58 ホーリースターダスト
「す、すごいですわ! やっぱり私の考えは間違っていなかったわ」
ブリジットは歓喜して手を叩いているし、マホーニー司教は目玉が落ちそうな程に目を見開いてロザリオを見ている。聖騎士二人も驚愕して、身を乗り出したまま固まっている。
「こ、これは……こんな現象は前代未聞です。一体これは……」
暖かい。ロザリオが猫の体温みたいに心地よい熱を帯びている。これがこの世界の神様の力……なの?
ぼうっとロザリオを眺めている私にブリジットが急かした。
「ジーナさん、何かすることがあるのでしょう?」
「はっ! そうだわ、アロイス! あっ、でもこれ……持ち出すわけにはいきませんよね?」
私は司教様に半ば嘆願するように言う。
「いえ、お持ちなさい。私も同行しましょう、令嬢の行き先が分かりましたよ」
司教様と二名の聖騎士もやはり同行する事になった。司教様は急ぎ馬車を手配してくれて、私を先導する。
「ブリジットさんは? あら、どうしてクレアの事……」
「話は帰ってからですわ、さあ急いで」
ブリジットは教会に残った。マホーニー司教様は馬車の中でアロイスがキツネになってしまった事は承知していると教えてくれた。
「そうですか、国王陛下が司教様にご相談されたのですね。陛下は……本当にいい方なんですね。アロイスが貴族とはいえ、いち国民の不幸にそれほど心を痛めていらっしゃるなんて」
「え? あっ、ええそうです。陛下は威厳のある方ですが、その実、慈愛に溢れた人間性の豊かな方でもあるのです」
聖騎士が先導する馬車は、あっという間に王宮に到着した。
アロイスのいる離宮は王宮の裏門からの方が近い。ぐるっと王宮を半周して裏門へ回った。王宮と離宮を隔てる林の中に馬車は入れない。私は馬車を一番に降りて離宮へと駆け出す。
林を抜けて離宮の庭園に入ると、ハーリン先生が見守る中、泉の傍で水遊びするアロイスが見えた。
「この寒い中で水遊びだなんて」
私を先頭に、マホーニー司教様と二名の聖騎士が駆けてくる様子を見てハーリン先生は驚いている。
「クリコット令嬢、それに司教様。一体どうされました?」
私はハーリン先生に挨拶も返さず、アロイスまで直行した。
「アロイス!」
前足や尻尾がびしょ濡れになっているキツネを抱きかかえ、両手でロザリオを強く握った。目を閉じて必死に願う。お願い、お願い。どうか元の人間に戻って、私、もう一度あなたに会いたいの。そして今度こそアロイスが好きだって言うわ。だから、どうかお願い!
私の祈りを固唾を呑んで見守っている司教様やハーリン先生のつぶやきが遠くに聞こえる。薄い壁越しのような、水の中から聞いているようなくぐもった声。
それが急にハッキリと耳に飛び込んで来た。
「幕が消えた!」
司教様の言葉を合図に恐る恐る目を開けると、私たちを覆っていた光のカーテンが消えるところだった。でも私の腕の中にはやっぱりまだキツネのままのアロイスがいた。眠っているのか、目をつぶったまま動かない。
「ああ、ダメなの?」
落胆と悲しみが胸を突き上げ、涙が溢れて来た。
「あっ!」
ハーリン先生の声に顔を上げる。驚きの表情だった先生の目に、希望が灯っていた。
「令嬢、見て下さい!」
キツネの毛がむくむくと膨らんでいる。いえ、キツネが大きくなってきているんだわ!
私はそっと地面にアロイスキツネを横たえた。その間にもどんどんと体は大きくなり、毛は薄くなって地肌が見えて来た。ハーリン先生はアロイスに駆け寄り、自分の上着を脱いでアロイスにかけた。
転生前に映画を見たな、ウェアウルフの映画。満月の夜に人間がオオカミに変身する。あのシーンの逆の光景が、今目の前に展開していた。
「アロイス! ああ、良かった! ちゃんと人間に戻ってる!」
完全に……完全に人間に戻ってる! ケモ耳も尻尾もない! 良かった! 本当に良かった。胸が熱くなり、涙が込み上げて来た。
「アロイス、眠ってるの? 私の声、聞こえる?」
でもアロイスは答えない、息をしているのか不安になるくらい微動だにしない。ハーリン先生が離宮から大きな毛布を持って来てアロイスをくるんだ。
「先生、どうしてアロイスは起きないの?」
「キツネから人間に戻った後はすごく眠いようです。きっとかなりのエネルギーを消耗するんでしょう」
先生はアロイスを離宮へ運んだ。
「今日はもう遅いですから一旦お帰りなさい。ロザリオも教会に返さなくては」
本当はアロイスが目を覚ますまでそばにいたかった。でも先生に説得されて、私はしぶしぶ馬車に乗った。帰路の途中でマホーニー司教様は、あの時どんな事が起きたのか教えてくれた。
「なんとも美しい光景でした。光の洪水のような幕があなた方を包み込んでいったのです。神職に携わる者ですが、こんな奇跡を目の当たりにするとは夢にも思いませんでしたよ」
「ロザリオをお返ししておきます、持ち出しを許可してくれてありがとうございました」
「今はどうですか? 何か感じますか?」
司教様にロザリオを手渡したが、さっきまでの温もりはもう感じない。
「いえ、もう何も」
「あなたに神聖力が宿ったのかと思いましたが、違ったようですね。神は力をお貸しくださったのでしょう。あなたは力を貸すに相応しいと判断されたんですよ」
教会に着くと、ブリジットはもう帰っていて会えなかった。私もすごく疲れを感じて、その夜は早めにベッドに入った。明日は日曜で、お昼まではベーカリーの仕事があるから、午後にはアロイスに会いに行こう。アロイス、目覚めてるといいな。
バートレットベーカリーから幾つかのお土産を購入して、私は離宮へ向かった。あの時アロイスがおいしいと言ってくれたキャラメルソースのデニッシュもある。
「こんにちは、ハーリン先生。あの、アロイスは……」
「クリコット令嬢、彼はまだ眠っています。昨日あれから医者に診てもらったのですが、身体的には異常はないそうです。ですが眠り続ける理由がはっきりしないので、いつ起きるかは……」
「そうなんですか、まだ眠ったまま……」
言いようのない不安が頭をもたげる。ハーリン先生は私をアロイスの寝室に通した後、お茶を淹れに出て行った。
ベッド脇には椅子が一脚、そこに眠る人を見守るように置いてある。ハーリン先生もここに座ってアロイスの様子を見てくれていたのだろう。私も静かに腰かけた。
「アロイスの寝顔って初めて見たわ。というか、素顔が全開になってる顔を初めて見た気がする。アロイスって随分イケメンだったのね! ジェリコなんてお呼びじゃないわね、ふふ……ふっ、うっ……」
嫌だ、どうして涙が出るんだろう。アロイスは眠ってるだけじゃない、きっともうすぐ起きるわ。泣いたら、諦めてるみたいじゃない。
「泣くな」
「だって、だって……」
「泣くな、ジーナ」
顔を覆っていた私の手に誰かがそっと触れる。
「……ッ!」
「いい匂いがする。デニッシュの香りと、ジーナの声が俺を起こしたみたいだ」
「アロイス! ああ! よ、良かった。ずっと目が、覚めないんじゃないかって」
溢れる涙でちゃんと声にならない。半身を起こしたアロイスは、しゃくり上げる私を抱きしめた。
「心配かけたな、もう大丈夫だ」
「また、また会えてほんとに良かった」
「ああ、また会えて嬉しいよ、俺も。だから顔を見せてくれ」
「だめよ、涙でぐしゃぐしゃなんだから」
アロイスは私の涙を手で拭いながら自分に向かせる。ち、近い! 顔を上げるとこんなに近かったなんて! そうだった、私はアロイスの腕の中にいるんだもの当たり前。そして、アロイスの瞳が閉じられて、唇が……。
と、控えめなノックと、ドアの隙間から申し訳なさそうなハーリン先生の顔がのぞく。
「すみません、お取込み中でしたか。お茶が冷めそうなので声を掛けてしまいました」




