決意
自分は一体何者になろうとしているのか。
社交界デビュー当日の朝、私ことベアトリス・ネヴィルは何度も繰り返した問いの周りを自分の尾を追いかける犬のようにぐるぐると回っていた。
懸案だったドレスも不承不承ではあるが着た。お母様とバークマンがことのほか喜んでくれた。褒められること自体は悪くない。思わず悦に入りそうになる。
だが私の笑顔は晴れない。貴族社会のルールに屈した気がしていたから。
そしてもう一人の使用人であるレイが褒めてくれなかったから。
この思考に出口がないことはよく理解していた。
なぜなら私は自分が気落ちする理由の答えをわかっていた。自分が何者になろうとしているのか、肝心の私自身がわかっていなかったからだ。
貴族社会に逆らって、その先に何が待っているのか。
レイの賛美を求めて、その先に何を願っているのか。
全ての結果を未来の目で見れたらいいのに。めかしこんだ夏色のドレスを披露しながら私は現実逃避をしていた。
「さあ、出かけましょう。ベアト」
お母様のひと言が出立の合図となった。
レイは私をエスコートしない。腰を悪くしたお母様の世話をするためだ。
私はやむをえず、ひとりでシルヴァーゴーストの後部座席に乗り込む。地をはうように長いドレスの裾を自分で持ち上げながら。
そしてひとりだけ留守番の紫音に見送られながら、車は発進する。
同じく後部座席の乗り込んだレイだが、何も話しかけてはこない。こちらの緊張をほぐすようなセリフでも吐けばいいのに。なぜお母様なんかと型通りの会話をしている。社交界デビューを間近に控えて体が震えているのは私なんだぞ。
心の中は気づくとレイへの不満が満ちていた。
しかし冷静に考えれば、この状況は必然的に訪れたものだったと思う。
昨晩私はレイ――正確にはレイたちの秘密を知らされた。
彼らが異世界の住人であること。事故に遭って転移してきたこと。元の世界に戻るべきか迷っていること。命に価値はないなどといって同情を拒絶したこと。
それ以来、私はレイとまともに会話をしていない。
食堂での晩餐も、話題を引きさらっていったのはお母様だ。私はただ与えられたエサを食む小動物のようにオードブルからデザートを口に流し込んでいただけ。
レイには考える時間をくれと言ったが、私はレイのいう事実をのみ込めず、どれだけ考えても到底答えなど出なかった。まるで彼の迷いが私にうつったかのように。
そうした堂々巡りを続けていると、やがて車は目的地である王宮に着いた。
――バッキンガム宮殿。
勿論、ここへ来たのは初めてだ。初めての体験はどんなことでも緊張する。
しかし緊張に駆られたのは私だけでなく、レイも同じだったようだ。
宮殿を遠目に見ながら、息をのみ圧倒されている。
私は上の空のレイに背後から声をかける。
「レイ、降りるぞ」
そのひと言にレイはハッとなったようだ。
「申し訳ございません」
「謝ればいいというものではない。しっかりしろ」
私が急かすように言うと、レイは外に出て、大きくドアを開く。
彼にエスコートされながら、大地に降り立つ。
足下から伝わってくる固い感触が、惚けていた私を現実に引き戻した。
私はレイに何かひと言、声をかけようとしたが、
「レイ、手を貸して」
「御意」
またしてもお母様の介護で邪魔をされる。どうにも呼吸が噛み合ない。
なので私はレイとの会話を諦め、王宮の外まで続く行列に並ぶことにした。
「国王陛下の拝謁を受けるのはベアト一人じゃないのよ。他にもたくさんの子女が拝謁を待っているの。成人の証を受け、社交界へデビューするためにね」
レイはお母様の講釈に聞き入っている。私は孤独感を持て余した。
きっと外見は、さぞかし仏頂面に映っていることだろう。私を一瞥したレイは、とてもバツの悪そうになっていたから。
それから三十分ほど過ぎただろうか。
宮殿のホールに入っていく私たちだが、そこに会いたくもない人物がいた。クラリック公の令嬢、エミリーだ。高慢な笑い声を立てる、私が苦手な人物だ。
「あら、ベアト。あなたもいたの?」
「…………」
この朝からの憂鬱な気分で私はすっかり拗ねていた。応えも返さず、無言を貫く。
「無視? 張り合いがないわ」
エミリーはつまらなそうに鼻を鳴らす。うざい奴だ、さっさと自分の列に戻れ。
「それじゃ、ごめんあそばせ」
そそくさと退散するかと思ったら、エミリーは近くにいた知り合いと話し込んでいる。本当に暇な奴だ、なんてことを思っていると、
「あのお方、普段は男装していらっしゃるそうよ」
「まあ、奇特な方ですこと」
エミリーが事実無根を吹き込んだのか、数人の女が私を見てくすくす笑っている。
実に不愉快だ。
私は目蓋を細め、噂話に興じる奴らに恨みのこもった視線を送ってやる。
「…………」
その視線に気づいたのか、女どもは目を逸らし、無駄口を閉じていた。
ひとまずはこちらの勝利というところか。
私は心の中で勝ち誇るが、その瞬間、おもむろにレイの奴が列を離れた。
小走りに向かった先はエミリーのところである。私が気づかなかっただけで、さっきの無礼を咎めようと思ったのか。普段と様子の違うレイだが、ここぞというときに頼もしい行動をとってくれる。沈鬱だった私の心にわずかな光が差した気がした。
とはいえそれが油断を生んだのだろう。
私がレイに賛美を送っているとき、何人かの淑女が私の横を通り過ぎた。それが一体何人だったか、数は覚えていない。けれどその中のひとりがとんでもない粗相をしたのだ。
音がしたのは一瞬だった。
ビリッと絹が裂けるような音。ドレスの裾が長いので、最初はほとんど気づかなかった。
異常を指摘したのはお母様だ。
「ベアト、大変!」
痛めた腰をくの字に曲げ、お母様がドレスの裾を持ち上げた。
そこには縦に、大きな裂け目ができていた。
ドレスとしての価値は台無し。衣装がこんなでは拝謁の儀もままならない。
私の中でふたつの異なる感情がぶつかり合った。これで拝謁と社交界デビューを反故にできるという喜びと、それを応援してくれた人びとを落胆させてはいけないという気持ち。
両者がせめぎ合い、勝ったのは後者だった。
そうすると私はドレスを使い物にならなくさせた相手に怒りを覚えたが、あいにく誰の犯行か特定することはできなかった。
後ろの奴を睨みつけたが、自分は無実だといわんばかりに怯えた顔をした。
犯人探しは重要ではない。問題はこのドレスをどうするかだ。
私の気分は最悪だった。ここまで頑張ってきたのに。みんなの応援を背に受け、どうにかこぎつけた社交界デビューの日だというのに。
ちょうどそのとき、列を離れたレイが戻ってきた。
「ああ、どうしましょう!」
お母様は驚愕にふるえ、この世の終わりとばかりに天を仰いでいる。
「何が起きました?」
レイは真剣な表情のまま、私たちのもとに歩み寄る。
「ベアトのドレスが破けてしまったの。裾の部分がざっくりと」
「本当ですか、ベアト様」
「…………」
私は両手でドレスを持ち上げ、破けた部分をレイに見せる。
この惨状に、彼は真剣な表情をいっそう色濃くした。
「レイ、何かいい知恵はないの?」
おろおろしたお母様が一方的にレイにすがりつく。
レイはあごに手を当て、善後策を考えているようだ。
そんな彼を見て、私は自然のこんなことを口にしていた。
「レイ、何とかしろ」
宮殿についてから、私はレイと初めて口をきいた。シンプルな命令。でもいまは、これ以上にふさわしい言葉がなかった。
やがてひとつの結論に到ったのか、レイは糸と針、ハサミを取り出し、私の側に跪いた。
「ベアト様。急繕いではありますが、私が応急措置をいたします」
「なんでもいい。対応は任す」
「承知いたしました」
レイは円周状に裾の部分をカットしたあと、糸でほつれ縫いを始めた。
「丈が短くなりますが、ご容赦ください」
破れたドレスを急ごしらえで仕立て直すレイだが、その流れるような運針は中々真似できないものだった。私に見えないところでたくさん練習したのだろう。
「もの好きな執事ね」
「あんなにドレスが短くなっちゃって大丈夫なのかしら」
周囲からは私を笑う声が聞こえてくる。
けれどレイは運針の手を止める様子はなかった。まるで目の前のもの以外、一切視界に入らないかのように。
「できました」
時間にすれば十分ちょっと。ハウスメイド顔負けの仕事ぶりである。
うちの使用人は優秀だ。本当に誇りに思う。
「ありがとう」
だから私は素直に礼を言った。さっきまでの迷いが今ではどうでもよくなっていく。私はひとりじゃない。使用人たちに支えられて、私がここにいる。
「膝丈になってしまいましたが、よろしかったでしょうか」
「気にしない。短いスカートは履き慣れている」
私は見事に仕立て直されたドレスを周囲に見せつけるようにくるりと翻した。
「ベアト。そろそろよ」
拝謁の列は淡々と短くなっており、もう少しで王の間が近づいていた。
レイがお母様の手を取り、小声でつぶやく。
「シンシア様、お体は平気でしょうか」
「よくはないわね。しっかり支えて頂戴」
「御意」
王の拝謁は成人を迎えた子女が王みずからにお目見えする儀式のこと。
後見人であるお母様。付き人を務めるレイを背後に従え、私は決戦の場に赴くような心境になっていた。あいまみえる相手は我がイギリスの国王陛下、ジョージ五世である。
王の間に入るまでのあいだ、私を襲ったのは迷いではなく純粋な恐怖であった。
自分がこんなに怖がりだなんて思ってもみなかった。
心臓が歪に高鳴り、この場で吐き出してしまいそうなほど。
視線をあげれば、国王陛下が見える。
その後ろには王室のお歴々が並んでいる。王女様、皇太子殿下、そして彼らの従者たち。陛下はただ座りのいい椅子に腰かけ、拝謁する子女のキスを手の甲に受けている。
私はこのとき、本当の意味で理解した。この国を支える階級社会の存在を。
名だたる貴族の子女があれほどまでにへりくだって崇敬を捧げる存在を。
「ベアト、そろそろあなたの番よ」
「わかってる」
早くも気が急いたのか、お母様は私以上に舞い上がっている。
その興奮が伝わり、私が体を固くしていると、
「ご安心ください、ベアト様。私が付き人についております」
片方の手をこちらへ差し出し、レイが小さく傅いた。
「…………」
その手を私は無言で受ける。正直にいえば、この期に及んで私は怖がっていた。自分を絡めとる貴族社会の力に畏怖していた。
もしできるものなら、今すぐ回れ右をしてここから逃げたくなってくる。
そんなことを考えていると、足がすくんでしまう。
だが、そうはならなかった。
思い出したのは、レイのくれた言葉だった。
――やらずに後悔するより、やって後悔するほうがいい。
こいつは社交界デビューを渋る私をそういって励ましてくれた。
やるだけのことはやって、後悔するならそのあとでやれと。
私は貴族社会が嫌いだ。でも後悔はもっと嫌いだ。
前の子女が拝謁を終え、ついに順番が自分に回ってきた。
「行くぞ、レイ」
「御意」
私は小さなステップを踏むように進む。
体はややぎこちないが、心は澄みきった水面のように落ち着いていた。
国王陛下との距離は十メートルほど。それは万里の長城のように長く果てしないものに思えたが、実際歩くとすぐだった。私の前に王がいる。表情はない。
付き人のレイが手を離した。私はひとりでドレスを持ち上げ、深々と一礼しながら床に腰を下げた。そして拝跪の姿勢をとった。
教会でキリスト像に跪くのと同じ。そう、国王とはイギリスの神なのだ。
そんな雑念に囚われていると、
「風変わりな服を着ているな」
声の主は目の前の陛下だった。私の短いドレスを見咎めたのだ。
表情は鉄仮面のようだが、心持ち眉をひそめたようにも感じられた。
普通ならここであれこれ言い訳をしてしまう場面だ。
けれど私は後悔を恐れなかった。やるだけのことをやればいい。そう信じた。
「我が家の使用人が縫いました、最上のドレスでございます」
「ふむ、そうか」
堂々と言い放つと、陛下はふたたび表情を完全に消した。
差し出すのは右手。そしておもむろに、しゃがれた声を発する。
「余に不滅の忠誠を誓うか?」
「イエス・ユア・マジェスティ」
そう答えたあと、私は陛下の右手に口づけをする。
その感触が自分に何をもたらすか、ずっと考えていた。悩んで迷ってもいた。しかし今この瞬間、その答えが出た。湧いて出たのは王への崇敬ではなかった。
貴様に忠誠など誓うものか、くそったれ。
拝謁の儀をやり終えたときに抱いた私の後悔。それは王の醸し出す圧倒的な権威に全く反抗できなかったという後ろめたさに他ならない。
けれどその後ろめたさを味わいながら、私は思ったのだ。自分に付きまとっていた迷いをついに打ち消すことができると。
私は革命家になろう。それこそが私の生きる道だ。




