消えたダイヤ
「一等賞は……ランチェスター公爵家令嬢、エミリー様出品の青薔薇です!」
ガーデンパーティも佳境を迎えた夕方前、即席の壇上に上ったシンシア様が花卉コンテストの一位を発表された。
鳴り止まぬ万雷の拍手。パーティの参加者はみな惜しみなく祝福を捧げる。なにせ相手は公爵家の令嬢だ。最高位のゲストが最高の賞を頂いた。ドラマとしてみれば陳腐でも、リアルとしてみればこれ以上ない予定調和だったろう。
俺は付き人としてエミリー様の後ろに侍っていたが、心は上の空だった。先ほどの傷ついた薔薇がまだ頭を離れない。一体何が起きたのか。疑問が頭を巡っている。
「おめでとう、エミリー嬢」
すぐ側にいたダドリー卿が近寄ってきて、エミリー様を抱擁なさる。もうひとりの主賓が周囲に見せつけるように振る舞う。これもまた予定調和を感じさせる一幕であった。
ネヴィル家のみんなには薔薇の傷は伝えていない。唯一、アルにだけは伝えてあった。そのアルも、エミリー様に拍手を送るってはいるが、どこか寂しそうに映る。アルでさえこの体たらくなのだから、ベアト様の悔しがり方といったら。横目に入った彼女は、一等賞が発表されるや、テーブル席を立ち、屋敷のほうに向かわれてしまった。
「玲のせいじゃないよ。気に病むことはない」
そっと歩み寄ってきたアルが、俺の背中を軽く叩く。その励ましに俺はようやく現実に返る。俺はこの屋敷の執事なのだ。放心している場合ではない。
「ベアトは納得してないようだけど、彼女にはぼくから言い含めておくから。なんといってもきょうの主役のひとりは彼女なんだからね。きちんと賓客の相手を務めさせるよ」
アルにまで気を使わせてしまったことに忸怩たる気分を味わうが、俺にはこれからアルとベアト様、そしてエミリー様のお誕生日パーティを取り仕切る仕事が残っていた。
「承知しました、ご主人様。ひとまず仕事のことだけを考えます」
「うん。ぼくもひと仕事待っているからね」
「ひと仕事?」
「エミリー様の誕生日を祝う件だよ。向こうは内緒にしたつもりだろうけど、そうはいかない。ネヴィル家の本気を見せつけてやるつもりだ」
そういって俺とアルは別れ、それぞれの持ち場に戻る。アルは賓客たちを屋敷へ誘い、花卉コンテストの選者という重責を果たしたシンシア様と合流なさる。俺はエミリー様の隣に戻り、彼女にあらためて祝意を表する。
「おめでとうございます、エミリー様。これからご主人様がたの誕生日パーティが始まりますゆえ、屋敷にお戻りになりましょう」
「ふん……私、ネヴィル家の自滅で勝ったとは思ってませんからね。我が家の青薔薇が勝ったのは実力ですわ、まぎれもない実力」
「私もそのように思っております」
「どうかしら。顔色に出ているわよ。自分のミスがなければ勝ったのはうちだとね。心の中で何を考えても自由だけど、それを悟られないようになさい」
「はい。肝に銘じます」
やはり俺はレディの扱いが下手なんだな。あっさりと顔色を読まれ、ご丁寧に忠告まで受けてしまった。
「エミリー様、ヴィンセント様。こちらへご案内いたします」
俺は執事にも礼を尽くし、屋敷のほうへお連れした。
ざっと五十人近いゲストを迎えたとあって、屋敷は食堂と大広間を開放し、賓客全員が一堂に会せるようにしてあった。勿論、使用人の席はそこにはない。貴族の皆様が無事にお食事を終えたあと、使用人は晩餐をとれる。それまでは壁際の椅子に座り、主人の命令にいつでも応えられるよう待機している。
もっとも俺の仕事はべつにあった。誕生日パーティの主役であるアルとベアト様に侍り、ふたりが受け取る贈り物を隣のホールに持っていく係だ。贈り物はゲストの数だけあり、隣のホールに設置した机はプレゼントの箱がすぐに山積みとなった。
その様子を、エミリー様は遠巻きにご覧になっていた。自分も誕生日のはずなのに、それを教えないでパーティに来られた賓客。花卉コンテストの一件だけで、彼女がネヴィル家にかなりの敵愾心を抱いていることは察せられた。誕生日だと教えなかったのも、我が屋敷にいわれなき悪評を立たせるためか。カーソンはそのように断定していたが、問題はアルが処理するといっていた。彼女にとっておきの贈り物を用意することで。
見れば、他の使用人はそれぞれの持ち場で忙しなく動いている。カーソンの指示のもと、雪嗣と月は配膳をしている。紫音とダグラスはキッチンでデシャンのサポートだろう。
かつてなく大がかりになった誕生日パーティだが、晩餐の準備が整ったところでようやく山場が見えてきた。贈り物を受け取り終わったアル、ベアト様のふたりが着席し、賓客代表としてダドリー卿が祝辞を述べることになった。
「諸君、ここにひとりの紳士の成人を祝うことになった。その喜びと将来への希望をともに言祝ごう。そしてもうひとりの淑女にはバラ色の未来を」
卿の簡潔だが力強いスピーチを受け、アルとベアト様は背筋を伸ばした。さすがのふたりも緊張しているのか。しかしそれは早とちりというものだった。
「私は淑女ではないんだがな」
ぼそりといったひと言が耳に入った。ベアト様の声だ。ダドリー卿に聞こえなかったのは幸いだが、彼女にはもう少し自重してもらえないものか。肝を冷やした俺は、
「ベアト様。きょうは晴れ舞台です。ご令嬢らしくなさってください」
「ああ、わかったわかった」
片手で追い払われる。まるでうるさいゴミ虫のような扱いだ。
「では、ネヴィル卿。引き続きご挨拶を賜ろうか」
ダドリー卿がアルの立席を促し、張りのある声をあげる。
政治家は総じて声が大きい。豆知識。
「承知いたしました」
ダドリー卿の言葉を受け、アルが彼と入れ替わった。マイクは持っていないが、卿同様スピーチのような格好になる。
「きょうはこのような場にお集り頂き、感謝の念に堪えません。ダドリー卿からのお言葉は、人生の先輩からの厳しくも温かい励ましと受け取りました。成人を迎えたからといって特別変わることなく、これまでどおり爵位に恥じぬよう精進してまいる所存です」
ガーデンパーティのときと負けず劣らず、嵐のような拍手が鳴り渡った。
通常なら、ここで晩餐の開始となるのだろう。
早く食事に手をつけたいと、そわそわしている賓客も見受けられる。
けれども俺は知っている。スピーチがここで終わらないことを。
「皆様。きょうはもうひとつ重要なお知らせがあります」
アルは視線をエミリー様に向ける。彼女が小さく反応したのが目に入った。
「本日誕生日を迎えるのは私とベアトだけではありません。もうひとりおられるのです。勿論、この賓客の皆様がたのなかに」
そこで言葉を区切り、アルはエミリー様に席を立つようジェスチャーで示した。
困惑した様子でエミリー様は立ち上がった。何が起きているのかわからないという顔。
「そこにおられるクラリック公のご令嬢、エミリー様こそがそのお人。彼女は慎ましくもきょうが誕生日であることを隠しておられたが、このような場に居合わせた以上、盛大に祝わねば我がネヴィル家の名折れです。どうぞエミリー嬢、こちらへ」
貴族の方々にその使用人の人びと、くわえて我がネヴィル家の使用人たちの視線が一斉に注がれ、それを全身に浴びながら、エミリー様がアルのもとへ歩いていった。
「なんですの、この騒ぎは」
エミリー様は困惑を通り過ぎ、混乱のきわみに達しているようだ。アルはそれを解きほぐすように微笑を浮かべた。真意を巧妙に押し隠す、仮面の微笑だ。
「エミリー嬢。きょうは我がネヴィル家からとびきりの誕生日プレゼントをご用意させて頂きました。ぜひお受け取りください」
そういってアルは後ろを振り返る。そこに控えていたのはカーソンだ。
カーソンは恭しく小さな箱を取り出し、アルに手渡す。
「エミリー嬢。こちらは我が家宝のひとつ、レッドダイヤのイヤリングです。きょうのお祝いの、これからの末永いお付き合いの印に、どうぞお納めください」
プレゼントの正体がわかると、着席した貴族たちからどよめきがわき起こった。
俺はその反応にワンテンポ遅れてしまうが、すぐにどよめきの理由に思い到った。それはよほど価値の高いダイヤなのだろう。金持ちのネヴィル家だからできる離れ業といったところか。アルの本気ぶりに俺は息をのんだ。
「まあ。わざわざプレゼントを用意してくださるなんて、気が利いているわね」
受け取る側のエミリー様もこの流れは読んでいなかったのだろう。明らかにまごつき、次のリアクションをとれずにいる。
カーソンの見立てによれば、自分の誕生日を知らせずに、ネヴィル家に恥をかかそうとしたご令嬢。そんな彼女にしてみれば、対応に迷うのも頷けた。
「お受け取りください」
アルは静かにゆっくりと圧力をかけていく。エミリー様は衆人環視のなか、もう逃げられないと悟ったのか、
「わかりましたわ。ヴィンセント」
「はい。お嬢様」
「私の代わりに受け取りなさい」
「御意」
壁際に座っていたエミリー様の執事がすたすたと歩み寄ってくる。
「それではお受け取りいたします」
礼儀作法の何たるかを解さない俺だが、わざわざ執事に受け取らせるとは。どんだけ気位が高いのかと呆れる。
「ヴィンセント、開けなさい」
エミリー様の指示で、彼女の執事が贈り物の木箱から小さな金属の箱を取り出す。
そのなかにダイヤが入っているのだろう。
「…………」
エミリー様の前で金属の箱の蓋が開けられた。その恭しい動作は、この場に集った賓客たちの関心を呼ばずにはおかなかった。会場のまなざしがヴィンセントの手に注がれる。
だからだろう。次の瞬間、賓客たちはあっと息をのんだ。
「お嬢様。何も入っておりません」
「入ってない?」
「はい。空でございます」
――金属の箱のなかには何もない。
そのことを知った賓客たちは、ざわざわと騒ぎ始めた。
「どうしたの?」
「空ってどういうことだ」
何よりプレゼントの送り主であるアルがたちまち血相を変えている。沈着冷静なアルがここまで動揺するのは珍しい。
「カーソン、これはどういうことだ」
声を張り上げて、箱を手渡した家令を叱責する。
「わかりません。何かの手違いかと」
「手違いで済むか」
俺は勿論のこと、屋敷の使用人はデシャンをのぞきこの場に揃っている。だからアルの動揺は使用人たちにも波及する。
「カーソン、ダイヤの準備をしたのは誰だ?」
「…………」
「答えられないのか」
「……紫音です。ですがアルバート様、彼女が入れ忘れたとは思えません」
「事実、ダイヤは消えている。憶測でものを言うな」
この場のどよめきをしずめるより前に、アルは犯人探しに突き進んでしまった。心情的には同意するけど、客観的には拙劣な対応と俺の目には映った。
しかし俺がそれを止めるより先に、アルは紫音のもとに向かってしまった。壁に寄り添い、給仕役を務めていた彼女は事情がのみ込めず唖然としている。
「紫音、ダイヤを入れ忘れたのか」
「いえ。シルクの布に包んでおきました。私はそれを渡し、箱のなかにしまったのはカーソンさんです」
「カーソン、まさかと思うが君が盗ったのか?」
「身に覚えがございません」
「だとすれば、なぜダイヤは紛失したんだ」
「私にもわかりません」
「…………」
らちがあかないとばかりにアルは押し黙った。
けれども一度嫌疑をかけてしまうと、人びとはその先入観から逃れられなくなる。騒ぎ立てていた賓客たちは我先に、
「あのメイドがやったらしいよ」
「家令のカーソンが怪しいって本当なのか」
「よりにもよって盗みとは」
おのおの勝手に独り合点していく。
紫音はそんな連中の視線に無防備にさらされていた。
(こんな状況で、俺にできることってなんだ……?)
座して見守っているだけの自分がもどかしかった。カーソンに任せれば、この騒動を見事に片付けてくれるように思ったが、同時にカーソン任せにする自分が恥ずかしくなった。俺は執事なのだ。だとすれば、もっと主体的に動かねばならない。
俺は考える。以前にも似た状況があったことを。
ウェルベック卿のタバコ入れだ。あれが盗まれたとき、俺は自分の無実を証明した。
同じことがこの場でもできるはずだ。紫音の嫌疑をはらすこと。
しかしこのタイミングで名乗りをあげて本当にいいのだろうか。紫音の嫌疑を晴らすことはできても、真犯人を捕まえ損ねる可能性はあった。俺はどちらを選ぶべきなのだろう。すぐに答えは出なかった。
そんなふうにして俺が逡巡していると、
「紳士淑女の皆様、私が解決いたしましょう」
壁際でひとりの男性が立ち上がった。その声に喧噪はぴたりとやむ。
「ヴィンセント!」
叫び声をあげたのはエミリー様だった。
「ネヴィル様――。私、クラリック公爵家の執事、ヴィンセント・キャンベルと申します。ひとまずそのメイドにかけられた嫌疑が真か否か、判定させて頂けないでしょうか」
「…………」
唐突な申し出にアルは黙り込んだままだ。
本当ならば、彼としてもカーソンを頼りたいのだろう。しかしカーソンはダイヤの入った箱に触れた事実がある。ゆえに潔白な第三者とはいえない。
その点、ヴィンセントはうってつけだ。ダイヤの箱とは無関係で、偏った捜査をするメリットが何ひとつないのだから。
斯くして覚悟を決めたようにアルは周囲を見回してこういった。
「この件は警察に届けず、私たちだけで解決します。晩餐の直前に申し訳ありませんが、少しのあいだ時間を賜りたい」
賓客も腹を空かせているだろうが、ホストのひと言に逆らうことはできなかった。
ただひとり、ダドリー卿が口を開いた。
「調べものは結構だが、手短に頼むよ」
「ええ。そのつもりです」
ダドリー卿の言葉を引き取ってアルがこちらに歩いてくる。一体何事かと思っていたら、俺の前でぴたりと立ち止まった。
「玲。カーソンに代わって君が捜査にくわわってくれ」
俺が名乗りを上げる前に、アルの命令が下ってきた。
「紫音の嫌疑を晴らす方向でよろしいでしょうか」
「いや。それだけでは足りない。真犯人か、ダイヤの在処を見つけ出すように」
真犯人を見つけろとは。きょうのアルは無茶ぶりが酷い。
けれども俺にとってこれはまたとないチャンスであるように思えた。
これまで二回、月と雪嗣との関係を深めたのは、いずれもふたりの窮地を救ったことに起因している。だとすれば、紫音のピンチを助けることで、彼女との関係に劇的な変化をもたらせると考えられはしないか。
元の世界に戻るには、仲間たちの記憶集めが鍵となる。
紫音を攻略するチャンスを前に、俺が尻込みする理由はなかった。
「承知いたしました、ご主人様」
俺は一礼して、ともに捜査するヴィンセントのところに歩み寄った。
「あなたの考える捜査手法を教えてください」
「指紋照合をする。ネヴィル卿とその家令以外の指紋が出れば、窃盗の可能性が確信へと変わるだろう?」
貴族の前でこそ慇懃な態度だったが、彼は急に軽薄な口調になった。
「指紋ですか」
ヴィンセントの狙いは奇しくも俺がイメージしていたやり口と同じだった。そのことが何を意味するのか、考えが及ばないほど俺は馬鹿ではなかった。




