泥中でもがく
なんとかなりました
「あーあー、右往左往しちゃってまあ……」
朝、新聞で戦況を見た耀子は、やれやれと言った感じでそうつぶやいた。
「日本軍が?」
長男の耀之が心配そうに聞いてくる。
「ううん、ロシア軍が」
「……それはそれで気になる、かも」
この時代の少年たちは普通に戦争ごっことかを楽しむものである。あまり活発な方ではない耀之がそういう遊びに参加しているというのを耀子は聞いていないが、やはり年相応に興味はあるのだった。
「えーと、どこから話せばいいのかな」
「日本がシベリア鉄道を爆撃してるって話はいろんな人から聞いた」
ロシアは清に資源を売って資金を手に入れ、その金で米国から様々な非軍需物資を輸入している。日本軍はこの交易を妨害するため、チベット軍と共同で降伏させた新疆軍閥領から少し進撃し、ノヴォシビルスク周辺の鉄道を爆撃していた。
「そこまで知ってるなら話は早いね。日本軍がシベリア鉄道の爆撃に使っている飛行場を奪取すべく、西部戦線から戦力を引き抜いて逆襲をかけたんですって」
「それが失敗したってこと?」
「うーん、正確には、一回成功されてしまったんだけど、奪還したって感じ」
ロシア軍の攻撃は激しく、いったんはオスケメンを奪還されてしまう。シベリア鉄道と、オムスクから運河を使えるロシア軍の方が、日英軍より補給状態がよかったのも敗因であった。
「なんで奪還作戦が成功したの?」
「ドイツとオーストリアが反撃に出て、ロシア軍が再度新疆戦線から戦力を抽出したからなの。ロシア軍はドイツとオーストリアによる反抗はまだ先だと思っていたみたいだけど、彼らはずっと前から準備をしていて、西部戦線から戦力を引き抜くのをじっと待っていたみたいね」
「右往左往って、そういうことなんだ」
「うん」
西部戦線が手薄になったことを航空偵察やイギリスからの情報提供によって察知し、ドイツ軍とオーストリア軍は反抗作戦を開始する。特にドイツ軍は機械化歩兵を駆使してロシア軍の弾性防御が追い付かないほどの電撃戦を展開し、オストプロイセンを奪還するどころか、ヴィスワ川西岸まで進撃してしまった。
「ロシアは必要以上に西部戦線から戦力を引き抜いてしまったんだね」
「そう。ウクライナやベラルーシと比べて、オストプロイセンやポーランドは雪解け時の泥濘がそこまでひどくなかったことが、ロシアの判断を狂わせたんじゃないかな」
「泥濘……」
「雪が解け始めたころのロシアの地面は、そこかしこが田んぼみたいになってるってこと」
ロシアの冬将軍は非常に有名だが、『攻撃側の進撃を阻む』ということにかけては春の泥濘の方が厄介との見方もある。総輪駆動の装甲車が容易にスタックし、装軌車両ですら容易には動けない泥沼は、当のロシアですら恐れるものだ。
「ロシアはどこもそうなるものだと思っていたけど、実際に前線になっていたオストプロイセンやポーランドはそうはならなかったんだね」
「そういうこと。ロシアはどうすればよかったか、耀君わかる?」
「えー……」
朝から7歳児に難問を出す母親。端的に言って鬼である。
「そりゃいくら何でも無茶だよ耀子さん」
見かねた芳麿が助け舟を出した。
「じゃあ芳麿さん、お父さんらしく答えてみてよ」
「……西部戦線は無視するべきだな。全力で遅滞戦闘をして独墺軍の進撃を遅らせつつ、新疆北部から日英軍をたたき出し、防御陣地を構築。独墺軍の兵站線が伸び切ったところでシベリア鉄道を使って新疆の戦力を西部戦線に再配置し、反攻作戦を行うってところでどうだ」
「さすがは陸軍士官学校卒。私も同意見よ」
「お父さんすごーい」
一介の侯爵夫人が軍事談議に参加できること自体が異常なのだが、それは突っ込むまいと芳麿は思った。
「でもそうはならなかった、ならなかったんだよよっしー。だからこの話はこれでおしまいなんだ」
「よっしーって誰だ。私か……というかここで切ったら尻切れトンボだろ。どうしてロシア軍が正しい行動をとれなかったか教えてあげないと、耀之がかわいそうだぞ」
「そういうクリシェだから気にしないで……」
もう8年は連れ添っているのに、夫に気安いあだ名をつけて呼んだことに耀子は赤面した。耀之は完全に置いてかれているが、母の言動が時折おかしくなるのはいつもの事なので大して気にしていない。
「まあそれはともかくだ。耀之がロシア人だとして、ロシア軍がドイツ軍に負け続けてるって聞いたら、どんな気持ちになるかな?」
「うーん、悔しい?」
「それは確かにそうだね。それがずっと続いたら?」
「……ロシア軍は弱いなあって悲しくなる」
あまり血の気が多い方でない耀之は、芳麿の誘導したい方向からずれた回答をした。
「確かにそういう人も居るだろうね。悲しくなる以外にはどう思うか、考えられるかい?」
「えーと……軍は何をやってるんだって、怒る?」
「そうだ。じゃあ、軍に命令しているのは?」
「政府……あ、ロシアの政府は、国民に怒られたくなかったってこと?」
「そういうこと!ロシア政府……というより、多分皇帝かその周辺の誰かかな?その辺の人たちが、国民に怒られたくなかったから、独墺軍の反撃を無視できなかったんだと思うよ」
これは日露戦争の時にも見られた話で、ロシア側の指揮官クロパトキンは、日本軍を満州の奥地迄引き込んで兵站線を引き延ばし、補給がままならなくなったところを反撃しようと考えていた。しかし、この姿勢がロシア皇帝の目には消極的に映り、中途半端なところで反撃を実施させられたり、指揮官を交代させて現場の混乱を招いたりしている。もっとも、クロパトキンの指揮自体も稚拙だったので、ロシア皇帝だけが悪いわけではないのだが。
「お母さんはまだまだ技術者としても一線でやっているけど、専門外の事に関しては部下に一任するようにしているよ。勿論丸投げなんかにはしないけどね」
部下を信頼して任せつつ、丸投げにはしない。この匙加減は大変難しく、干渉しすぎて部下の働きや成長を阻害したり、逆に放置して問題を起こしたりする上司は古今東西いくらでもいるものだ。耀子自身も、こどもの時から20年近く試行錯誤して、それでもなお十全にはできていないと感じることである。
「……ところで二人とも、時間は大丈夫?」
「あら、もうこんな時間……40秒で支度して!」
「はいっ!」
耀之(と芳麿)の朝の送り迎えは、耀子が出勤のついでに自分で行っているのである。幸い、この日も遅刻せずに済んだようだ。
耀子が出てこない回は露骨に感想もいいねも来ないんですが、もしかして作者の思っている以上にこの主人公は魅力的な人物なんですかね……?




