前線指揮所
大蜘蛛が小曾木地区で動かなくなっている間に現地入りした陸自部隊は、続々と集結して防衛線を構築しつつあった。住民の避難も並行して行われ、その殆どを無人化する事に成功。やろうと思えばちょっとは無茶な作戦も出来なくはないが、まだそれが許される段階でもなかった。
統幕は現地に設置した指揮所に対し、八高線から首都圏中央連絡自動車道と青梅線を結ぶ一帯を暫定的に第一次防衛ラインとして選定するよう指示。目標をまずその周辺に押し止め、特科陣地の構築や部隊集結を急がせた。
入間基地 前線指揮所
青梅警察署に飛び込んだ3人は紆余曲折を経てここに辿り着いていた。ここを取り仕切るよう命じられた富士学校の柳尾一等陸佐は、その3人の話を聴いて動揺を隠せていなかった。
「……つまり、あれは旧軍の忘れ形見みたいな物だと?」
「表現としては間違っていないでしょう。望まれつつも最後は望まれなくなった存在が公衆の面前に晒される前に、自分たちが産み出してしまった戦争の闇を葬ろうと、自らの落とし前を着けようとする直前、彼らは身内の毒牙に掛かりました」
遠慮なく物を言う下河原の隣で、茜はただ俯いていた。加川は居心地悪そうに指揮所内をキョロキョロとしている。
「この女性もまた、戦後75年も引きずられた闇の一部に囚われていました。私たちよりはそちらの方が幾分かお詳しいと思いますので、持ち出せた資料をお渡しします」
逃げ出す直前、どさくさに紛れて持ち出した書斎の資料を彼らに渡した。誰も手を伸ばそうとはしなかったが、自衛隊病院から来ていた医官の1人が本を捲る。暫く長めた後、苦虫を噛み潰したような顔で小さく呟いた。
「……百穂正二郎博士が関わっているのか」
その言葉に、柳尾一佐が反応した。
「医官、何か知っているようだが?」
「生物学界。いや、医学界においても異端中の異端と言われた、知る人ぞ知る存在です。種の異なる昆虫を切断してくっつけ合わせたまま生き長らえさせたり、それを人間にも応用して切断された四肢や体の再結合を提唱した、本物のマッドサイエンティストとして名を馳せた歴史上の人物ですよ」
医官は茜に近付き、やんわりとした口調で問い掛けた。
「失礼ですが、どういったご関係ですか」
「……高祖父の親類と言う事以外、詳しくは存じません。日露戦争の際に軍医として従軍され、大陸で戦死されたと聴いておりました」
どうやら彦衛門すら存在を隠したかった人物のようだ。とは言え、正二郎が蓄積したノウハウが大蜘蛛に注ぎ込まれたのは確かである。大蜘蛛は意図せず、百穂家が蜘蛛師として築き上げて来た技術・知識・人脈の集合体とも言える存在になったのだろう。
「センセイ、そう言えば役場で説明されたあの本、何て題名でしたっけ」
「松林さんが教えてくれたヤツですか?確か日本固有生物年鑑だったような」
その題名を口走った途端、医官がこちらを振り向いた。
「元々は昆虫学者だった百穂博士が最初に手掛けた著書ですね。現存している物は少なく、東大と防衛大、後はその筋の研究機関が僅かに保管している、恐らく日本国内に10冊以上は無い本ですよ」
御家を再び日本の政治中枢に食い込ませるため、各方面に輩出された関係者たち。ヒャクスイジグモの存在を、日本の固有種として認知させようとしたのかまでは分からない。だが彼らの行って来た事は今この瞬間において、百穂家が日本の政治中枢へ影響を及ぼす存在となる夢を皮肉にも実現させていた。
「その辺の詮索は全てが終わってからにしよう。今は取りあえず、あの大蜘蛛が周囲へ被害を齎す前に仕留める算段をしなければならん」
柳尾一佐の発言によって、指揮所内の緊張は取り戻されていった。話が作戦に関する物へ移り出した段階で、3人は指揮所の隅に用意されたパイプ椅子に腰を落ち着ける。
「センセイ、これで良かったんですかね」
「全部終わったら、詳しい人間たちが調査してくれるでしょう。我々が首を突っ込めるのはここまでだと思います」
茜は相変わらず俯いたままだった。女性隊員が差し入れてくれたお茶を受け取るも、無言を貫き通している。
「茜さん。難しいでしょうが、気にしなくていいんです。これはあなたの責任ではありません。実際問題として、地下で行われていた研究にあなたは何も加担していないじゃないですか」
下河原がそう語り掛ける。しかし、反応は無かった。下河原と加川がどうしたもんかと考え始めた所へ、バインダーを脇に抱えた陸自隊員が指揮所に飛び込んで来る。
「地上部隊の展開、約20分で終了予定です」
「分かった、最終調整を急ごう」
滑走路ではAH-1Sへ燃料弾薬の補給が大急ぎで行われていた。第4対戦車ヘリコプター隊は所属する全機が展開しており、壮観な眺めである。第1師団のUH-1もその横で重機関銃に弾薬を流し込みながら燃料の補給を受けていた。
「各戦車戦闘群、準備完了次第報告せよと伝えろ」
「了解、各戦車戦闘群、準備完了次第報告せよ」
「良し」
前面に布陣する戦車隊の展開は既に終了。教導団だけではなく、第1戦車大隊も加わった計4個戦車戦闘群が正面戦力となる。これらの射界に大蜘蛛を収めるため、今度は対戦車ヘリによる誘導を行う事が決まっていた。
「普通科戦闘群、各所に重迫陣地の構築が完了」
「空自第3飛行隊は既に上空待機中です」
「特科の到着はどれぐらいになる」
「約1時間後と言った所でしょうか。道路事情もありますので、目安程度に考えなければなりませんが」
「となると、間接火力は暫く重迫頼りになるか」
まだ幾らかの時間稼ぎが必要に思えるが、大蜘蛛がいつまであそこに居るかは分からない。ここは少しでもダメージを与えて、ヤツを封じ込めるのが先決だ。
「迷っていても始まらん。早急に火力を投射して目標を封じ込めよう。上手くいけば、ここにある兵力だけで仕留められるかも知れんぞ」
「ヘリ部隊が離陸します。到着まで十数分の予定」
「各戦車戦闘群、準備完了との事です」
陣容は整った。正面に配置された戦車4個中隊、総勢48両が全ての砲口を睨ませている。10式戦車2個中隊と74式戦車2個中隊からなる機甲戦力だ。後方にはこれ等の戦車隊を支援するため普通科戦闘群の重迫小隊が射撃陣地を構築して待機している。
「ヘリが配置に就き次第、攻撃開始を許可する。それまで各隊は現在地を動くな」
「了解、伝えます」
嘗て、先人たちが日本を護るために作り上げ、戦争の終結と共に闇へ葬ろうとした存在は、当人たちの意思に反した心無い使い方をするため、70年以上も生かされ続けていた。それが白日の下に晒された今、現代を生きる我々にとって厄介極まりない存在であるのは間違い。
そして、戦後の日本を護るために結成された組織が旧軍の忘れ形見を葬ると言う、誰も望まなかった尻拭いを始めようとしていた。




