四八、不安
「少し微熱が残っているようですけれど、大丈夫そうですね。念のためにお医者様をお呼びしましたから少々お待ちください」
「ありがとう、ベティー」
ベッドから起き上がり敷き詰められたクッションにもたれ掛っていた私は、額から掌をそっと離したベティーににこりと笑いかけた。
まだ少し体は気怠い。けれど、今は陛下たちの元へこのことの報告に行っているというマリアが、お願いどおりちゃんと私に解毒剤を飲ませてくれたようで、目覚めたときにはあの倒れる寸前の息苦しさはもうなくなっていた。
戻ってきたらお礼を言わなきゃ。
きっと、あの娘一人で奔走してくれたはずだ。
そんなことを思っていると、
「ったく」
そんな呆れたようなため息混じりの声が聞こえて、私はそちらの、ベッドから離れた壁の方へと視線をやった。
「貴方にも迷惑かけたわね。オルス」
そう言うと、その壁に凭れ掛かり腕を組んでいたオルスが思いっきり顔を顰めたのがみえた。
「まったくだ。細いと思ったら案外重かったしな、いい迷惑だ」
「ちょっと!」
相変わらず失礼なその物言いに私は思わず声を荒げる。
どういう経緯でなのかは知らないけれどマリアに頼まれたらしく、あの温室から私をこの部屋まで運んでくれたのはオルスらしい。
それはありがたく思うのだけれど、何、この言われよう。
「失礼ね。普通、それを言うなら逆でしょう? 大体、私はそんなに太ってないし。重いと感じたのは貴方に力がないからよ。それでも武官なの?」
「確かに、肝心なところに大して肉がついてない残念な体してるけど重いものは重い」
「うるさいわねっ! 私だって気にしてるのに残念だなんて言わないで頂戴」
私はそう訴えながら傍にあったクッションを手に取って胸元を隠すようにそれをぎゅうっと抱き込んだ。
ちょっと胸元が寂しいのなんて私のせいじゃないわ。エリカの体が悪いのよ。ティアはもうちょっとあったもの。
なんなのよ。このいいとこなしの体は!
「まあこればっかりは仕方がないだろ。諦めろ」
「黙りなさい、この変態」
私は傍らからもう一つクッションを手に取ってそれをオルスに向かって投げつける。けれど、当然離れた場所にいるオルスにそれは届かなくて途中の床にべしゃりと落ちた。
それを見てオルスが「へたくそ」とバカにしたように笑う。
あぁもう! ここ最近またオルスが厭味ったらしくなった気がする。
それが何故なのか分からないほど鈍くはないつもりだけれど。だから私たちは今までどおりでいられるのだと分かっているけれど。
でもこのことに、ありがとうと、お礼を口にすべきではきっと、ない。オルスが望むのならば私に出来るのはその好意に甘えて何もなかったように以前どおり振る舞うことだけなのだろうから。
「で? 貴方はいつまでここにいるのよ? ここは側妃の部屋よ。陛下の許可なく男は出入り禁止なのよ。さっさと出て行きなさいよ」
「オレも陛下に訊きたいことがあるんだよ。だからここで待ってた方が手っ取り早いだろ。どうせマリアの報せを聞いたらすぐにここに来るだろうし」
「……来ないかも、しれないじゃない」
何故だか確信しているように言ってみせるオルスに私はぽつりと反論した。
なんでオルスがそう言い切れるのか分からない。
だって、来るなんて保証はどこにもないじゃない。
私が倒れたって聞いて、陛下がどう思うのかなんて分からない。それよりも、もしかしたらシーラ様の心配をして、そちらの方へ向かうかもしれない。
何があったんだって。どんな事情があったんだって、私のことよりもそれを問いに行くのかもしれない。
けれど、
「来ないわけねえだろ。なあ、ベティー」
やけに自信ありげなオルスがベティーにそう同意を求める。隣に控えるベティーに視線を向けると彼女はオルスに同意するようににこりと私に笑いかけた。
「でも……」
私は抱きしめているクッションへと視線を落とす。
信じたいとは思う。
でも、迷ってしまう。本当に期待していいの? 期待して陛下が来なかったら?
天秤に掛けられるのだ。陛下が、どちらを気に掛けるのか。それによって思い知らされる。そう考えると期待するのが怖くなる。否定して、心に予防線を張っていないと怖くて仕方がない。
けれど、オルスはそんな私に頭を抱えて大きくため息を吐いて見せた。
「なあ、バカ」
「バカじゃない」
「お前なんかやっぱりバカで充分だ」
「何でよっ」
「あの女に関わるなっていう陛下とオレの忠告を聞かなかっただろ?」
「あれは別に私から近づいたわけじゃ」
ないはずだ。向こうが寄ってきたんだ。
私だって出来る限り関わりたくなんてなかったし、こんな目に遭わされるなんて思いもしなかった。だから。
「まあそれはそうとだな、なんでお前は陛下のことになると弱気になるんだよ。負けたくないんだろ?」
「だって」
「大丈夫だから。な?」
「……う、ん」
「まあ、お前が信じなくてももうすぐはっきりする。ほら、陛下のお出ましだ」
そう、オルスが言った瞬間、ドアが大きく開いた。
そこから現れたのは、本当に陛下で、荒く上がった息を整えるように一度その場で足を止めた陛下は、その登場に驚いて固まる私の姿を認めて、足早に近づいてくる。そして、私のすぐ横まで来て私と目線を合わせるようにベッドに腰かけ、何の表情もその顔に浮かべずに私へと手を伸ばしてきた。
その手はそっと私の頬を撫でる。
「毒で倒れたと聞いた」
静かな声でそう確認された。私は本当に陛下がやってきたことに呆然として、この、私に触れる手に緊張して。
「う、ん。さっき目が覚めたの」
なんとか、答えられたのはそれだけ。
そのまましばらく落ちた沈黙に、私の鼓動だけが大きく鳴り響く。
私の頬にあったその手はするりと滑り落ちて、そしてそれはそのまま私の腰へと回った。
気が付いた時には、それまで抱きしめていたクッションを手放していて、私は陛下の胸の中で。
「無事でよかった」
聞こえてきたのは、そんな呟くような小さなその声。
少しだけ身じろぎしてオルスに視線を向けると、オルスは「な?」と言うように私に笑いかける。
本当だ。
本当に、心配してくれてた。私のところに来てくれた。
じわじわと胸を満たす実感。
それは泣きたくなるくらい嬉しくて、さっきまでの不安がすうっと綺麗に溶けて消える。
「ありがとう」
そう言えば、さらにぎゅうっと力を籠められた。
その腕は少し苦しいくらいで。
そこで私はっと現実に戻された。
ちょっと待って。
なんで、なんで私は陛下に抱きしめられてるの!?
「陛下、あ、あの?」
状況に気が付いた途端さっきまで静かな状態に戻っていた鼓動がまた速さを増してきた。少し息苦しい。顔に熱が集まってくる。
それに気が付いたのかオルスが笑い声をあげた。
「陛下、それくらいにしてやらないとバカが可哀そうなことになってる」
「うるさい。オルス。大体何でお前がここにいる。さっさと出て行け」
助けを寄越してくれたオルスのその言葉は、けれど陛下の冷たい声によって一蹴される。
大好きな陛下にそんな風に言われたらオルスが傷つくわ。
咄嗟にそう思ったのに、なぜかオルスはゲラゲラと笑い声をあげている。
もう訳が分からない。
なんでこんなことになってるの? こんなの陛下らしくないわ。
だめだ。もう頭がくらくらしてきた。
今度は眩暈で倒れてしまいそう。
そんな時に部屋に鳴り響いたのは扉をノックする音。
「でも、本当にそろそろ放して差し上げてください、陛下。お医者様もお見えの様ですし」
ベティーの執成すようなその言葉に陛下は「ああ」と答え、小さくため息を吐き出してから腕の力をようやく緩めてくれた。
胸を押さえて呼吸を整えていると、陛下がそのままそっと離れていく気配がして、お医者様と入れ違いに陛下とオルスが部屋から出て行く。
「ねえ、ベティー。なんか陛下が変」
二人の姿が完全に扉の向こうに消えたのを確認して、ベティーを見上げてそう訴えるとベティーは「ふふ」と小さく笑った。
「それほどエリカ様のことが心配だったのですわ。エリカ様がお嫌じゃないのならよろしいではありませんか」
「それはそうだけど……」
とてつもなく心臓に悪いと思うの。
今、お医者様に診て頂いても正確な診断が出来ないんじゃないかしら。
そう思った。
お医者様の診察が終わって、再び部屋に入ってきたのは陛下とオルスと、それに加えてアルフレッドとマリアの四人だった。
マリアが私の姿を認めた途端、その大きな瞳に涙を溜めて駆け寄ってきた。
「エリカ様! ご無事で良かったです」
「マリア」
「お体の方はもうよろしいのですか?」
「ええ。熱もきっとすぐに下がるだろうってお医者様も仰ってたわ。解毒剤の投与が早かったからこんなに軽く済んだのですって。全部貴女のお蔭よ。ありがとう、マリア」
「いいえ、そんな。でもっ、こんな危険な毒を盛るなんて酷いですわ。もしかしたら命を落としていたかもしれませんのに」
「……そうね」
まったくだわ。
なんで私がこんな目に遭わなきゃならないのよ。
今更ながら怒りが沸々と湧き上がってくる。
私があの毒に覚えがあったからよかったけれど、もし知らないものだったのなら。
解毒剤もだけれど、あの時吐き出さずにクッキーを喉に通していたらやっぱり今こんなに回復はしていなかった。きっと、以前口にした時のように数日は寝込むことになっていただろう。
ああ、思い出したくもないあの日の記憶。
そんな事を考えていたのがいけなかったんだと思う。
「それにしても、よくあの毒の種類が分かったな」
「当然じゃない。唯一よ。誰よりも私に甘くてお優しかった兄上が私を怒ったのなんて、兄上の、あの慣らし用のカヤ入りのお菓子をそれと知らずに悪戯で食べてしまったあのときだけだったんだから。味も独特だし絶対に忘れられるものですか!」
私は陛下の問いかけにそう答えた。
あの頃の私はまだ幼くて、兄上が体を毒に慣らしてることなんて知らなくて、ただ兄上のおやつを失敬しただけのつもりだった。
けれどそれは、段階を進めていた兄上とは違って、女だからとそんな事をする必要もなく毒など口にしたことのなかった私の体には耐えきれないもので。
数日寝込んで回復した私は見たこともないほど厳しい顔をした兄上に怒られた。怒る兄上に、私はただごめんなさいと泣くことしか出来なくて。でも知っていた。私が熱にうなされている間ずっと、兄上がその震える手で私の手を握ってくれていたことを。とても心配させてしまったのだということを。だからやっぱりごめんなさいとしか言えなくて。あれは今でもとても苦い記憶として私の心に残っていた。
まさかこんな形であの日に救われることになるとは思わなかったけれど。
そんな事を考えていると、
「兄?」
陛下のそんな怪訝そうな声が聞こえてきて。
「お前に兄なんかいたか?」
私はその言葉にハッと気が付いて慌てて自分の口を両手で塞いだ。
もしかして、私はうっかり余計なことを口にした?
恐る恐る周りを見回せば、みんな私のことをじっと見ている。
どうしよう。
つい、要らないことを喋ってしまったみたいだ。
「エリカ」
「あ。えーと、私に兄なんて……いない、わね」
「じゃあ、それは誰の話だ」
「えっと、あの……。そんなに私のことに興味が?」
無いでしょう? そんなもの。だから軽く流してはくれないかしらと陛下を見るけれど、あろうことか陛下は一つ無言で頷く。
なんでよ! いつもは私の話なんて聞き流してたくせに。
あー、もう。
しかたがない、か。変なことを口走ってしまった私が悪いわけだし。
でも下手に誤魔化すと後が辛くなる。だから当たり障りなく、事実の欠片を。
「昔、兄と慕った人がいたってだけの話よ」
「今は?」
「今は……」
私はその問いに押し黙った。
今は、兄ではないし、会うことも出来ない。
その寂しい現実をなんと伝えればいい?
「……まあ、良いではありませんか。陛下」
「アルフレッド」
言葉を詰まらせた私に見かねたのか、にっこりと笑って言ったアルフレッドに陛下は不満げな声を上げる。
けれど、アルフレッドはそれを無視するかのように私へとその笑顔を向けた。
「無事に回復されたことですし、これで一安心ですね」
そう言って、完全に話の方向を逸らしてくれて私はそっと息を吐き出す。
「あとはシーラの方ですが……、何故こんなことをしたのか聞きに行かなければ。陛下はどうされます?」
「ああ……。そうだな。行くか。オルスも来るか?」
「そうですね。あの女がさっきの陛下たちの話どおり本当にそうなら、オレも聞いておきてえな」
「では参りましょうか。エヴァンズ候のこともありますので急いだ方がいいでしょう。それではエリカ嬢、失礼いたします」
三人は私に背を向けて部屋を出ようとする。
「ちょっと待って!」
私はその後姿に慌てて声をかけた。
三人が振り返る。
「私も聞いてはダメ? 殺されかかったのは私だわ。それなのにその理由を直接聞けないなんて私、納得できない」
「お前には関係のないことだ」
陛下が冷たく答える。でもそんなの、
「狙われた時点で関係があるもの。私も聞きたい」
「駄目だ。お前は寝てろ。まだ熱があるんだろう?」
「そうだけど。でも」
事情も知りたいし、ここで陛下に置いて行かれたらシーラ様に陛下をとられそうで嫌なんだもの。
シーラ様が陛下に取り入るんじゃないかって不安なんだもの。
そんなこと、言えないけれど。
「……本当にお前には関係がないんだ。それに」
「いいじゃないか、陛下。エリカにも聞かせてやれば」
「そうですね。たしかにエリカ嬢は被害者ですし、あちらに嘘がないか確認する意味でも同席してもらうほうがいいかもしれません」
そんなふうにオルスとアルフレッドが私の味方をしてくれた。
けれど、陛下は心底嫌そうに顔を歪めて黙り込む。
それでも、とじっと見つめていると暫く無言を貫いた陛下は漸く観念したように口を開いた。
「……聞いてもきっと訳が分からないし、どうせ有益にも愉快にもならない話だ」
「それでもいいわ」
はっきりとそう答えるてみせると、陛下が深々とため息を吐き出した。
そして、そのままオルスの方へと向きなおって、
「……ならオルス、シーラをここに連れてこい。人目につかないように。いいか?」
「了解」
オルスが陛下の言葉にニッと笑って部屋を出て行く。
私はその勝利に「ありがとう」とにこやかに笑みを浮かべた。




