレンジの苗木を見た。
「大きく育ってほしいですわ。……わたくしたちの友情がいつまでも続くように」
「帝都に着いたらガンガイル王国寮に手紙を書いてね。寮のオレンジの苗木も負けないぐらい大きく育てるから絶対見に来てね」
「はい。必ず伺います」
ぼくたちは帝都で再会することを誓った。
繋いでいた手を離すとマリアは寂しげな顔をして口元を隠した。
また会えるよ、ぼくはそう言ってマリアの肩を叩いた。
“……このオレンジは甘くて、酸っぱくって、ほろ苦い実がなるだろうねぇ”
ぼくのスライムが精霊言語でわざわざそう言うと、みぃちゃんとキュアが頷いた。
それは美味しいオレンジになりそうだな。
出発はヘルムートの嗚咽交じりの泣き声に見送られることになった。
三つ子たちはもう別れ際に泣いてくれることがなくなったから、懐かしくもあり、ぼくたちはホロっとした。
ぼくは膝をついてヘルムートと視線を合わせて約束した。
「また来るよ。だからヘルムートも家族に優しく、健康に気をつけて、オレンジの木を大事にしてね」
「はい。やくそくします!」
ヘルムートは涙を拭って力強く約束した。
両殿下も笑顔で見送る中、二台の馬車が出発すると、精霊たちが別れを惜しむように現れて光を点滅させた。
魔力いっぱいな幸せの国に滞在できて、ぼくたちの心は癒された。
ここから先のルートが厳しいものになることは焼肉パーティーの後の打ち合わせで確認済みだ。
入国した時とは別の山越えルートで直接帝国本土を目指すことになった。
ユゴーさんたちに販売した魔術具は国境を越えても発動させることが可能だったので、ぼくたちとは別の商隊が広範囲に販売する作戦に変えたのだ。
難民の多い土地は治安も悪化しており、ぼくたち留学生一行はあからさまに裕福なので、このまま当初の予定通りの旅程を決行するのは危険すぎる、と商会の代表者に告げられたのだ。
ぼくたちは帝国本土に入国し、帝都までの幹線道を通過しながら、別動隊が販売した魔術具が設置されたことをぼくのスライムが感知したらそく魔術具を発動させることで、より隠密に活動することになった。
鳩の魔術具は蝗害対策に限定使用することで、キリシア公国周辺の結界の強化をより強固にし、南部の結界の強化の足掛かりとすることにしたのだ。
帝国側の登山口に到着すると、転移の魔術具を利用したアルベルト殿下とカテリーナ妃が先回りしていた。
「精霊たちに見送られて山を越えるのだから、大きな魔力の塊の移動を我々は確認しなければならないからな」
「驚かせるつもりでしたのに、皆さん予測されていたのですね」
両殿下の登場にもぼくたちが表情を変えなかったので、カテリーナ妃は少しがっかりしたように言った。
馬車が空を飛ぶところを両殿下が見たがることは商会の代表者が想定していた。
この国でも対外的には妖精が在住していることを隠匿するだろうから、馬車の魔術具が自力で飛べることも黙秘してくれるだろう、と山越えルートを選択したのだ。
披露しても問題ない。
馬車が変形するのを両殿下がキラキラな笑顔で見守る中、飛び立つときの風圧が凄まじいことを説明し、もっと下がって見学するように商会の代表者が説得した。
アルベルト殿下が笑顔で大丈夫だ、と答えると妖精が姿を現した。
妖精がいるということの意味を理解している商会の代表者は、失礼いたしました、と笑顔で引き下がった。
ぼくと兄貴が御者台という名のコックピットに乗り込むと助手席にはウィルとロブが乗り込んだ。
助手席決めじゃんけんなんて意味のないことはもうやめたらいいのに、今回も忖度じゃんけんがあったようだ。
回転翼が回り出し、猛烈な風が吹きつけるのに両殿下と国境警備の騎士たちには半円形の結界が施されていたので、土埃に襲われることなく笑顔で手を振ってくれた。
飛行体勢に入ると精霊たちが二台の馬車を包み込むように出現し、まるで精霊の力を借りて飛び立ったかのような演出をしてくれた。
驚く両殿下の表情を精霊言語で確認し、くすっと笑った。
「何が面白いの?」
ウィルの質問に、両殿下が精霊たちの量に驚いているだろうことを想像した、と答えた。
「そうだね。これは凄い量だね」
高度を上げて越えていく馬車を、両殿下はずっと見送ってくれる気配がした。
「シロは一体どこに行ってしまったんだろうね?」
「ぼくも聞いていないけど、なんとなく妖精に会いたくなかったんじゃないかなって考えていたよ」
ぼくの答えに、ウィルと商会の馬車の操縦をしている兄貴が噴き出した。
「あの妖精、最後までジョシュアを警戒していたもんね」
ウィルがケタケタと笑ったが、妖精にとって兄貴は未知の存在だからやっぱり怖かったのだろう。




