(モノローグ・キシュウ)命を扱うということ、医師の苦悩
俺はレスタの町で医師として治療院をやっているキシュウという。
先生などと言われているが、自分はロクな生き物ではないと思っている。
なぜならば、俺は人の命を金で助ける。金のない奴は助けない。実にシンプルで分かりやすい判断基準だ。
金でしか動かない俺はプロフェッショナルとしては正しいだろうが、人間としてはどうなのかと思う。
だがそれがプロフェッショナルとして正しいことなのだと考えるようにしている。
俺は生活するには十分な金を稼いでいたし、金にガメツイというわけでもない。
そんな俺がなぜ頑なに金でしか命を助けないのか。それは、医療は公平であるべきだと思うからだ。
確かにボランティアで命を助けることは一見素晴らしいことのように見える。
しかし医療は有限の資源だ。
全員に等しく行き渡らせることは不可能だ。
高度な医療技術になればなるほど、無理だということはわかるだろう。
仮に俺が難病の子供をタダで治療したとしよう。
一方で同じ難病を患っていた別の子供が、俺の知らないどこかで死んでいくのだ。
そして、そこに公平性はない。俺が気まぐれで救ってしまったばかりに、不公平が生まれてしまう。
だから俺は、公平性の担保として金でしか命を救わない。
スラム街の子供たちが毎日のように死んでいるのは知っている。
そんなことはこの町の常識だ。
俺ならば確かに助けられる命は沢山あるだろう。
だが、手が回らなくて助けられなかった命に対して、どう言い訳をするのだ?
「金が無かったから助けなかった」という言い訳はできなくなる。
それ故俺は、金という公平性の担保は医師にとっての最後の砦だと思い生きてきた。
そして俺はせめてもの罪滅ぼしとして、スラム街の子供たちにパンを配るゼラリオン教の教会に寄付をし、ゴライアス神父に懺悔をして罪悪感を紛らわすしかなかった。
だが最近、そんな俺の医師としてのポリシーを揺るがす出来事があった。
それは、ケイゴオクダという不思議な男の存在だった。




