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諜報員の想い


「クライド様、報告申し上げてもよろしいでしょうか」


日が完全に落ちたクライド様の書斎にて問いかける。

クライド様の手は止まらず書類にサインしている。


「いいよ、何?」


私はフローレンス家に仕える諜報員。

以前はライアン様の元で情報収集に当たっていたが、今は息子のクライド様が主だ。


「ヴィクトル・スラッドリーが死にました」


文字を書く音が止まり、部屋から音が無くなる。


「あれ……? あいつ、奴隷になって犬になったんだっけ?」

「あちらの国は冬が厳しいのです。寒さに耐えきれなかったようです」

「犬小屋で凍死? なにそれ、笑っていいの?」

「それから、アルフレッド様から食事の誘いが入っています。料金はあちら持ちで……」

「ヴィクトルを売った金で酒でも飲もうって言うの!? 最高なんだけど! 見習わなきゃ!」


耐え切れなかったようで腹を抱えて笑い始めたクライド様。

ヴィクトルは売られて奴隷となり日が浅いのにもかかわらず、いとも簡単に死んだ。

所詮は貴族の坊ちゃんと言う事か。


「見習わないで下さいませ」

「えー? だって義理だけど僕の兄にあたる人だし……?」

「あまりブラニング家に毒されませぬようお願い申し上げます」


ブラニング家は暗殺家業を営む裏では有名な一族だ。

二人は同い年だが、妹のアイリーン様と結婚したことによりクライド様はアルフレッド様の義弟となった。

最初こそブラニング家から娘を娶る事に反対していた私だが、ブラニング家の女児はよほどの才能を見込まれない限り生家が暗殺業をしているなど知らない。

アイリーン様は生家の裏側を何も知らずに純粋に育った。

今では誰も反対などしていない。

むしろこれを逃せばクライド様がご結婚できないかも知れないと、使用人達は危機感をつのらせた。

ライアン様はブラニング家と関わりを持つのも悪くないと、最初から肯定的だった。

反対していたのが馬鹿らしく感じるほどだ。


「アルフレッドに依頼してた仕事も片付いたし、高い酒でも飲みたいね」


ヴィクトルが決して幸せになれぬように依頼していた。

最後は寒さに凍えながら犬として死んだと言うのだから溜飲が下がる。


「ヴィクトルは死んだ後どうなった?」

「花壇に埋められました」

「かっ、だ……! 棺桶に入れなかったの? そっか、犬だもんね、シロだもんね」


必死に笑い声を押さえるが、漏れ出る。

悪い事を考えている黒猫のように、笑う。

クライド様がこの顔で笑っている時は、本心から笑っているのではない事を、私は知っている。

笑顔の裏で殺意や怒りと言った負の感情を隠しているのだ。


「報告はそれで終わり?」

「いえ、次はフローレンス領の……」


領地での出来事を報告しながら、私は過去に思いをはせた。

昔は天使のように可愛らしかったクライド様も成人して久しい。

母親の件で色々あった。

精神状態が芳しくない時も、落ち込んで引きこもってしまった時も、私はお側に居た。

無事立派に成長なさって、私の大きな任務は終了を迎えた。


「今年は葡萄が豊作の様です」

「へえ、じゃあワインを沢山作ろうかな」


クライド様が普通に微笑む。

その笑みに安心し微笑み返す。

普通に笑う事が出来るようになったのはほんの数か月前。

笑い方を忘れたと猫のように笑うしか出来なかったのは、もう数年前。

信頼していた令嬢との婚約破棄でクライド様は精神を完全に病んでいた。

そんな中、アイリーン様との出会いがクライド様を変えてくださったのだ。


「農家は冬支度を終えたそうです。今年は例年より多く雪が降る予想です」

「そっか、うちでも雪対策しておかないとね」

「それから寒さ対策もしておきます。アイリーン様は寒さが苦手なようです」

「そうなの!? すぐやって! 最優先で!」

「……了解しました」


クライド様はアイリーン様の事になると目の色が変わる。

アイリーン様を見初めた日の事を思い出す。

社交界から帰って来たクライド様はベッドで悶絶していた。

時折呻き声を上げながら、ふわふわの茶色の髪ぃ! 触りたい! と叫ぶのだ。

誰の? と聞いても、名前は知らない! 聞けるわけない! と豪語した。

恋愛偏差値がゼロに近い。

女の落とし方は知ってるけど好きな子の落とし方は知らないと開き直った時は本当にどうしようかと……

次のパーティで無事に名前を聞けて少年のように喜んでいた。

アイリーン、と部屋で一人で呟いては恥ずかしがっていた。

直接言って下さい、と何度思った事か。

仕事に関しては勇猛果敢なのに、恋愛に関してはとても臆病だ。


「ねえ、アイリーンに何かプレゼントしたいと思ってるんだけど」

「それは良いですね」

「髪飾りがいいなあって思ってるんだ。最近髪が伸びたから」

「そうですね……まだそこまで長くはありませんから、飾りのついたヘアピンかカチューシャなら髪の長さに影響されないかと」

「カチューシャかあ、分かったありがとう」


今日の仕事を終えたのか、クライド様は鼻歌を歌いながら書類を片づけ始める。

クライド様は本当に妻を大切になさっている。

ライアン様とは真逆だ。

母君の一件は家柄と血筋だけを見て決めた政略結婚のひずみから発生した。

ライアン様がもう少し妻に気を使えていれば、クライド様がつらい思いをせずに済んだのかもしれない。


「どのお店が良いかなぁ」


ニコニコ普通に笑いながら、どのジュエリーショップに行くのか考えているようだ。


「私もお供いたしましょうか?」

「うん、できればアドバイスが欲しいかも。女性物のアクセサリーに疎いし」

「かしこまりました」

「いつなら買いに行けるかなぁ」


書類整理中に天を仰いで脳内で予定を確認している。

しかし、空いている日も時間も無かったようで眉を寄せた。


「だから宰相になりたくなかったのに……」

「引き継ぎの大切な時期ですので仕方ないかと」

「……合間の、休憩時間に行こう」

「余裕の無いスケジュールで満足のいくものが買えますか? 妥協したプレゼントをアイリーン様が身に着けるのですよ?」

「うぐ……アドバイスが的確過ぎるよ」

「悩みぬいた上でプレゼントされた物の方が喜びますよ」

「一日だけ早く帰れないか相談してみる……」


クライド様が深い溜息を吐く。

休みが少なくて疲れが溜まっているのかもしれない。

ふと外が明るくなった。

厚い雲の切れ間から満月がこちらを覗いていた。

クライド様を休ませる頃合いだろう。

その時、耳に僅かな金属がこすれる音が届く。

思わず腰の剣に手をかける。

扉がゆっくりと開いた。


「クライド様……?」

「アイリーン! まだ起きてたの? ダメだよ!」

「声が聞こえて……しばらく会ってなかったから会いたくて……」


そう言いながらアイリーン様は嬉しそうに微笑んだ。

クライド様は仕事が忙しく深夜帰宅が多い。

確かに最近会われていなかったかもしれない。

気が気じゃない表情のクライド様が何度か謝る。


「ごめん、寂しかった? 言い訳にならないかも知れないけど、忙しくて……」

「分かっていますよ。ふふ、今会えたので嬉しいです」

「ごめんね」


クライド様がアイリーン様を腕の中に収める。

……これはアイリーン様だけ知らない事だが、こうして抱き合われる時にクライド様はアイリーン様の髪に顔をうずめる。

匂いを嗅いでいるのはおまけで、髪のふわふわを感じて楽しんでいるそうだ。


「僕も会いたかったよ」

「前のように毎日会いに来てください」

「ダメだよ。帰り遅いし、それに」


クライド様はゆっくりとアイリーン様の膨らんだお腹を撫でた。


「今は大事な時期だし。僕よりこの子の事考えて」

「……寂しいです」

「本当は毎日会いたいよ。でも我慢してる……早く帰ってこられるように頑張るね」

「はい」


本当に嬉しそうにアイリーン様が微笑む。

クライド様が惚れた、あたたかな太陽のような優しい笑顔。

ゆっくり目を閉じる。

この方と共にある限り、クライド様はもう大丈夫だ。

私が支える必要も無くなるだろう。

役目が終わったのだ。


「ジュリ」


名を呼ばれて、ハッと目を開く。


「この子が生まれたら、ジュリに教育係になって欲しいんだ」

「私がですか?」

「うん。僕に剣や色んな事を教えてくれたのはジュリだから」

「軍人になりたいと言いだすかも知れませんよ」

「僕は子供の決めた事を否定しないから。むしろ応援する」

「アイリーン様はそれでよろしいのですか?」


アイリーン様は何度か自身のお腹を撫でる。

慈愛に満ちた母親の表情で微笑んでいる。


「クライド様の決めた事に異論はありません」

「そうですか……」

「勿論、ジュリさんが良いのならの話ですが……」


クライド様の子を教育する役目か……とてもやりがいのある仕事だ。

私は役目が無くなり必要ではない存在だと思っていた。

まさか新しい役割が与えられるとは思ってもみなかった。

私は膝をついて頭を下げた。


「謹んでお受けいたします」

「うん、よろしくね。産まれるのはまだ先だけど」

「何事にも準備が必要です。私の心の準備、それから部屋の設備を整えなくては」

「今から? まだまだ先だよ?」

「部屋の場所を決めましょう。改装します」

「気が早いよジュリ……まだ男の子か女の子かも分からないのに……」

「なら部屋を二つ下さい。男児用と女児用、二つ部屋を……」

「余計な物は作ったらダメ!」


怒られてしまった。

クライド様の事となるとついムキになってしまう。


「アイリーンは寝ないとダメだよ」

「ダメですか?」

「ダメ」


じっとアイリーン様がクライド様を見つめる。


「クライド様……何か良い事でもありましたか?」

「どうしてそう思うの?」

「いえ……楽しそうだなあと感じたので……」


確かにヴィクトルの死は喜ぶべき出来事だが、アイリーン様にはお伝えするつもりはない。

クライド様は笑顔のままゆっくり首を傾げる。

妙に勘が鋭いのはブラニング家の血によるものか。


「ちょっと仕事で良い事があったんだ」

「まあ」

「女性には分からない話かも」

「今度教えてください」


そう言ってアイリーン様は輝く笑顔を浮かべる。

クライド様の笑顔が一瞬だけ引きつる。


「うん、また今度ね。さあ寝よう」

「教えてくださらないんですか?」

「今日はもう遅いから」


クライド様がアイリーン様を連れて書斎を出る。


「お二方、おやすみなさいませ」


頭を下げ、見送る。

私は書斎に残り、満月を見上げ溜息を零す。

フローレンス家の今後を考えれば考えるほど楽しみで仕方ない。

取り敢えず明日から……部屋を改装し子供部屋を作らねば。

私は諜報員。そのうち子供の教育係。

これからが本当に楽しみだ。


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