五九、別れの後
小さな嘶きと共に、御者の指示を受けてゆっくりと進みだした馬車が裏門を通過しかけたころ、その姿が遠くへ消えゆくより早くジェルベは踵を返し城内へと戻るためにその足を踏み出した。
「おや、最後まで見送らずともよろしいのですか?」
そんな不思議そうな声を上げて後を追ってくるアルフレッドにジェルベは「ああ」と短く答え立ち止まり、彼が傍まで追いつくのを待ってから再びその歩みを再開させる。
「……私を恨んでます?」
城の中をしばらく歩いたところで、斜め後ろからかけられた窺うような問いかけに、ジェルベは振り返り複雑そうに微笑むアルフレッドのその表情を見てもう一度その足を止めた。
「それがエリカとその一連のことを指しているのなら別に俺はお前を恨んでなどいない」
嘘ではない想いを瞳を軽く伏せながら静かに口にすれば、アルフレッドがきょとんと目を瞠ってジェルベを凝視する。そして、まるでそれが信じられず納得いかないとでも言うように眉間を寄せた。
「……随分と、物分かりがよろしいですね。エリカ嬢が貴方のために犠牲になろうとするよう、私が仕向けていたことに気が付かれていないわけではないでしょうに」
疑わしげに発されたアルフレッドの言葉にジェルベはやはりか、とただそう思う。
「その為に、エリカと俺を近づけるような真似をしていたか」
「ええ。そして」
「エリカがアブレンとのことをどんなふうに考えるか、どんな手段を選ぶのか見越して利用した、だろう?」
言葉を引き取り、それを質せばアルフレッドは特に誤魔化すこともなく口元に笑みを浮かべてすんなり「ご名答です」と頷いた。
そんなものが当たったところで何も嬉しくなどないというのに。それに、この男は何をどこまで操ったというのか。そんな不信感を抱いたことに気が付いたのだろう。
「とは申しましても私は彼女の想いを知り使えるなと、そう思って煽り、後押しをしていただけです。彼女の貴方への想いそのものは私が作り上げたものではありませんのでそれだけは彼女の為にも信じてくださいね」
誤解をしないようにと付け加えられた言葉にジェルベはほんの少しの安堵と、苦味を覚える。
今更であるし、すでに納得済みのことでもある。
だが、
もしも自分がアルフレッドよりも早く正解にたどり着けたのならこのような形でエリカを手放すのを防ぐことができたのだろうかと思わずにはいられない。
あの日、ランベールがエリカの正体を暴いたとき、あまりにも非現実的なそれに何を言っているのかと混乱しなかったと言えば嘘になる。けれどそれ以上に、そういうことだったのかと納得する心の方が大きかった。邪魔をしていた常識という名の固定観念さえ取り払ってしまえば、それまで何度試みても、どうしても嵌めることの出来なかったエリカの落とした欠片が見事合わさり、それこそが真実だったのだとジェルベに示し、否定することをさせなかったのだ。
何故、もっと早くそれに気が付くことが出来なかったのか。ヒントは充分にあったはずなのに“もし”という可能性に気づくことが出来なかったのか。
そうして自分が苦戦している間に、アルフレッドは動いていたというのに。
それが悔しくてならない。
エリカを手放したくなどなかった。危険な道を行かせて、もしかすると失ってしまう可能性など作りたくなかった。
アルフレッドのことを恨んでいるわけではない。これがエリカを害することを目的としているのではなく、この国のためにであるというのは分かっているから。アルフレッドがエリカのこのアブレン行きに何らかの必要性を見出していて、それがほんの僅かでも国の平和に繋がる可能性があると判断しているのならば、王として己の想いよりもそちらを優先するのは当然のことだ。
ただ、
「なあ、アルフレッド。お前は何が目的でエリカをアブレンにやった? さっきエリカに何を吹き込んだ?」
ただ、それが何故なのか。アルフレッドが何を思ってエリカをアブレンにやることを考えたのかその理由と目的が分からず、どうしても釈然としない。
エリカの前世であったという人間と、エリカは全くの別人のはずだ。そんな人間をアブレンに遣り、下手をして相手を刺激すれば一気に状況は悪化する。いつも慎重に事を進めたがるアルフレッドからすれば有り得ないことだ。
一体、何が狙いだと言うのか。
それを訊ねれば、アルフレッドはしばし考えるように口を引き結び、そしてフッと笑って海色の瞳を伏せながら首を左右に振る。
「今はまだ言いませんよ。言ってしまえば、貴方はきっと彼女を引き留めに行ってしまうから」
もったいぶるようなその言葉にジェルベは小さく溜息を吐き出す。アルフレッドがそれを明かしはしないのは予想通りではあった。でなければ、わざわざこちらの耳に入れないようにする理由もないのだから。だがこの言葉からするに、それが真っ当ななものではないらしいことだけは分かる。
「よろしいのですか?」
含みを持った物言いをしたにもかかわらず、ため息を吐いたきり特に大きな反応を見せないジェルベを訝しんだのか、確認するようにアルフレッドが問いかけてきた。良いわけではない。引き留められるのならそうしたい。しかし、
「さっき、お前が言っただろう? お前はエリカの後押しをしただけだと。お前が何をしていたにしろ、結局このこと自体はあれ自身が考えて決めたことなら俺が引き留めに行ったところでどうせエリカは大人しく頷かない」
そもそもそれが不可能なことはあの日、エリカが自分の説得を聞かなかった時点でも充分理解している。そして、ジェルベもまたその許可を与えた時点で覚悟をしたのだ。それが、どのような危険性を孕んでいたとしても今更覆す気はない。
だから、もう観念するしかないのだ。そしていつまでもぐずぐずとその場に留まらず、前に進まなければ。
望む未来を手にする、その為にも。だからきっと、
「それにこれはただの通過点に過ぎない。そうだろう?」
同意を求めるために問えば、けれどアルフレッドは瞳を見開いて固まり、そして次の瞬間可笑しそうにクスクスと笑いだす。なんだか馬鹿にされているような気がしてジェルベが苛立ち「なんだ」と睨みつけると、アルフレッドは「いいえ。本当に強くなられたなと思っただけです。そうですね。私もそう信じます」とやっぱり笑いながら言った。
なんだかバツが悪くてジェルベはそのまま、そんなアルフレッドを置いて止めていた足を動かしもう一度目的地に向かって歩き出す。
「それにしても、落第点だったわけでなければ良いのですが」
笑いを収め後ろからついてきたアルフレッドが、何を思ったのか一転してため息交じりに漏らしたそんな言葉に、ジェルベはそれが何を指しているのか分からず、進める足はそのままに彼へと振り返ることでそれを問う。すると、その視線に気が付いたらしいアルフレッドは「さきほどの正妃の件ですよ」と何やら考えこむような顔でそれに答えた。
「貴方が彼女を正妃にと望まれるのなら私も反対はしません。出来るだけの手は尽くして差し上げたいとも思います。ですが、実際のところ身分のことなどかなり厳しい問題ですし、それ以上に……」
「何だ?」
「貴方も先日の話からお察しとは思いますが、父とエリカ嬢、当時はティア姫ですが二人の婚約を、という話は元々アブレンの前国王よりもたらされたものだったそうです。アブレンという後ろ盾に、ご覧になったでしょう? あの美貌です。アブレン国内外を問わず、彼女を欲した人間は山ほどいたはずなのに、それを選ばず、あえて父に声をかけた要因。それが外交の利と、将来娘を王妃にする必要のない第二王子という身分だったと父は言っていたんです」
「つまり何が言いたい」
その前世の父親が望んでいなかった身分にエリカを就かせるのは憚られるとでも言いたいのか、なんなのか。回りくどい言い方に苛立ちを感じてジェルベが問うと、アルフレッドは難しい顔をして口元に指を添える。
「父はそれを娘可愛さに苦労をさせたくなかったからだと言っていましたが、単に彼女の王妃としての資質に落第点をつけられていただけだとすると、と思いまして。貴方だってお母君のことでよくご存知でしょう? 側妃と違って王妃はただ国王に寄り添っていればいいわけではありません。彼女に務まるでしょうか」
ああ、そういうことかと納得してジェルベもそれに考えを巡らす。
「……鹿狩りのときに、政治論で貴族たちを言い負かすくらいの知識はあった。多少国や時代に対応していなくて完璧ではなかったんだが、今思えばそれは前世とやらで学んだことだったんだろうし、あれだけ理解しているなら王妃教育はそれなりにされているはずだ。ただ問題は……」
知識など後からどうとでもなるものだ。それよりも問題なのは、とジェルベは額に手を添えて大きくため息を吐き出すと察したようにアルフレッドが続ける。
「性格、ですね」
「ああ。前アブレン国王が憂慮していた点があったとすれば間違いなくあの短慮さだろうな。王族として生きていたのならある程度は、と思うが」
「それでも一、姫君と王妃とではその役割も違ってきますしどうでしょうね」
「そうだな」
「それでも、貴方は彼女を正妃にと望まれますか?」
確認するような、そのアルフレッドの問いかけにジェルベは「ああ」と頷く。
側妃のままの方がエリカにとっては楽だろう。しかし、それでも軽んじられ、いつ不測の事態によって二番手三番手に落とされるかもしれない不安定な側妃という立場にこのまま置いておくつもりはない。隣に、唯一の妃として置いておきたい。
「では、エリカ嬢が帰っていらしたら色々と頑張っていただきませんと」
ジェルベの意を汲んで何を企んでいるのか意地悪く微笑むアルフレッドにジェルベは嫌なものを感じつつも、けれど、と思う。
「とは言え、まずはアブレンとのことを何とかしないとな」
でなければ、その前にこの国を滅ぼされたりなどしたら元も子もない。
そんな未来は夢と消えてしまう。
だからその為にも、エリカの無事を祈りつつも、自分は自分のすべきことをやる必要があるはずだ。
目的の場所であった会議の間の前たどり着いたジェルベがそこで足を止めると部屋を護っていた護衛たちが心得たように扉に歩み寄り手をかける。アルフレッドを従え両側に開かれたその扉の奥へと足を踏み入れると、集めていた大臣・貴族たちが一斉に立ち上がりジェルベに頭を下げた。その中を進み、席に着いてしっかりと前を見据え宣言する。
「それでは、始めよう」
この国を守るために出来得ること全てを今、この場から。




