六九、予兆
「陛下?」
場所を移動する際中、伝え忘れていたことがあったからと、先ほどまで彼女と二人でいた場所まで戻っていった王をやはりと追いかけたギードは、何故かその手前で立ち止まり佇んでいる彼の後ろ姿へと声をかけた。
どうか、されたのだろうか。
じっと、先ほどまでいた場所を王はただ見つめていて、ギードへの返事はない。何かあるのかと不思議に思ってギードがその視線を追うと、そこには静かに空を見上げる彼女が見えた。
彼女は、数か月前、どういう手段を使ってか監視の目をかいくぐりこの侵入不可能なはずの城内に現れた。自分はティア王女の生まれ変わりなのだと主張して。
ティア王女。
その王女の名を、ギードも何度か耳にしたことがあった。
ヘリクス王の、亡くなった妹君でありかつてこのアブレンを侵略しようとした国の手によって殺されてしまった姫君だ。
その、他国の裏切りによって引き起こされた死については現在、この国においても詳しく語られることはない。古い話でもあるし、事情を知るであろう年嵩の人々は誰もが、暗い顔で口を閉ざすから。だから、その辺についてはギードもよく知らなかった。
ただ、男児の生まれやすい王家の血筋において、数代ぶりの王女であるその姫君が誕生した際は、国中が沸き立ち大いに祝福されたこと。とても美しい王女であり、民からも、そして両親である先代の王、王妃、そして今目の前にいる王からとても愛されていたことだけをなんとなく聞き覚えていただけ。
そんな存在であったはずなのに。
生まれ変わり。
そんな、非現実的な話などあるわけがないと思っていた。そういった思想を今まで信じたことなどなかった。
王が、妹として彼女を城で保護するのだと決めた際も、何の戯れかと思ったほどだったのだ。おそらく、ただの気まぐれだろうと。王の様子からも実際、そうであったはずなのだ。
だからずっと、不審な彼女のことを観察していた。
しかし。
先日、彼女の願いということもあり、ギードの父であるフォンシェをこの王城に呼び、引き合わせた時、彼女と話をしていた父は泣いていた。『姫様っ……』と言葉を詰まらせて。
歳をとって涙もろくなっている。元からお人よしで騙されやすいところのある父親だ。
しかし、王と父と彼女と。3人でなされる会話は、ギードには到底分からぬ思い出話ばかりで、身の程知らずにも、その時ギードが感じたのは疎外感だった。
そして、父の顔の傷跡を指先でなぞった彼女は、心底安心したように笑っていた。
これはなんだろう? 胸に抱いた違和感に首を傾げ、それでも、まさかと思っていた。
それなのに、その数日後。珍しくギードに声をかけてきた彼女からされたのは“マルコとエミリオがあの後どうなったのか、私の死んだあとのことを教えてほしいの”という依頼だった。
マルコとエミリオ。その二人が誰なのかギードには分からなかった。ただ、彼女の存在とその事件の真実に興味を持ったこともあり、ある条件と引き換えにそれを詳しく調べて後日報告することを約束した。
詳しく調べてみると、なんてことはない。
マルコとは馬丁の名で、エミリオに至ってはただの馬だった。
馬丁と馬。
確かに、両者とも王家にとってはなくてはならない存在ではあるけれど、それでも、基本的に誰も気にも留めないような存在だ。
しかし、だからこそ。何故事件自体のことではなく、その後の、しかもそんなことを知りたがるのか。気にするのか。
それは、きっと、……本当に彼女がティア王女であるから。
そうなのではないかとしか、いつの間にか考えられなくなっている自分がいた。
彼女の言うことを、彼女自身を信じたくなっていた。
そして、きっと今目の前で、何かを想うように彼女を見つめる王もまた。
ただ淡々と明るい表情など見せず、冷酷に、他国への侵略と処刑を繰り返しながら国を統べてきた王が、ここ最近徐々に穏やかな表情を見せるようになってきた。
絶対に、どうやっても溶けることのないと思っていた彼の纏う氷のような冷たさと、孤独が。
王のことを冷たく恐ろしいと、皆は表情を強張らせるけれど。それでも民も、城の者も、ギードも知っているのだ。本当に彼が纏っているのは冷たさではない。王はこの国を誰よりも愛し、そして、だからこそ誰よりも深い悲しみを抱えているということを。
ギードがこうして王のそばに仕えることになる前、父であるフォンシェもギードによく言っていた。
王は、かわいそうな方なのだと。抱えきれぬほどの大きな傷を負って、すっかり変わってしまったけれど、本来はとても温厚な人柄であられたのだと。だから、あの姿が彼の全てではないのだと。
けれど、知りながらも、誰もどんな手立てを打つことも出来ずに、ただ彼に従うしかなかった。
それが、悲しみの連鎖を生むことになるのだと分かっていながらも。寄り添う代わりにそうするしか出来なかったのだ。
しかし、――。
先ほど手渡した、王の手の中にある紙の束へとギードは視線を向ける。
なにも起こらなければいい。
このまま穏やかに過ぎていけばいい。彼女が本当にティア王女の生まれ変わりで、ここに、王の為に在ってくれるのなら、きっと王の悲しみは消え、この国は、良い方向に変わることが出来る。
以前、そうだったと言われるように、他者を傷つける戦などをしない、平和を愛する国に戻れるかもしれない。王が、再びそんな世を望んでくれるかもしれない。
だが、
「雪、か……」
目の前の王から小さく呟く声が発せられてギードはハッと現実に引き戻され、王の顔を見た。
何を想っているのか、彼もまた彼女と同じように空を見上げている。
生まれてから、これまでに見たこともないほどに空から舞い落ちてくる白い雪。
レストアには多く降るというそれは美しく、こちらの残った僅かな体温までをも奪ってゆく。冷たく、ゆっくりと。
それを少し怖く思いながらも、幻想のようなその姿に魅せられる。
「彼女は、レストアの王の側妃だそうです」
知りえた情報を伝えぬわけにはいかない。そう考えて、聞いているかも分からない目の前の王に告げる。
静かに振り向く王がギードをじっと見る。その内容に、微かに眉が顰められたのが分かった。
「彼女に教えて頂きました。それを元に調査した資料がそちらの中に……。現在、かの王には側妃が一人あるのみで、その側妃は半年以上前に療養の為という名目で城を出ています。恐らく、偽りはないのではないかと……。今の名はエリカ様と仰るそうです」
あの、ティア王女の死後のことを調べるように頼まれた際に、交換条件として訊き出したことだ。
とはいえ、彼女は隠しなどせず、吃驚するくらいあっけらかんと教えてくれたが。
『だって、もう私がレストアの人間で、陛下に近しい存在だってバレているんだもの。今更、隠すようなことは何もないわ。ただ、さっきの頼み事と同様に、時期が来るまでこのことも兄上には秘密ね』
その約束は残念ながらこの国の者として守ることができなかったが。
「そうか……」
王は、ぶら下げていた手を胸元まで持ち上げて、持っていた紙の束に視線をやる。
そして、もう片方の手でその一番上に重ねていた一通の封書に触れた。
「それで、こっちが問題の書状か」
「はい。今朝、レストアより送りつけられました。いつものようにそのまま受け取らないようにもできたのですが、彼女のこともありますから……」
普段ならば、受け取らず送り返せという指示がでている。それほどまでに、この王が他国と交流することを嫌っているのを知っている。
それでも、と迷いながらも受け取った。
王は、そのことに対して何も言わずに、封を破り中の書状を取り出して広げる。そして険しい表情をしたままにそれに目を通し、閉じた。
「まるで当て付けだな。まさかこう来るとは」
読み終えたその内容に、静かな、そして皮肉気な感想を零し、王は手の中の書類に落ちる雪をもう片方の手で軽く払って再びそれが落ちてくる空を見上げた。
「……私には、雪の温かさなど分からない。知りたいとも、思わない」
呟くようなそれは、なんのことなのか。ギードには意味の分からぬ言葉だけれど。
王はそのまま冷たい雪を浴びるように静かに目を閉じる。
吐く息が白い。そんな凍えるような、痛みさえも感じさせる寒さの中、ギードはただ傍で王を見守っていた。
どのくらいそうしていたのか。
漸く王が、ギードに視線を戻す。
「ギード」
「……はい」
「動こうと思う」
告げる、王の表情に。
その意味を理解しながら、本当にこの舞い落ちてくる雪に温もりというものがあるというのならと。
王に残る僅かな体温までを奪わないでほしいと。
確かな崩壊の音を聞きながら、ギードはただ、そう願った。




