四九、伝言
「わたくしは席を外させていただきますわ。隣の控えの間におりますので御用があればお呼びくださいね」
そう言って部屋を出て行ったマリアを見送り、しばらく待っていると、オルスがシーラ様を連れて戻ってきた。
まだ、彼女が私に行ったことは伏せられているらしく、そのためなのか陛下はここにシーラ様を連れてくるときに人目につかないようにとオルスに命じていたし、それでも万が一、人目に触れた時を考えてかシーラ様は特に縛られたりなどもしていない。
温室で見た時のままの姿をした彼女がそこにはいた。
特に取り乱すこともなく落ち着いた様子で部屋に足を踏み入れた彼女は、ベッドに入ったままクッションに上半身を預ける私を見て柔らかな微笑みをその顔に浮かべる。
「お目覚めに、なられたのですね」
「……ええ」
何故、そんなホッと安心したような顔をするのだろうか?
陛下たちの前だから?
彼女の真意がよく分からなくて、なんと答えるべきか迷いながらもとりあえずそう頷くと彼女はその場から私の方へとゆっくり歩を進めようとした。
けれど、
「寄るな」
その彼女の動きは陛下の警戒したような声と、オルスの手によって止められて、シーラ様は困ったように小さく首を傾げながら苦く笑って見せる。
「心配されずとももうわたしはなにもいたしませんわ。ご安心ください」
彼女はそう言うけれど、そんなこと、やすやすと信用なんかできるはずがない。
横を見れば、私のベッドに腰掛けている陛下だって険しい表情を緩めずにシーラ様を睨み付けていて。
けれど、私はなんだかその光景に違和感を感じて一人首を傾げた。
確かに、そんなに簡単に彼女を信用してもらっては嫌だけれど、なんだろう、これ。
睨む陛下に、怯えた様子もなくそれをゆったりと受け止めるシーラ様。
その二人の醸し出す雰囲気は何かがおかしい。
とても不可解だ。
だって、シーラ様は、今まで女性を寄せ付けなかった陛下が拒むことなくお城に招き入れた人であるはずなのに。そこにいくらアリス様の影がチラつこうとも、彼女はお妃さまとなるのではと言われている人なのに。
今のこの状況に二人の困惑が一切見えない。
そして、二人の間に噂や私が警戒していたような親密さがひとかけらも感じられない気がするのは何故なのだろうか。
室内に、張りつめた沈黙が降りる。
その沈黙を破ったのは陛下の隣に立つアルフレッドの穏やかな、けれど冷やかな問いかけ。
「とりあえず、貴女には何故こんなことをしたのかお話ししていただきましょうか。シーラ・エヴァンズ?」
にっこりと笑いかけるアルフレッドに、けれど、シーラ様も微笑みを返すだけで何も答える気配がない。
そんなシーラ様に焦れたように、まるで彼女に確認するように言葉を発したのは陛下。
「エリカがいるとアリスが悲しむから、だからアリスの味方であるお前がエリカを始末しようとしたか?」
静かで、少し強張った声。
なんでここでアリス様の名前が出てくるの?
たしかに、アリス様にとっては偽物だとしても側妃である私の存在は嫌なものかもしれない。でも、なぜそれをシーラ様が阻む必要があるというのだろう。
シーラ様がアリス様の味方とはどういうことだろうか?
陛下の言っているこのとの意味が分からない。
けれど、その意味を考えた時にそういえば、と以前シーラ様と言葉を交わした日のことを思い出した。
あの、人形らしきものを手にしたシーラ様がそれを握りしめながら、確かに「アリス」とその名を口にしていた。
これはやはりアリス様とシーラ様には何か繋がりがある、ということなのだろうか?
でも、それは?
シーラ様は陛下の問いかけに、何かを感じ取ったようにその口元に弧を描いたまま空色の瞳を伏せる。
「調べられたんですね。私たちのこと……」
「ああ」
「どこまでご存じで?」
「お前がアリスの双子の片割れだということまでだ」
「よく、お分かりになりましたね」
陛下の言葉に穏やかな顔で頷いて見せたシーラさまの斜め後ろで、オルスが荒々しく頭を掻きむしる。
「って、本当に当たりかよ!」
まるで、信じたくなかった事実を聞かされたように。けれど、思いっきり瞳を見開いて驚く私とは違い、オルスに混乱の色が薄いのはもしかしたら事前に、お医者様が来て陛下と部屋の外に出た時にでもそのことを陛下から聞いていたのかもしれない。
でも私はそんなこと知らない。鏡に映したようにそっくりだと言う人もいたけれど、それでも今まで一度だって双子だなんて噂でだって聞いたことがないのに。
「ねえ、それってどういうことなの?」
私はそうすべきではない、話に口を挟んではいけないと思いつつも、それでも耐え切れずに誰にともなくそう問いかけた。
だって、訳が分からない。
シーラ様がそんな私に柔らかな微笑みを浮かべて答えてくれた。
「そのままの意味です。わたしとアリスは双子なのです。もっとも、生まれた時にわたしは父であるギルバート・エヴァンズによってその存在を隠されたのですけれど」
隠された?
「なんで?」
隠されたとはどういうことだろう。
何故、そんな事をされたのだろう。
けれど、それには訳知り顔のアルフレッドがまるで私の問いかけに答えるというより、確認するようにシーラ様へと言葉をかける。
「この国において、双子の女性は王妃となる資格がないから、でしょうね。だから、エヴァンズ候は貴女を寺院へと預けて隠した」
「その通りです。なんとしても自分の娘を王妃にと望んでいた父にとって、わたしたちが双子として生まれたことは不都合以外の何物でもありませんでしたから」
「なんで? なんで双子だと不都合があるの? なんで王妃になれないの?」
首を傾げる私に、アルフレッドはその理由を詳しく語った。
「迷信にも似た、遠い昔の話によるものです。双子の片割れであった王妃が自身と同じように双子の王子を生んだ。けれど、どちらも優劣をつけがたいその王子たちは互いに王位継承権を争い、そして一時期国が分裂する内紛にまで発展してしまった。だから、二度と同じようなことを繰り返さぬために、それを避けるために双子である女性は王妃にしてはならない。そんな決まりがこの国にはあるのです」
「え、って、そんなのおかしいわ。双子じゃなくても双子を生む人は沢山いるのに」
「まあ、それはそうなのですがね」
アルフレッドが苦く笑う。
それがおかしいと分かってはいても、昔から国に決められ、すでに習わしとなっていることを覆すわけにはいかない、ということか。
「でも、何故エヴァンズ候は貴女を寺院になど入れたのでしょう。言い方は悪いですが、手っ取り早く貴女を亡き者にしたほうが露見することもなく安全なはずですのに」
「ええ。父も、きっとそう考えなかったはずはないと思います。しかしそれ以上に父はわたしにも利用価値を見出しましたから」
「利用価値?」
「はい。もし、アリスに何かがあった場合、わたしをその身代わりとしてすり替えることができるのではないか、と。わたしにアリスの代役をさせる。その為に、父の監視の下、わたしは殺されることも捨てられることもなく幽閉されたのです」
『やはり予備と言うものは必要だな』
以前、そんなことを言っていたエヴァンズ侯爵の言葉が蘇る。つまり、それはこういうこと?
「けど、そんなこと無理があるんじゃ」
私はそう声を上げた。
だって、いくら顔が同じだからと言っても簡単に人は騙せない。絶対に違う人間だって分かるはずだ。
「ええ。ですから私たち姉妹は生まれてすぐに引き離されましたが、極秘で面会や手紙をやり取りする機会が多く与えられていたんです。情報を共有させるために。そうやって話をさせることで、アリスのもつ情報をわたしに与えさせて、父はもしもの時に備えていたのです」
「ばかばかしい。そんなので騙されるわけがないだろ」
陛下が吐き捨てるようにそう言ったけれど、シーラ様は首を傾げながら柔らかくそれを否定する。
「さぁ、それはどうでしょう。もし、あなた方がアリスが死んだことを知らず、代わりにわたしが目の前に現れたなら、違和感を覚えこそすれそれでお終いかもしれませんよ? だって、同じですもの。実際、わたしたち子どもの頃に一度だけ、わたしがどうしてもアリスの世界を見てみたくてアリスに頼み込んで監視の目を盗んみ入れ替わってわたしがここへ参ったことがあるんです。けれど、皆さん気付いてらっしゃらなかったでしょう?」
陛下とアルフレッド、オルスが顔を見合わせた。けれど、シーラ様が言うように誰も思い当ることがなかったらしい。
「確実に無理とは言いきれませんわ。わたしはその気になればアリスのしぐさや表情を完璧に真似することも出来ますし、それに、もしわたしがそれを嫌がったり、あなた方に気づかれそうになったとしても父は、わたしがどこかで頭を打って混乱しているとでも言うのでしょう」
そう断言して見せるシーラ様はそこでふと悲しそうに微笑んだ。
「父にとっては情報共有の場であってもわたしたちにとっては楽しいおしゃべりの時間で、アリスはたくさんのことを話して聞かせてくれました。一見、物腰が柔らかそうで、でも四人の中で実は一番厳しいアルフレッド様。お祖父さま譲りの素晴らしい剣の腕があるのに、何故か立場の弱い、いつも軽口ばかりのオルス様。そして、アリスの特別な存在であったジェルベ様。皆様と過ごす日々を本当に楽しそうに。
多額の、寄付金と言う名のお金を積んで入れられた寺院で、決して存在を知られることのないよう隔離され数人の世話人から最低限の教育を受けるだけの、ただ、時間を消費するだけのそんな日々を過ごしていたわたしにはそんなアリスの話を聞くのがとても楽しみでした」
「……羨ましく思ったりはしなかったの?」
私はついそう訊ねた。
そんな生活、私には耐えきれないわ。なんで私のほうがって思うわ。ずるいって、一人楽しそうにしているアリス様をきっと恨んでしまうわ。
けれど、そんなふうに思う私にシーラ様はゆるく首を振ってみせた。
「確かに羨ましく思わなかったと言ったら嘘になります。同じときに、同じように生まれたわたしたちですが大切にされたアリス、その代用品としてのみ存在するわたし。わたしたちを取り巻く環境はあまりに違っていましたもの。
けれど、その違いを恨んだりアリスを憎んだりしたことは不思議と。わたしはわたしなりに寺院の静謐な雰囲気が気に入っていましたし、むしろ、わたしはわたしの半身であるアリスのことが心配で、だからいつでもあの娘の味方であることがわたしの務めだと思っていましたから」
「心配?」
「ええ。アリスは父の娘であり、将来の王妃の筆頭候補として影で多くのやっかみを受けていたようですし、それに父からの重圧もわたしとは比べ物にならないくらい大変なものでした。それでも、あの娘が耐えて頑張っていられたのは、ただ陛下の隣に在るためだったのに、それなのに肝心の陛下から想いを返していただけることはなくて」
シーラ様はそう言ってにこりと陛下に微笑みかける。
想いを返していただけることはなくて?
それはどういう意味だろうか。だって、そんなはずないのに。
陛下はアリス様が亡くなってからもずっと彼女のことを忘れられずに愛してるって……。
なのに。
シーラ様の言葉に首を傾げつつ陛下を見ると陛下はなんだか気まずそうにそんなシーラ様から視線を外した。
そして、シーラ様は私の知らない話を語りだす。
「それでもあの娘はずっと信じていました。婚約が正式に決まれば、妃となればと。今はまだ貴方にとってただの幼馴染で、父の力によって押し付けられただけの存在でも、ちゃんと愛してくれるようになる日が来るかもしれない。ちゃんと女として見てくれるようになるかもしれない、と。
けれど……。
フルトとのことに、父のこと。陛下にとっても仕方のない選択だったのだと思うから、責めるつもりはありません。
でもアリスにとって裏切りのようなその選択にあの娘の心は、不安で覆い尽くされていった。
“唯一になりたい。同情じゃなくて本当の愛が欲しい。わたくしが欲しいのはただそれだけなのに、それなのにどうしてそれは叶わないの?”
そんな風に泣いて、ずっと怯えていました。陛下の愛する女性が現れる日に。いつかきっとその人は現れてしまうから。そして自分の元からジェルベ様をとっていくって。けれど、爵位は高くても実質的な権力がなくなったお父様の娘である自分には引き留める術がないって。いつまでも同情で縛り付けておけるわけがないことをあの娘だって分かっていましたから。そんなアリスを私は……」
「それでもそのことで辛い想いをしていたのはアリスだけではないんです。貴女はそう仰いますが陛下だって」
「アルフレッド。いいんだ」
少し苛立たしげにシーラ様の話に口をはさんだアルフレッドに陛下はそう言って、どこか痛みに耐えるように溜息を吐き出し、腰かけていたベッドからゆっくりと立ち上がった。
これは、どういうことだろうか。
今まで聞いていた話とは、あまりにも違う。
けれど、シーラ様のその言葉を誰一人否定したりすることもない。
ただ、困惑する私をよそに、場の空気が一段とぴりぴりしたものに変わったのだけが分かった。
一歩、陛下がシーラ様へと歩み寄る。
「それで? お前はアリスを裏切った俺が許せなかったか? アリスのためにエリカを排除しようとしたとでも言うつもりか?」
シーラ様の目をじっとみて陛下が彼女にそう問いかける。
冷たさの中に悲しみを含めたようなその瞳をシーラ様は一度受け止め、そしてその空色の瞳を私へと向けた。
「確かに、わたしにとってエリカ様は少しだけ辛い存在ですが」
彼女が私を見ながら悲しげに微笑む。
違う。そうではない、のに。
シーラ様は私が偽物の側妃だって知らないだけ。
けれど、今はきっとそれを否定するべきではない気がして、私は黙ってそれをただ受け止めた。
「ですが、」
そう言って、シーラ様は陛下へと視線を戻す。
「だからと言ってわたしはエリカ様の命を奪いたかったわけではありません」
否定するのは凛とした声。
でも。
「それならば何故、エリカにあんな毒を盛った? レイカの危険性を知らなかったとでもいうのか? あれは殺すつもりがなくて盛る毒じゃない」
「いいえ。そういうつもりであの毒を選んだ訳ではありません。毒を盛られたのだとエリカ様がすぐに気づくよう味が強く、決して即死とはならないもの。だからこそのレイカだったのです」
レイカ、とはなんだろう。私に盛られたのはカヤのはずなのに、間違えたのだろうか? でも陛下はよく分かったなって言ったような?
そんな疑問を感じたけれど、流石に今、口をはさむことは出来ない。
それに、レイカというものにしろカヤにしろ、確実に命を奪うつもりならば他にいくらでも気付かれにくい毒が、効果の出やすい毒があったのは確かだろう。
それならば何故あの毒を選んだと言うのだろうか?
ただ単に私を苦しませたかっただけとでも言うつもりか、それとも……?
「殺めるつもりがなかったとおっしゃるのなら何が目的だと言うつもりです?」
アルフレッドの探るような問いかけに、シーラ様は真っ直ぐと前を見据えた。
そして、
「わたしの罪を」
彼女はそう答えて。
「何を……」
アルフレッドが怪訝そうに言葉を紡ぐ。
「それがわたしの望みです。わたしは陛下の側妃さまを殺めようとしました。そして、そんなわたしをあなた方は裁かなければならない。その為には証拠となるものが必要でしょう? だから」
そこでシーラ様は言葉を切って、何か覚悟を決めるかのように軽く深呼吸をする。
そして、一度伏せた瞳を再び開いて。
「エヴァンズの屋敷にエリカ様に召し上がっていただいたクッキーの残りを置いています。陛下にはすぐに屋敷に人をやってそれを確認していただきたいのです。そして、そのついでに」
「ついで?」
その言葉に、陛下が眉根を寄せた。
シーラ様が艶然と微笑む。
「あなた方がわたしをこの王城に招き入れ、あのアランという青年を使って手に入れようとしていたものを探し出していただければ。屋敷の中に確実にそれはあるはずですから」
「何を……」
話の内容はよく分からない。けれど、陛下は一瞬驚いたように目を瞠り、彼女の真意を探るようにその目を細めた。そんな陛下にシーラ様は何かを肯定するように微笑みながら頷いて見せる。
「ずっとあなた方と父を観察させていただいていましたもの。あなた方が何を求めて動かれていたのかくらい分かりますわ。父を嵌めて陥れようとなさっているのでしょう?」
エヴァンズ侯爵を嵌める? 何の話だろうか? どんどんそれは私の分からないものとなっていくけれど、陛下の顔には明らかに警戒の色が浮かんでいる。
「……そうだったとして何故、お前が俺たちの手引きをするような真似をする? おかしすぎるだろ。お前の狙いはなんだ?」
「狙いなどありませんわ。敢えて言うならわたしもわたしたちの人生を弄んだ父が許せなかったし、それにわたしが引き起こしたことの責任をとらなければならないと思っただけ」
「責任?」
「ええ」
「何の責任だ?」
「わたしが父の前に現れたことによって、また父が、なんといいますかとても元気になってしまいましたから」
困ったようにシーラ様が苦く笑って、その瞳を陛下は探るように鋭く睨み付ける。
それをシーラ様が受け止めて。
二人の間にしばらくの間、沈黙が落ちる。
そして、
「こんなことまでしておいて信用できるわけがない」
ため息交じりに陛下がシーラ様から視線を逸らしてそう告げた。
それでも、シーラ様はそんな陛下にゆったりとした微笑みを向けた。
「信用していただけずとも構わないのです。それでもわたしは裁かれます。そして父ももうただでは済まない。たとえ実子ではなく養女ということになっていようとも差し出そうとしていた娘がこの王城内で陛下の側妃さまを殺めようとしたのですから。この時点で、例え牢に入れることは出来なくとも父を危険人物とみなし監視を付けたうえで領地に追いやることは出来なくもない。そうでしょう?」
この国の法がどうなっているのかはよく知らないけれど、それでもシーラ様の言ったことは間違ってはいないのだろう。その言葉になにかに気が付いたように、アルフレッドの表情が変わった。
「陛下……」
促すようにアルフレッドが陛下に呼びかける。
陛下は一度アルフレッドに視線をやり、それでもしばらく迷うように腕を組んで視線を斜め下に彷徨わせた。そして、
「……ああ、分かっている。どうせこのことをそう長くは隠し通せない。もうこの方法をとるしかないだろうな。シーラの言うものが本当にあるかどうかは分からないが」
「大丈夫です。ちゃんとございますわ」
シーラ様が自信ありげにそう請け負った。
「では、よろしいですね」
陛下が一つ頷いたのを確認して、アルフレッドが早速指示を出しに行くためか足を踏み出す。
けれど、その動きはそれでもまだ納得しきれていないような陛下の声によって遮られた。
「何故、お前は自ら罪人となってまでこっちの手引きをしたと言うんだ。憎んでいるだけなら他にも方法があっただろうし、お前を見つけたエヴァンズがなにを企んでもお前には責任はない。こちらに味方する義理も何もないはずだ」
「それは……」
その陛下の問いかけにシーラ様は、少し寂しげに視線を落とした。
「あの日、アリスが死を選んだ日、あの娘が寺院のわたしの元へ訪れたんです。その時にお願いされました。『すぐに逃げて』と。父に利用されることのないように。これから死ななければならない自分の身代わりにされないように、と。でも、わたしは敢えてそれを成し遂げなかったから。逃げることをやめてしまったから」
「ちょっと待ってください。死を選んだ日って、これから死ななければならないって貴女はもしかしてアリスから聞いたんですか? アリスが何故死を選んだのか」
「勿論、知っております。あの娘の想いの全てを」
そう言って、シーラ様はひらひらとした袖口から一つの小さな人形を取り出した。それは前に見たものと同じ、赤い塗料で色づけされた木製の少し古びたもの。
「それは……」
それに見覚えがあるのか、アルフレッドが驚いたような声を上げた。陛下とオルスも瞳を見開いている。
そんなアルフレッドたちにに、シーラ様は一つ頷いて微笑んだ。
「アリスの形見です。わたしに預かって欲しいと。アリスはこれをとても大切にしていましたから」
そして、シーラ様はそれを握りしめて胸元に押し当てて、「少し、お話をしてもいいですか?」と問いかける。
陛下が何かを恐れるように、固い緊張を漂わせつつ、それでもしっかりと頷いた。
シーラ様は、思いを馳せるように軽く瞳を伏せて俯いた。
「その数日前に、わたしの元へアリスが訪れたんです。でもあの娘は陛下のことで不安がってばかりで。だから叱ったんです。そんなまだ現れてもいない誰かを恐れている暇があるならそれまでにアリスが陛下を夢中にさせればいいでしょって。誰にも取られないようにすればいいでしょって。アリス、わたしになんて自分の気持ちが分からないって言って来るものだから、じゃあわたしと入れ替わる? わたしがアリスになってあげるからって、初めてそんな風に喧嘩をして、それで最後にはアリス、そうねって、もう一度ちゃんと頑張るからって久々に顔を上げて、笑って帰っていったのに。
あの日、暗い顔をしたアリスがまたわたしのところに来て、『ごめんなさい。もう頑張れない』って、そう言ってきて。
偶然だったのだと思います。アリスは知ってしまったらしくて」
「何を?」
陛下が硬い声でそう訊ねる。
シーラ様は息を吐き出して悲しげな声でそれを続けた。
「陛下によって宰相から降ろされてしまった父の思惑を。アリスを王妃として、そして陛下との間にお子様が生まれれば、陛下を殺めてその子を王位につけることで再び自分がこの国の実権を握ろうとしていることを。それで、まさかと思って父の書斎を慌てて漁って、そしてそこで見たんだそうです。前国王様を殺めた青年のサインのついた契約書を」
「……あいつは」
陛下が呆れかえったような溜息を吐き出した。
けれど、それってつまり前国王様暗殺を裏で仕組んでいたのは他でもない……。
それを感じ取った私でさえも青ざめてしまう。
一体、アリス様にとってそれはどれほどの恐怖だったのだろう。
「それを見て、あの娘……。
あの娘だって死にたかったわけじゃなかった。陛下の傍にずっと居たかった。けれど、父は躊躇わない。近い未来、父はきっと陛下を殺めようとするから。陛下がアリスの想いに応えようとしてくださればしてくださるほどそれは貴方自身の危険へと繋がってしまうことを知ってしまったから、それだけは何が何でも防がなければと思ったのです。だからっ」
だから、アリス様は死を選んだというのか。
陛下にも好きになって欲しかった。想いが叶う日を、愛し合える日をを夢見ていた。それなのに、それは叶うことなく。その上、自分は愛する人を危険に曝してしまうだけの存在だと知ってしまったら。去来したのは恐怖か空しさか。
なんて苦しいんだろう。辛いのだろう。
「けれど、何故そんな馬鹿なこと止めなかった。アリスだって死んだりする前に言えばよかったんだ」
痛みか、それとも怒りの為か、陛下が顔を歪めて吐き出すようにそう言った。
けれど、その言葉にシーラ様はゆるく首を左右に振る。
「言ってしまえば、アリスは陛下の婚約者の位置から引き摺り降ろされますでしょう? それどころかアリス自身ももう陛下の姿を見ることさえも許されない身分に落とされてしまう。それよりも……」
そう言って、シーラ様は改まったように、そして悲しげに微笑みながら陛下と向かい合う。
「陛下。アリスが、何故貴方の傍で死んだか分かりますか?」
陛下はその問いかけに小さく「いや」と首を振った。
「一つは、先ほどもお話しした通りわたしを身代わりとさせないため。確実に、死んでいる自分を確認していただく必要があった。
そして、もう一つ。
出来るだけ永く、貴方のその心を縛り付けておきたかっんです。アリスは言っていました。『ジェルベ様は優しいから、きっとわたくしが死んだら傷つくわ。だから、その間だけその心をわたくしのものにしていたいの。もうそばに居られないのなら、ジェルベ様が愛する誰かが現れるその日まで、忘れられないくらいわたくしを想って欲しいの。だから死に場所はジェルベ様の傍を選ぶわ。ねえ、最期のその瞬間、この瞳に映せるのが愛する人なんて素敵でしょう?』って。それがとても酷いことだと分かっているけれど、それでもと」
シーラ様が苦しげに俯いて、そして唇を噛み締めたのがみえた。
「寺院から抜け出したわたしは、父から逃れるためずっと各地を転々としていました。そのまま逃げ続けようと思っていたんです。身代わりとしての価値はなくとも自分の血を引いた娘を妃にと望んでいる父がわたしを諦めているわけがありませんから。けれど、アリスの言ったとおりずっとお妃様を娶らなかった陛下がついに側妃様を迎えられた。そんな噂を聞いて、わたし、確かめてみたくて。花祭りの踊り子になって、わざと父の目に触れるようにしたんです」
「確かめるって何を?」
私は、シーラ様にそう訊ねた。
「少々、特殊な方法で側妃さまが決められたと聞きましたので本当に陛下が選ばれたのか。選ばれたのならば、いったいどんな方だったのか。アリスがあれだけ恐れていた方ですもの。そして……」
そう言ってシーラ様は何故か私を見て小さくクスリと笑う。
「エリカ様にはわたしのせいで辛い思いをさせてしまいましたね。申し訳ありませんでした」
「そんなこと……」
あるけど、でも私はシーラ様の言う選ばれた人間ではないわ。そう思うとなんだか心苦しくなってくる。
けれど、今度こそシーラ様はなんだかとても可笑しそうにくすくすと笑いだした。
「そんなことあるでしょう? あんなにわたしに対して素っ気なかったではありませんか」
「それは……」
確かにそうなのだけれど。今ここでそんなこと言わないでほしい。なんだか自分の子どもっぽさを責められているようで、そして陛下への気持ちがそれによってバレてしまいそうで恥ずかしくて顔が赤らむ。
「でも、これなら大丈夫そう。アリスとの約束を破り、わたしが表に出ることによって父と共に迷惑をかけることになると分かっていても、こうやってここにやってきた甲斐がありましたわ。アリスの言葉を伝えるのはきっと今なのでしょうね」
そう言ってシーラ様は強張った顔でシーラ様を見つめていた陛下へと向きなおった。そして、ゆっくりと瞳を伏せてアリス様の人形を両手で優しく包み込む。
「『どうか幸せになって。わたくしは貴方を苦しませてばかりだったから。たくさん迷惑をかけてごめんなさい。貴方の優しさに付け込んでごめんなさい。こういう返し方しか出来なくてごめんなさい。それでも、わたくしは貴方のことを心からお慕いしておりました。今までありがとうございました。そしてさようなら、ジェルベ様』
これがあの娘に、この人形と共に託された言葉です。その人が現れたらどのような形でもいいから陛下に伝えてほしいと。そしてもう自分のかけた呪いから解放して差し上げてほしいと頼まれてたんです」
シーラ様が陛下の方へと両手に包んだ人形を差し出す。陛下は少し強張った動きでそれを右手で受け取った。
そしてそのまま陛下は右手を顔の前に持ち上げ、瞳を伏せる。
切ない、アリス様の想い。
シーラ様によって伝えられたそれによって、彼女の愛の深さを、私はこのとき確かに見せつけられてしまったのだと思った。




