第1話
―――ニュルンベルグの居城・シェヴェリーン城にて。
「何事じゃ……」
窓下から響く騒がしい音に気づき、四天王の一人・沙羅夜が、螺旋階段をゆっくりと降りてくる。石畳に足音が静かに響き、空気が張り詰めていく。
城内の広場では、漆黒と銀のモノトーンの鎧を纏った男が、一頭の巨大な獣に跨って立っていた。その異様な風体に、周囲の兵たちは剣を抜き、囲んでいる。
夜の風が松明を揺らし、長い影が地面を這うように広がった。
「だからガジマル、止まれって言ったろ。どうして城門の中まで……」
ミロイは頭を掻きながら呟いた。
最近、ペットのガジマルが反抗期で、なかなか言うことを聞かない。
「沙羅夜様、これを……」
兵の一人が前に進み出て、荷車に載った二つの亡骸を指差す。布はすでに外され、晒された若い兵士の顔には凄惨な死の痕が刻まれていた。
「これは先刻、城内で暴れたライザを届けに行ったものたちで御座います」
「なにぃ、……なぜにこないな惨いことを……」
沙羅夜は、大きな獣の上の、痩せた男を睨んだ。
「ごめんなさい。これは事故で……」
ミロイはガジマルから降り、ぺこりと頭を下げる。
「うぬ、謝って済むとでも思うとるんか」
沙羅夜の声には、艶やかな怒気が混じる。
「でしょうねぇ」
ミロイは苦笑しながら観念したように答えた。
「やっぱり無事には済まない……ですよねぇ」
その気の抜けた態度に、血気盛んな兵が剣を抜き、「貴様ぁ~!」と叫んで斬りかかった。
ミロイはその兵に背を向けたまま、ガジマルに巻かれた荷車の綱をほどいていた。
すると、勢いに釣られて周囲の兵たちも剣を抜き、一斉にミロイへと迫る。
最初に斬りかかった兵の剣が頭上に振り下ろされた瞬間、ミロイが振り返り呪文を唱えた。
「スリープ!」
――速い。
『スリープ、スリープ……』――その声と同時に、兵士たちは剣を掲げたまま、まるで凍りついたかのように動かなくなった。
「シャドーフレ……」
ミロイが次なる呪文を唱えかけたそのとき、
「待たんか!」
沙羅夜の鋭い制止が飛ぶ。ミロイは肩越しに沙羅夜を振り返った。
「うぬの魔法が炸裂すれば、我が兵も無傷では済まん。――どうじゃ、取引をせんかえ?」
「取引?」
「そうじゃ。うぬがここで喉を斬り、自害すれば……今回の件、あたいが水に流してやるぞ」
「自害……?」
「そして、うぬの仲間を追うのもやめよう。――どうじゃ?」
「本当に、これ以上は?」
「ああ、この沙羅夜が約束するわ。あたいは嘘は嫌いでな」
「沙羅夜さんて、四天王の一人……?」
「そうじゃ」
「……わかりました。四天王の方がそう仰るなら、間違いないですよね」
ミロイは魔法剣を抜き、刃を喉元に当てる――沈黙が流れた。
「あはははっ!」
突如、沙羅夜が笑い声を上げた。
「うぬ、演技が下手じゃのう。そんな目で、本気で死ぬ者がおるかいな」
ミロイは剣を下げ、苦笑いを浮かべた。
「やっぱりバレちゃいましたか。僕が自害なんてするわけないでしょ」
「なんでじゃ?あたいの話が嘘だと思うたか?」
「僕の命と引き換えに仲間を助ける――そんな釣り合い、全然取れてませんよ」
ミロイは沙羅夜と会話しながら、城門付近の兵士の数を数えていた――十六。
「うちのクランは、自分の死よりも、仲間の死をすごく悲しむんです」
ミロイは静かに呟きながら、逃走経路を思案していた。
(門前の兵に範囲魔法をぶち込んで、その隙にガジマルの首にしがみついて、外の闇に紛れれば……)
「だから、僕は、死ぬわけはないんですよ」
ミロイは覚悟を決め、魔法剣を強く握り直した。
「あっ、あそこに黄色いドラゴンが!」
沙羅夜の背後を指差すと同時に、ミロイは門の方向へ飛び退き、
「デステンペス……!」
バフ系最強攻撃魔法――呪文の詠唱を始めたその瞬間、背中に何かがぶつかり、ミロイの体が前のめりに崩れた。
「な……なにぃ!?」
振り返ると、彼の胸元には、沙羅夜の細い背中がするりと入り込んできた――速い。
「ぬしは、ほんま演技が下手じゃのう……あたいのかわいい兵たちを傷つけるのは、見過ごせんなぁ」
沙羅夜は、ミロイの胸に自分の背を預け、甘えるような声で囁く。
ミロイの右腕――魔法剣を持った腕は、沙羅夜の白く細い指に絡め取られていた。
見た目とは裏腹に、その指は鋼のような圧で、まるで蛇のように関節ごと封じ込めていた。
「さぁて、ここからどうするんよ?その空いてる左手で、ぬしの背に隠し持った小刀でも抜いて、あたいの喉を斬ってみるかえ?」
沙羅夜は首筋越しに顎をしゃくり、悪戯っぽい笑みを浮かべた。乱れた髪が額にかかり、妖しくも凛とした、美しい横顔が目に映る。
(こんな格好を兄やんに見られたら……)
ミロイは苦い表情を浮かべた。
(まずは沙羅夜を突き飛ばして、空間を作って主砲の魔法を……)
「うっ……!」
視界が暗転し、膝が抜けた。
「んっ?」
沙羅夜はすぐに振り返り、ミロイの腰に腕を回して支える。
「ぬし……病か?」
ミロイは青ざめた顔で微かに頷いた。魔法剣が手から滑り落ち、もはや自力で立つことすらできなかった。
「こんな身体の者を、一人で敵地に送り込むとは……あんたの将は、しょうもないやっちゃねぇ」
「そう……ですよねぇ」
ミロイは目を閉じたまま、力なく同意する。
「兄やんは、楽なことしかしないし、カッコつけてばっかりで、面倒なことはみんなに、みんなに任せて……」
沙羅夜はその言葉に、ふっと目を細めた。言葉と裏腹に、その者への深い信頼すら感じられた。
「それでも、兄やんのそばにいると……なんか勇気が出るっていうか、……カッコつけなきゃって」
「それで、うぬは、そんな身体で……死にに来たんか?」
ミロイは遠のく意識の中で仲間の顔を思い浮かべた。
「……いえ……けど、もうダメかも。……みんな……兄やん……ごめ……」
沙羅夜の腕の中で、彼は静かに意識を失い、頬に涙が伝った。
その異変に気づいたガジマルが激昂し、門兵をなぎ払いながら、唸り声を上げ、城外の闇へと駆けていった。
ミロイが、消え入る意識の中で最後に聞いたのは、沙羅夜がリオナを呼ぶ声だった。
沙羅夜の指先が、ミロイの濡れた頬にそっと触れた。
「これもまた、世迷言かねぇ……」
その横顔に、燃え残る松明の光が揺れていた。




