記憶の代償(一)
『ね~ぇ、おとうさん。おかあさん』
『あら、なあに? エリカ』
『あのね、あのね、』
記憶の中の私は“両親”の元に駆け寄って、屈んで迎え入れてくれた彼らに何かを耳打ちしようと精一杯の背伸びをする。
『エリカね、』
でも、私は何を伝えようとしていたのか。彼らが浮かべていたはずの笑顔がどのようなものだったのか。どんなふうにそんな彼らへと手を伸ばしていたのか。
今の私にはもう分からない。
朝。
昔、“私”が暮らしていたはずの王城とは似ても似つかないボロ家で目を覚ました私は、小鳥のさえずりと共に小さく食器がぶつかる音がしたのを聞いた。
「じゃあ、今日は遅くなるから」
「今日も、でしょう?」
「まあ、今日こそ大金稼いでくるからさ」
「そう。いいわよ。どうせ私も遅いわ」
「……ふーん?」
次いで聞こえてきたのは“父”と“母”のそんな会話と、玄関扉の閉められる音。
ああ、今日もまた“父”は賭け事に行くのか。どうせ勝ちはしないだろうに。この間も借金を増やしたばっかりなのに、どこにまだお金を持っているんだろうか。
そんなことを思いながらむくりと起き上がると、10歳の小さな体でさえも狭く感じるような、一間しかないボロ屋だということもあって目の前にあるのはもう食卓で、ちょうど“母”が椅子から立ち上がって食べ終わった食器を下げるところだった。
母が去ったテーブルの上には、きっと冷め切っているのだろう朝食が載った皿が一皿だけ、ぽつんと残されている。
「……おはよう、お母さん」
私はその後ろ姿にそっと、そう声をかけた。
つい、声に混じってしまったのは、僅かな緊張。
「……おはよう」
私の声に反応して、首だけまわしこちらを振り返った母はぎこちない微笑みを形だけ浮かべて、そしてまたすぐに視線を逸らして顔を歪める。
立ち上がった私は静かにダイニングの自分の席に着いて、残されていた朝食のお皿と向かい合った。
“起こしてくれれば一緒に食べることができたのに”
そんなことは、たとえ思ったとしても口に出しはしない。
この人は、私と食事を共にするのをとても嫌う。それを知っているから。
私の分の食事を作ってくれているだけで有難いのだ。
私も。例え、私が早起きをして朝食を作った日であっても、彼女にも、そして父にもわざわざ声をかけたりなどしない。
余計な接触や干渉などしない。
それが今から6年ほど前に定められたこの家の、私と両親の暗黙のルール。
だから、出来る限り関わったりしない。
だけど、
「ねえ」
私は、いちおう言っておくべきことがあって朝食を見つめたままこの日は珍しく自ら、今度は鏡台に向って化粧を施し始めた母に声をかけた。
「昨日、ドロテアさんがうちに来たのよ。お金、取りに来たって」
「そう。……で?」
「ゴミ拾いの仕事のお給料貰っていたから。だからそれで払っておいたわ」
「ふーん。流石、しっかりしてるのね」
「……」
私を見ることもなく返される短い返事。
そこに含まれるのは、確かな皮肉。
「……ドロテアさんのお店で、また服をたくさん買ったのね」
「ええ」
どうせ、それも袖なんて通しはしないのに。
いつからか、部屋の隅に大量にかけられるようになった服と、高く高く積み重ねられた帽子の箱。
それはこの狭い家を確実に圧迫している。
どれも、手を付けられぬのままに。
服も、帽子も、アクセサリーも。
この母は身の丈に合わないような豪華なそれらを欲しがって、うちの家計のことなんかお構いなしに無理をしてでも買い漁る。
けれど、手に入れてしまえばもうそれきり。それらへの執着をなくして、あっさりと他の物へと興味を移し、そしてまた別の物を欲しがる。
母が欲しいのは、きっと一時的な欲の満たされる満足感。
だから、そこに積まれている箱の中に何が入っているのかも、母は何も把握していない。
それなのに、
「ねえ、着ないものは売ってしまってもいい? もう置き場所がないわ」
もう要らないかと思ってそう尋ねると、化粧を終え立ち上がった母は「勝手なことはしないで」と私をきっと睨み付け、冷たく言い放ってから視線を逸らし、素っ気なく傍らをスッと通り家から出て行ってしまった。
相も変わらずな母のその態度に、思わず苦笑が漏れてしまう。
「……いただきます」
私は、誰もいなくなってしんと静まり返った家の中で、一人そう呟いて漸くフォークを手に取った。
口に入れた炒り卵の冷たさは、両親と、私の関係そのものだ。
“ティア”であった頃の家族との関係とはまるで違う。
誠実な父上に、明朗な母上、そして、穏やかで優しい兄上に囲まれて。
常に満たされていた私の生活は一変し、ここではまるで互いが腫物に触るよう。
でも、仕方ない。
こうしてしまったのは。全てを壊してしまったのは私自身なのだから。
『貴方たち、誰?』『ねえ、なんで私は“エリカ”になっているの? 父上は? 兄上はどこ?』
『何を、言ってるんだ? 君は最初から僕らの娘の“エリカ”だろう……??』
3,4歳の頃。徐々に蘇ってきた前世の記憶。
最初は夢なのだと思っていたその記憶が鮮明になっていくにつれ、幼い“エリカ”は混乱した。
受け入れていなかったティアの死と新しい自分。日に日にその境界が分からなくなって、全てを上手く呑みこむまで、エリカとしてまだ始まったばかりだった脆弱な自我はティアの強烈な記憶に乗っ取られた。
『お願い!! 私を帰して。元に戻して……っ』
『やめて! これ以上、変なことを言わないで! 悪魔が!! 私のエリカに悪魔が憑りついたんだわ!! 誰か早く何とかしてっ!!!!!』
あの時の両親の困惑と、耳をつんざく悲鳴のような怒声が、今でも心の奥に響き渡る。
それ以来、私と二人の関係は家族でありながら他人のようでとても歪だ。
黙々と朝食を食べ終えた私は、簡単な片付けと身支度をして、最後に家から出た。
今日も大通りのゴミ拾いと子守りの仕事が私を待っている。
ゆっくりしている暇なんてない。勿論、一部のお金持ちの子たちが通っている学校に行けるような時間もお金も。
かつて私に付いていたような家庭教師なんて夢のまた夢。
まあ、今更子どもたちと一緒にお勉強なんてやってらんないから別にいいけど。
日々借金を増やしてくる両親はあてにならないし頼れるわけなんてないから、ちゃんと自分の身は自分で立てなければならない。
いつもより家を出る時間が遅くなったせいかちょっと時間がなくて急いで歩を進める。
すると、前方から、小さな女の子が両親らしき二人と手をつないでキャッキャと楽しげな声を上げて歩いてくる姿が目に映った。
仲がよさそうな親子。
私は、そっと瞳を伏せてその親子とすれ違うまでをやり過ごす。
この記憶が要らなかったとは思わない。
思い出せて嬉しかった。もう二度と会えなくても大事な、かけがえのない人々と過ごした日々の記憶がいつも私の心の片隅にあるから。
そのために、あったはずの幸せをこの手で自ら振り払って、あの人たちの“エリカ”を奪ってしまったのだとしても。
だから、これはこの記憶の代償だから、
「大丈夫。寂しくなんて、ないわ」
独りぼっちだって、もう、誰からも必要とされていなくても、私は。
かつてとは違って、沢山の人々が行きかう大通りを私は誰にとがめられることもなく、慣れた足取りで一人で進んでいく。
そんなとき、すれ違いざまにおば様方の立ち話が私の耳にふと入って来た。“国王様の婚約が正式に決まったらしい”と。
知らず、足を止めて相手が誰でどうだというその話にぼんやりと耳を傾けながら、私は振り返って、遠くに見える王城に視線を向けた。
朝日に、白くキラキラと輝く王城は堂々と、そこに聳え立つ。
別に興味もないから、新しく即位したという今の国王様がどんな人なのかさえ私は知らない。
だけど、レストアの王城にアブレンのそれを重ね合わせて私は思った。
ああ、あそこには――。
温かな愛情と、豊かな生活。何もかもが詰まっているのだろうか。
私が失ったキラキラと輝くような幸せが、あそこにも満ちているのだろうか、と。
そう思うと羨ましくて、先程見た親子の姿と同じくらいに私の胸は締め付けられて、我に返った私は慌ててその視線を外した。
それでもいいのだ。
何もなくても。
いつ崩れてしまうか分からないようなあの張りぼてのような家族でも、エリカにとっては唯一で、大切なものだから。
どうか、これ以上壊して失くしてしまわないようにと、全ての元凶が私の心の在り方そのものだと分かっていながらも願っていた。
父と母が私一人を残して、突然どこかに消えてしまったのはそれから2年後のことだった。




