生ける伝説、地上へ
倒壊する屋敷から逃れた下河原と加川、警官たちは段々畑を駆け下りて屋敷がちょうど見上げられる位置にまで辿り着いた。座り込んで息を整えつつ、怪我の有無を確認していく。
「2人とも怪我はありませんね」
「こちらは大丈夫です」
ふと、状況が良くない事に気付いた。これでは不審者そのものである。それに特殊な背景があったとは言え、立派な住居不法侵入と手製火炎放射器の所持で何かしらの現行犯だ。これは非常に拙い。どうやって言い訳するか考えていると、誰かが素っ頓狂な声を出した。
「は、班長、何ですありゃ」
1人の警官が山の上を指差す。同時に昇って来た太陽が、山の上に陣取る何かを照らし出した。
「……絵巻の大蜘蛛そのままだ」
研究室にある【百穂大蜘蛛絵巻】に記された、山の山頂から村を見下ろす大蜘蛛の光景を思い出した。しかし、あの絵巻では村の守り神として描かれていたが、今あの蜘蛛にどんな感情が備わっているなど誰にも分かる筈がない。どちらかと言うと、役目を終えたのに70年以上も無理矢理に生かされ続けた、人間に対する怒りを持っている可能性の方が高いだろう。
「せ、先生。あいつ、何をする気だと思います」
「そんな事、分かりませんよ」
眼下に広がる村の風景。ここが自分の故郷であると言う、僅かな記憶は残っている。だが自分を全てから解き放ってくれようとした人たちの記憶は既に失くしていた。
しかし、そんな事はもうどうでもいい。今ここに居るのは理性あるクモ吉ではなく、本能のまま行動する本来の虫に戻ったヒャクスイジグモである。少し違う所があるとすれば、長年に渡って蓄積された【怒り】の感情が支配している事だ。
「こっちに来るぞぉ!」
大蜘蛛は山を勢い良く駆け下りる。8本の足で器用にバランスを取りながら、木々を薙ぎ倒して屋敷の頭上を通り過ぎた。意外に素早いそのスピードで追い付かれた下河原たちは、地面に伏せて大蜘蛛をやり過ごす。
「伏せろ!伏せろ!」
「地面に伏せろ!早く!」
下河原たちに見向きもせず、大蜘蛛は村の中心部へと突進していった。中心部には極小規模ながら商店街が林立しており、ここを破壊されれば経済的だけではなく人的な損失も計り知れない。そんな場所に大蜘蛛はまるでスライディングするように突っ込み、店や人家を寝ていた村人ごとひき潰していった。
「警報だ!本庁と県警本部の両方に緊急連絡!」
「何て伝えますか!?」
「緊急事態と伝えろ!どっちにしろ俺たちの手ではどうにも出来ん!」
「班長!あの2人が居ません!」
周囲を見渡すと、黒い作業着を着ていたあの2人が居なくなっていた。何人か捜索隊を編成しようとも思ったが、今成すべきは村人の安全を確保する事である。それにあの感じは恐らく外の人間だ。であれば申し訳ないが、優先順位としては村人の方が上だと判断する。
「余裕が出来次第で捜す!今は住民たちの安全確保が最優先事項だ!関係各方面に連絡を急げ!」
乗って来たミニパトに分乗した警官たちは、村の中心部へと急いで引き返して行った。その様子を田んぼの窪みから窺っている2人組が居る。警官の視線を掻い潜って身を潜めていた下河原と加川だ。
「行きましたね」
「どうしますセンセイ。これじゃあ会社に戻った所で、あれが都心に攻めて来たら記事を書く所じゃありませんよ」
「それは自分も同じです。レポートなんて書いている暇はないでしょう」
2人は取りあえず、茜の待つ離れへと急いだ。元来た道を足早に戻ると、屋敷の壁に持たれかかって座り込んでいる茜を発見する。
「茜さん!」
「大丈夫ですかい!どうしました!」
顔色が悪い。どうやら大蜘蛛を目の当たりにした事で、親族がどれだけ恐ろしい秘密を隠していたか衝撃を受けたのだろう。視線の先に暴れる大蜘蛛を捉えながら、ゆっくり話し始めた。
「……信じていなかったんです。本当は、禄でもない何かを隠しているんだと、そう思っていました。けど、あれを見た以上は受け入れざるを得ません。私はどうやって責任を取れば」
「そんな事、今はどうでもいいです。我々が出来るのは、被害を少しでも抑える事と、アレをどうにかして葬る方法を考える事です。それが罪滅ぼしになるでしょう」
「まず離れに戻りましょうぜ。着替えて車を出さないと」
茜を担いだ2人は離れへの道を急いだ。後部座席に積んでいた物を幾つか下ろし、茜が乗るスペースを確保する。3人を乗せた車は一気に加速して、段々畑の下に向かい突っ走っていった。
鋭い爪を地面に突き刺し、力任せに振り回すと家々が面白いように吹き飛ぶ。中で寝ていたであろう人々も同時に宙を舞った。人の命を奪っていると言う意識もなく、怒りに任せたまま破壊を繰り返した。建物が崩落して更地になっていくのを楽しむかの如く暴れ回る。
『こちらは百穂村役場です!直ちに屋内から避難して下さい!巨大生物が商店街を襲っています!急いで周辺の田畑まで逃げて下さい!』
何か聴こえるが、理解出来るほどの理性も残っていなかった。頑丈そうな建物を破壊するたびに押し寄せる快楽へ身を任せる。商店街の殆どを破壊し尽くし、次はその声が聴こえる方へと足を向けた。
「係長!こっちに来ます!」
「外に出ろ!早く逃げるんだ!」
防災無線を流していた早朝出勤の人間たちが役場から逃げ出す。それとほぼ同時に大蜘蛛が役場へ突っ込んで来た。逃げ切れなかった何人かがその巨体により押し潰されてひき肉のように成り下がる。そんな事には構わず大蜘蛛は前進して破壊を続けた。
『百穂村警察よりお伝えします!住民の皆さんは直ちに村外周部へ避難して下さい!現在この村は未知の脅威に晒されています!自身の安全確保を最優先に行って下さい!』
鳴り響くサイレンによって目を覚ました人々が家の外に出始めた。巨大な蜘蛛が村を破壊する非日常的光景が目に飛び込み、何が起きているかを理解する前に避難を促されてその足を速める。
「どうやってあそこまで成長させたんでしょうねセンセイ」
「眠らせながら色んな成長剤を投与し続けたんでしょう。この記録から見るに、数年に1度覚醒させては凶暴性を強めていったように書かれています」
3人が乗る車は暴れ回る大蜘蛛を右に捉えつつ、村外周部のあぜ道を走り続けた。ヤツが村の外に出る前に、麓の警察署か何かに駆け込んでこの事態を伝えねばならない。ガタガタと揺れる車内から、茜は茫然自失と言った表情で大蜘蛛を見つめていた。
「……源一さんは、どんな気持ちであの蜘蛛を育てていたんでしょうか」
「少なくとも、現在に至るまで生かし続けていた人間たちよりは深い情を持っていた筈です。だからこそ、苦しまずに死なせてやる方法も1人で考えていたんでしょう。それがクモ吉をあそこまで大きくしてしまった自分たちに課せられた使命だと考えての行動だと思いたいです」
「議論はその辺で。ちょっと飛ばしますから舌噛まないで下さいよ」
車はスピードを上げて大蜘蛛を追い越した。村に入って来た時と同じ道を辿り、奥多摩へ通ずる接点まで到着。そのまま麓を目指して不安定な道を下り続けた。
その頃、百穂村警察からの緊急連絡で警視庁・埼玉県警の両ヘリが飛び立っていた。下河原たちが青梅警察署に飛び込んで事情を説明するも相手にされず、ロビーで項垂れていると真っ先に現着した埼玉県警のヘリから飛び込んだ第一報により、受付の若い警官が血相を変えて3人の所まで走り寄る。
「さっきから何度も説明したじゃないですか!とにかくここも危険なんです!」
「ちょっと待ってくれ!一体全体何が起きてるんだ!その大蜘蛛ってのは何なんだ!」
「詳しい事を話している暇はありません!早くこの辺の住民を避難させて下さい!」
口論している所へ、更に続報が入った。大蜘蛛は村から出て青梅線に沿って南下を開始。村は大蜘蛛の噴出した糸が倒壊してない家にも降り注ぎ、住民が閉じ込められて救助活動が難しそうだと言う情報が齎された。それから間も無く、ヘリから発せられた「糸が!」の声を最後に交信が途絶えた。
埼玉県警航空隊が最後に発した声から遅れること10分。警視庁航空隊のヘリが南下を続ける大蜘蛛をカメラに捉えた。ヘリは本庁に対して直ちに増援を要請。続いて飛び立ったヘリが百穂村の内部に墜落し炎上する埼玉県警のヘリを発見している。この事から、あの大蜘蛛により何らかの攻撃が行われた可能性が示唆され、ヘリから送られた映像は直ちに警察庁を通して内閣官房へと上げられた。
首相官邸
正面入り口から入って来る総理を含めた一団は、足早に地下の危機管理センターへと向かった。メインパネルに投影される大蜘蛛を見た瞬間、誰もがその足を止めて映像に見入る。
「……何が起きているんだね」
総理大臣こと沢村良和は、自身の脳が情報を処理し切れないのを感じつつ官房長官に訪ねた。あの大蜘蛛が百穂村に突如として出現した事、村が壊滅的打撃を受けた事、埼玉県警のヘリが墜落して乗員の安否が不明な事、目標が青梅線に沿って南下中である事、また青海警察署に駆け込んだ謎の男女3人組が居る事までを説明される。
「その3人組は何者だ」
「背後関係はまだ分かっていませんが、女性の方はどうやらあの大蜘蛛に関係があるようです。いやそれもそうですが、大蜘蛛に対する処置をいかが致しましょう。現状としてこの異常事態に対処出来る法令は存在しませんし、あれを警察力でどうこうはまず不可能と言っていいでしょう」
「巨大な殺虫スプレーでもあればいいが、そんな物を作ってる間に何らかの被害が起きるのは明白だ。米軍もあんな物を相手に死人を出したくないだろう。ここは我々だけの力で何とかしなければなるまい」
沢村は危機管理センターに居る全員に聴こえるよう、大きな声で話し始めた。
「直ちに緊急対策本部の設置を宣言する!まだ登庁していない職員にも速やかに集まるよう連絡してくれ!それと防衛大臣を大至急で私の元まで寄越して欲しい!」
在任中に4回の大地震と5回の巨大台風に対処をして来ただけあって、抜群のリーダーシップだ。しかし、この異常事態に沢村が対応を続けられるかどうかは自分たちにも掛かっている事を、官邸のスタッフたちは改めて実感していた。




