記憶という鍵
翌日。この日は日曜日だった。
元の世界の習慣では休日になるところだが、こちらの世界のルールでは必ずしも休みになるわけではなかった。
早朝に起きて、ご主人様がた階上の住人のお世話をし、俺たちは彼らを含めた屋敷の住人と一緒にある場所へ赴くのだった。それはどこか。教会である。
「……これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」
牧師が読み上げたのはマタイによる福音書。あらゆることを思い悩む人間に対し、くよくよ悩むな、代わりに神様が心配してくださっている、という説教である。
まわりを見渡すと、この場に集まっているのは老若男女だ。屋敷のある町の住人がどっと押し寄せたような人いきれを感じる。俺は教会の礼拝など行ったこともなかったが、ほとんどがクリスチャンであろう町の住人、アルたち貴族、屋敷の使用人にとって、これがとても重要で神聖な営みであることが伝わってくる。
だから俺以下、高校生組の連中も、粛然たる態度で黙って牧師の説教に聞き入る。
やがて説教は終わり、全員で賛美歌を歌うことになった。こんな歌だ。
アメージング・グレース
何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる
道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる
神の恵みこそが 私の恐れる心を諭し
その恐れから心を解き放ち給う
信じる事を始めたその時の
神の恵みのなんと尊いことか
これまで数多くの危機や苦しみ、誘惑があったが
私を救い導きたもうたのは
他でもない神の恵みであった
主は私に約束された
主の御言葉は私の望みとなり
主は私の盾となり 私の一部となった
命の続く限り
そうだ この心と体が朽ち果て
そして限りある命が止むとき
私はベールに包まれ
喜びと安らぎの時を手に入れるのだ
やがて大地が雪のように解け
太陽が輝くのをやめても
私を召された主は
永遠に私のものだ
何万年経とうとも
太陽のように光り輝き
最初に歌い始めたとき以上に
神の恵みを歌い讃え続けることだろう
住人全員で歌い上げるため、荘厳な礼拝堂全体に賛美歌の声が響き渡る。
俺たちは歌詞を知らない。牧師が配った歌詞ノートに目を落とし、見よう見まねで合唱についていく。いくら休日を潰されたとはいえ、人びとが熱心にやっていることを軽んじてはならない。たどたどしい歌声だが、ここでは歌うことそのものに意味があるのだ。
ちなみに以前読んだ本によれば、ヴィクトリア王朝時代のイギリスでは、朝か夕の食事の際、主人が「家族の時間」という聖書を読み上げる儀式があり、使用人も総出でその説教をありがたく聞いたという。
そのような堅苦しい儀式に比べれば、教会の説教、賛美歌のほうが遙かにましだ。
少なくとも俺はそう感じ、厳かな時間を静かに過ごしたのだった。
そして教会からの帰り道、俺たちはばらばらに屋敷へ戻ることになった。
アルとカーソンはまだ牧師と話があるといって残り、使用人たちはそれぞれの仕事に戻るべく、特に集団行動といったものはとらなかった。このあたりは実にサバサバしている。
「玲さん、待ってください」
唯一、月だけが後ろから駆け寄ってきて、俺の隣に並んだ。
「なんだ、月」
俺はといえば、シンシア様の機嫌を損ねることなくきょう一日を過ごすために、急いで戻って仕事に取りかかりたかった。けれど彼女はこういったのだ。
「大事な話があるんです」
「話?」
「ええ。転移っていうんでしたっけ、私たちが前の世界から来たこと」
「ああ、そうだけど」
「そのせいで記憶を失うんでしたよね。私、紫音に確かめてみました」
「まじで?」
「ぼんやりとだけど、何かを忘れたのかもしれない。そういってました」
「紫音については俺にも考えがあるよ」
「どういうことですか?」
「あいつ、きのう母親がいないっていってたろ。でも俺、三者面談のとき、あいつの母親と挨拶したことがあるんだ。いくらなんでも嘘をついていたとは思えない。いくつかの情報を総合すると、あいつは母親のことを忘れているんだ」
「なるほど。それは説得力のある話です」
元の世界と転移。その話を忌憚なくできる相手は、アルが本性を見せてない以上、いまのところ俺にとって月だけだ。彼女にとっても俺だけだろう。だから俺に声をかけたのだ。世界の秘密を共有していくために。
「私、思うんです。みんなが記憶を取り戻したら、ひょっとしたら私たち、元の世界に戻れるんじゃないかって」
「記憶が鍵になってるってことか?」
「突拍子もない話ですけど、こうやって転移したこと自体がそもそも突拍子ないです。べつの世界へやってきた事実があるのなら、きっと元の世界に戻るすべもあるんじゃないかって思うんです」
全員の記憶を鍵に、元の世界への扉を開く。
月は突拍子もないといったが、俺には理屈が通った考えに思えた。
「つまりあれか、俺たちは紫音、雪嗣、アル、そして俺自身の失った記憶を取り戻させる算段をつけなきゃならないってわけか」
「そうです。私は記憶を自分で取り戻せましたが、それは玲さんという支えがあったからできたことだと思うんです。失った記憶はたぶん、本人にとってつらいものです。ひとりぼっちでいると頑なに否定してしまうような記憶です。だから玲さんをはじめとするみんなを、ひとりぼっちにさせちゃいけないんです。私たちが友達になってあげなきゃいけないんだと思います」
月の言い分はわかった。俺たちはぼっちに慣れすぎて、問題をひとりで抱え込む習性がある。そうしているままだと、記憶は戻らないといいたいのだろう。
「もし奴らの支えになるとして、最難関は雪嗣だな。きのうの態度見たろ。自分のほうが優れた使用人ですといわんばかりの顔を。あいつは俺のことを嫌っているか、少なくとも目障りに思っている。支えになるにしても、むこうから拒絶されそうだぞ」
「わかってますけど、そこは玲さんの人間力で」
「ふざけるな。そんなもんがあったらぼっちなんてやってない」
「すみません、冗談です」
ぺろりと舌を出す月。そのピンクがかった赤色にドキリとしてしまう。
ゆえに俺はみずから話題を変えた。
「紫音のほうはどうだ? 同じメイド同士、何か話し合ったりしてないのか? ハイテンションになっただけで、あいつは雪嗣よりとっつきやすいように思えるが」
「紫音さんとは相部屋になったので、けっこう話してますよ」
「どんな話だ? 記憶のこと以外に何かないのか」
「女子同士の秘密の会話です」
「勿体ぶらずに教えてくれ」
「仕方ないですね。玲さんのことですよ」
「俺の?」
「ええ。玲と仲が良いようだけど、どんな関係なの? って訊かれました。私は私で、あなたが他人のことを知りたがるなんて珍しいですねって返しておきましたけど」
おいおい、余計な詮索は勘弁してくれよ。
月と仲がいいのだって、トランザム家で共に苦難を乗り越えた仲だからだろう。
色恋の匂いがする話題だったので、俺は押し黙ってしまった。
「玲さん、顔が赤くなってますよ」
「うるせえ。ちょっと体温が上がっただけだ」
ぷいっと顔をそむける。我ながら子供っぽいが、他にやりようがない。
「俺はな、この世界の秘密も知りたいが、一方でシンシア様のご機嫌をよくすることのほうがいまは大事なんだよ。からかうなら余所でやってくれ」
「玲さん、きのうのこと、よっぽど気に病んでいるんですね」
「病みまくりだ。寝込む勢いだ」
「じゃあ、こうしてみませんか?」
隣を見やると、月が人差し指を立て、ふふふんといった顔つきをしている。
「きょう、シンシア様にいいところを見せればいんですよ」
「それができたら苦労してない」
「できますよ。これからお茶の時間でしょう? 玲さんはトランザム家でジョーンズさんに殴られながら紅茶の美味しい淹れ方を習得したじゃないですか。その腕前をアピールすればいいんですよ」
なるほど、紅茶か。それなら元々、俺の得意分野といえる。
「でもいいところを見せるためには、単に美味いだけでは物足りないと思う。何かこう、心に響くアピールをしないと、シンシア様は納得しないんじゃないか」
「そこで私の出番です」
「おまえが現れて何をする?」
「紫音から聞きだすんです、シンシア様の紅茶の好みを。それを玲さんがやってのければ、この下僕ただものじゃないわ! といって感服すること請け合いです」
得意な紅茶に一工夫加えるということか。
最初はからかっているのかと思っていた月だが、実はちゃんと俺の窮地を救うことを考えていてくれてたのだ。勘違いもいいところである。
「頼む、月。紫音からこっそり聞きだしてくれ。あとで屋敷で落ちあおう。女性使用人のフロアに通じる階段のところでいいか?」
「わかりました。このルナ・ハートフィールドにお任せください」
みずからの英語名を並べ立て、月が薄っぺらい胸をどんと叩く。
「ありがとう」
俺は小さく礼をいった。
世界の秘密を解き明かす前に、いまはシンシア様の攻略が先だ。
そう。これは攻略なのだ。彼女の心を射止めること。俺ひとりでは無理でも、月という支えによってそれが可能となる。もしかすると、俺自身の記憶を取り戻すことさえも。
「どうしたんですか、玲さん?」
「いや、何でもない」
月の可憐な笑顔を見やりながら、以前のようなぼっちではない自分を俺は不思議な思いをもって感じ取っていた。




